和尚のひとりごと「伝道掲示板360

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”「ここはあまりに寒い」
「これでは暑すぎる」
「既に夕刻であり、時既に遅すぎる」
そのように若者がすべき事柄を放棄し続けるならば
時間は実にむなしく過ぎ去ってゆくだろう。

彼がまたそのような事に煩わされずに、気にも留めないならば
人として為すべき事柄を行い、結果として安楽の境地を得られるだろう。”

マータンガプッタ長老の詩偈より

和尚のひとりごと「伝道掲示板359

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法による勝利とは何か?
”古の神々は戦いに明け暮れていた。
ある時、戦いに劣勢であった帝釈天は
阿修羅の手を逃れて敗走していた。
すると行く手に鳥の巣がある。
鳥の巣を壊してしまう事を避けようと
帝釈天は自らの命が失われることをも恐れずに進軍を断念して引き返した。
結果的には帝釈天は勝利を治めたという。
これこそが「法による勝利」であると言われる。”

釈尊はこのように弟子たちに語った。

和尚のひとりごと「伝道掲示板358

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”器に入れられた水が沸き立っていれば
その水面に自らの顔をありのままに映すことは困難であろう。
同様に、人の心が瞋恚(いかり)に曇らされていれば
ありのままの姿を見ることはし難い。

また水面に苔が浮かび、浮草があれば
自らの顔をそのありのままに映すことは難しい。
同様に、人の心が愚かさや疑いで満たされていれば
物事をその姿のままに見ることはし難い。”

和尚のひとりごとNo607「法然上人御法語後編第十三」

無比法楽(むびほうらく) 勅伝第25巻
比べるものなき、仏の教えの有難さ
【原文】
一々(いちいち)の願の終わりに、「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」と誓(ちか)い給(たま)えり。然(しか)るに阿弥陀仏、仏になり給(たま)いてよりこのかた、すでに十劫(じっこう)を経(へ)給えり。当(まさ)に知るべし、誓願(せいがん)虚(むな)しからず。然(しか)れば、衆生(しゅじょう)の称念(しょうねん)する者、一人(いちにん)も虚しからず往生する事を得(う)。もし然(しか)らば、誰(たれ)か仏(ほとけ)に成り給える事を信ずべき。
三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)なりといえども、一念(いちねん)すればなお往生す。五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人なりといえども、十念(じゅうねん)すれば往生す。いかに況(いわん)や三宝(さんぼう)の世(よ)に生まれて五逆を造らざる我(われ)ら、弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えんに、往生疑うべからず。
今この願に遇(あ)える事は、実(まこと)にこれおぼろげの縁(えん)にあらず。よくよく悦(よろこ)び思(おぼ)しめすべし。たといまた遇(あ)うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給(たま)えり。往生疑い思(おぼ)しめすべからず。必ず必ず二心(ふたごころ)なく、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、このたび生死(しょうじ)を離れ、極楽に生(う)まれさせ給(たま)うべし。
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 無比法楽(むびほうらく)
「無比」は、他に比べるものがないほど、
「法楽」は、仏の教えを信受し、味わい、行ずることから生ずる楽しみのこと。

「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」
修行時代の阿弥陀仏である法蔵菩薩が、衆生救済の為に立てた四十八願のいちいちについて、もしその願が成就しなければ悟り開くまいと誓った事。


三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)
法滅に同じ。隋代の那連提耶舎(なれんだいやしゃ、ナレーンドラヤシャス)訳になる『大集経(だいじっきょう)』月蔵分(がつぞうぶん)などに説かれている法滅思想によれば、仏教は正法、像法、末法の三時を経て三宝の滅尽を迎え、仏教そのものが失われるという。それは

五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人
五逆罪(五つの思い罪)のこと。『倶舎論』によれば、母を殺めること(殺母)、父を殺めること(殺父)、悟りを開いた仏弟子を殺めること(殺阿羅漢)、仏の身体を傷つけ出血させること(出仏身血)、修行者の和合を破ること(破和合僧)を指す。



(彼の阿弥陀如来がかつて因位の菩薩であった頃、衆生救済を目的とした四十八の誓願を誓われました)
その願のひとつひとつの最後にこう誓われています。
「もし私がこのように立てた願いが実現しないならば、正しい本当の覚りは開くまい」。
そして彼の阿弥陀仏は、正覚を得て仏陀となられてより、今既に十劫にも及ぶ長い年月が経っています。まさしく知るべきであります。彼の仏の誓願は中身の伴わない絵空事(えそらごと)ではないという事を。だからこそ衆生の中で、念仏を称える者は、一人残らず浄土への往生を得るのであります。もしそうでないとしたら、誰が彼の菩薩がすでに仏となったという事を信じられるでありましょうか?
仏教において尊重し護持すべき三つの宝が失われてしまう時勢でさえも、たった一度、念仏をすれば往生します。五つに数えられる大変重い罪を犯してしまう人でさえも、十回の念仏で往生を遂げます。ましてや仏教の三つの宝がいまだ存在する世界に生を受け、五つの重罪を犯すことのない私たちが、阿弥陀仏の御名を称えれば往生できるという事を、疑うべきではありません。
今まさにこの本願に出遭えた事は、誠にありきたりなご縁によるものではないのです。この事を心に刻み、悦びの念をお持ちなさい。そしてたとえ尊きご縁によりて本願に出遭えたとしても、もしそれを信ずる事がなければ、本願に出遭わないのと同じであります。今心からこの本願を信じているあなたは、ご自身の往生がかなう事に疑いの念を持ってはなりません。必ずこの本願に背く心を持つ事なく、よくよくお念仏を申しなさって、今生の生を最後として再び迷いの世に戻ることなきように、極楽浄土で新たな生命(いのち)を得て下さい。

