和尚のひとりごと「伝道掲示板274」

袈裟被着偈

前出『四分律行事鈔』より。

大いなるかな、解脱服よ
無相なる福田衣よ
つつしんで被り如戒を行じ
広くもろもろの衆生を度せん

解脱へと導く袈裟を頂き、その徳を讃え
自ら戒を行じて、広く衆生を覚りへと導かんと願う。
袈裟を被着する際に唱えるべき偈文であり、あるいは、法要の前に意義行相を整えた一同で唱和する。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板273」

七仏通戒偈

“もろもろの悪を作すことなく、もろもろの善を行ずるここと
自らその意(こころ)を浄めること
これが諸々の仏たちの教えである”

過去七仏は釈尊を含めたかつての覚者(フッダ)たち。
その七仏の教えに共通する精神、仏教の戒の根本がここに説かれている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板272」

光明名号の文

善導大師『往生礼讃』
「弥陀世尊、本発の深重誓願、光明名号をもって十方を摂化したまう」より。

弥陀の光明と名号こそが往生の為の善縁となる。
四十八願の中、第十二光明無量願により、阿弥陀仏の救いのはたらきを示す光明が全ての世界を照らしている事が約束され、第十八念仏往生願により、念仏によって往生が叶うことが保証されている。
『観無量寿経』に基づく「摂益文」と大意が重なる為、代用される事もある。

 

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板271」

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呪願(じゅがん)
釈迦の誠の教え、声聞乗・縁覚・菩薩の道を歩む賢者たち
ならびに目連尊者にこうべを垂れ敬礼いたします。
我は今まさにそれらの教えを承けることにより親の恩に報いて
慈悲心を奮い起こして仏徳を讃え奉らんと願います。

施主のために願意を述べる為に、盂蘭盆会の表白に続き唱える。
盂蘭盆会(うらぼんえ)は旧暦7月15日を中心とした時節、亡者の精霊を祀るために行われる。
盂蘭盆とはウランバーナ(倒懸)のこと。
時に雨安居の終り、母を逆さづりの苦しみから救わんと志した目連尊者の物語が幾つもの経典で伝承されている。

 

和尚のひとりごと「伝道掲示板270」

歎経偈

善導大師『法事讃』より

念々に浄土の教えを聞くことを思い
文々句々に誓ってまさに勤めん
長き時に及んだ流浪の苦しみを思い返し
専心に法を聴き、真の門に入れ

開経偈の代替偈文としても用いられる。

合掌

和尚のひとりごとNo505「ひたすらに まっすぐに」

念仏信者が守るべき生活態度の一つに「無余修(むよしゅ)」というのがあります。「余」とは「他のもの」という意味です。他のものをまじえずに、お念仏を専らに修める事を「無余修」と言います。

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 信仰は純一無雑(じゅんいつむざつ)でなければなりません。純粋素直に信じ、ただひたすらであるべきです。決して他の信仰が悪いという事ではありません。縁があってお念仏に出遭われたのならば、この道一筋と心がけていきましょうという事です。他の神仏、宗教も敬うけれども、私自身を救ってくださるのは阿弥陀様ただ一仏と信仰を固めていただくのです。例えば、水道のホースをそのまま普通の状態で水を出せば水の力は弱いままです。しかし、ホースの先をキュッとつまむと水の力は強くなり遠くまで飛びます。信仰も一本にしぼるべき事の喩えです。

 世の中には沢山の宗教がありますが、正しい宗教の目的は一つです。「幸せ」になっていく事。そして自分自身の「器(うつわ)」を育てさせていただく事です。この世の中を生きていく中で、時として一歩も前へ足を踏み出せなくなる様な苦しみの縁に出遭う時もあります。しかしどんな困難な壁にぶつかったとしても、自分が信じる教えによってその困難を乗り切る指針となり、やがて苦難が転じて幸せな生活を送れるようにさせていただけるのが宗教です。また自分の心の中を見つめ直す機会を与えてくださり、自分自身の「器」を育てさせていただくのも宗教です。生きていく上で心の支えとなる宗教は色々あるけれども、頂点へ登り詰めれば皆同じところです。仏教の中にも宗派は種々ありますが、元は皆お釈迦様の御教えです。