三宝が確かにあり、尊き仏法へのご縁を結べる事自体が、有難きことである。ましてや阿弥陀仏の尊き本願に出遭えることが如何に得難き僥倖であるか。
改めてこのことに思いを馳せる時、誠の信心の大切さを実感するところであります。

和尚のひとりごと「伝道掲示板357

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”婆羅門が問うて云わく。
時に心は澄み渡り
学んだことも実によく理解できている。
しかし時には心が混迷し
何一つ理解できない事がある。
これはどういうことであろうか?

釈尊は答えて云わく。
ここに水を湛えた器があるとしよう。
それが赤や青色に染まっていたら
その水面に自らの顔をそのありのままに映すことは難しいだろう。
同様に、心が欲によって濁らされている時には
ありのままに映らないのである

和尚のひとりごと「伝道掲示板356

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”不運に遇った為でもなく、恥知らずであった為でもなく、気まぐれの為でもない。
親族より追放の憂き目にあった為でもなく、また生計を立てる為でもない。
他ならぬ”心”の求めに応じて、私は出家したのである。

「欲が少ないこと、隠し立てをしないこと、苦しみを鎮め止めること」
これらかつて正しい人によって称賛された事柄を示した
その”心”に従って私は出家したのである。”

ターラプタ長老残した言葉より

和尚のひとりごと「伝道掲示板355

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”肉と筋とで縫い合わされた骸骨の小舎、そして悪臭を放つこの身体はじつに厭わしきものである。
皮に覆われただけの袋、この不浄なるものを
清らかさを求める修行者は常に注意深くそれを避けるであろう。”

マハー・モッガッラーナ長老(摩訶目犍連 まかもっけんれん)は舎利弗と並ぶ二大弟子。
その言葉として残されている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板354

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釈尊はシャーリプトラに告げた。
”常に眼を下に向けて、うろつき回るな。
瞑想に専念し、眼を覚まして、
心は平静に保ち、精神を安定させて、
思い煩いと欲望と悔恨を根絶やしにせよ。

他人より忠告を受けた際には、落ち着いて感謝の念を持て。
共に道を歩む者たちに対して荒(すさ)んだ心を持ってはならない。
善い言葉を発し、その場に相応しくない言葉を慎め。
他人を謗(そし)る気持ちを持ってはならない。

世間には五つの塵芥(ちりあくた)が存在する。
すなわち眼に見える色形と、耳に聞こえる音声と
舌で感じる味と、香りと触れられる対象である。
これらに対する貪りを抑えて、よく制するように。

修行者たる者は、よく注意してこれらの対象に対する欲を抑え
とらわれの無い自由な心を持て。
適切なときに物事の道理を正しく心に刻み
精神を統一して、暗愚を滅ぼすようにせよ。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板353

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釈尊がシャーリプトラに告げた言葉。
”智慧を第一に重んじて、善きことに喜びを感じて
目の前の危難に打ち克て。
僻地に住まうことの不快に耐え
次の四種の憂うべき事柄によく耐え忍べ。

「さて、何を食べようか」
「どこで食べようか」
「昨晩は眠りつけなかったな」
「今晩はどこで寝ようか..」
そなたは家を捨てた者である。
これらの思いを抑制し克服すべきである。

適度なときに食物と衣服を得て
少ない食物と衣服とで満足して節度を知る。
衣食に対して恣(ほしい)ままならず
村落にあっては慎み深くあり
たとえ罵られても荒々しい言葉で返してはならない。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板352

 kokoro

釈尊はシャーリプトラに告げた。
”病に罹(かか)り、飢えに苛まれても、寒さや暑さに襲われても
今や「家なき人」となったそなたは耐え忍ぶべきである。
勇気をもって、確かなる努力をして進むべきである。

盗んではならぬ、嘘を吐いてはならぬ
弱き者、強き者、およそ全ての生きとし生ける存在に対して慈しみを持て
自らの心に混濁を生じるときは、それは悪魔の一味であると思って
これを斥けよ。

自らの心に生ずる怒りや高ぶりの心に負けるな。
それらをその根元から抜きされ。
快きもの、不快なもの、その両者に打ち克て。”