   分け登る 麓(ふもと)の道は 多けれど 同じ高嶺(たかね)の 月を見るかな

 浄土宗では他の宗旨や宗派の違うお寺や神社に参ったとしても「南無阿弥陀佛」のお念仏で拝んでくださいと御取りつぎいたします。観音様もお地蔵様もお不動様も、その他の神様も全て阿弥陀如来様の御化身であると受け取っていただいて、「南無阿弥陀佛」とお念仏を申すのです。しかし決して人様の信仰を妨げる様な事があってはいけません。違う信仰を持った人達が居る中で一人大きな声で「南無阿弥陀佛」と頑張る必要はありません。その様な時は心の中で「南無阿弥陀佛」とお称えください。

     極楽の 道は一筋 南無阿弥陀 思案工夫の わき道をすな

 信仰は阿弥陀様一仏と定めていただき、迷う事なく、共々にただひたすら「南無阿弥陀佛」のお念仏一筋で過ごして参りましょう。

和尚のひとりごと「伝道掲示板269」

開経偈

 

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。
我れ今、見聞し受持することを得たり
願わくは如来の真実義を解したてまつらん

仏法に出遭えることの有難さは、盲亀浮木のたとえの如し。
今さまに出遭えたならば慎んで拝聴し、仏の御心を理解しようとつとめる..

経典の読誦、説法などは全てこの開経偈より始まる。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板268」

懺悔偈_2

仏教では時間は無始無終とみる。

始まり無き過去世よりのはかり知れぬ罪
今世においてもまさに犯しつつある重罪
昼夜を問わず、一念一念、ないし一足づつに罪を重ねている私たち
念仏の大威力はこれらの罪を皆消滅させる
命終わるとき、極楽に生まれ出ることが決定する..

懺悔偈(略懺悔)の代用偈文として用いられる。

合掌

 

和尚のひとりごと「伝道掲示板267」

懺悔偈

『四十華厳』より。

我れ昔より造る所のもろもろの悪業は
皆無始の貪瞋痴に由る身語意より生ずる所なり
一切我れ今、皆懺悔したてまつる

遠い過去世から積み重ねてきた罪悪の行いを仏前にて悔い奉ることを懺悔(さんげ)という。日常勤行においては、香で道場を浄め、仏・菩薩を請じたのちに、唱えられる。

 

合掌

 

和尚のひとりごとNo501「法然上人御法語後編第六」

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法然上人御法語後編第六「念仏付属(ねんぶつふぞく)」
【原文】
釈迦如来、この経の中(うち)に、定散(じょうさん)のもろもろの行を説き終わりて後(のち)に、正しく阿難(あなん)に付属(ふぞく)し給う時には、上に説くところの散善(さんぜん)の三幅業(さんぷくごう)、定善(じょうぜん)の十三観(じゅうさんがん)をば付属せずして、ただ念仏の一行を付属し給ヘり。
経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく、汝(なんじ)好(よ)く͡是(こ)の語を持(たも)て。是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。」
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して宣(のたま)わく、「仏、阿難に告げ給わく、汝好く是の語を持てより已下(いげ)は、正(まさ)しく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい)に流通(るずう)し給うことを明(あ)かす。上来(じょうらい)、定散両門(じょうさんりょうもん)の益(やく)を説くといえども、仏の本願に望(のぞ)むれば、意(こころ)、衆生をして一向(いっこう)に専(もっぱ)ら弥陀仏(みだぶつ)の名を称(しょう)せしむるに在(あ)り。」
この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、釈迦如来の、往生の行を付属し給うに、余の定善・散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、正しく選(えらび)て本願の行を付属し給えるなり。
今、釈迦の教えに随(したが)いて往生を求(もと)むる者、付属の念仏を修して釈迦の御心(みこころ)に適(かな)うべし。これにつけても又よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろう)て、仏の付属に適(かな)わせ給うべし。『勅伝 第二十五』


【語句の説明】
定散(じょうさん)
定善・散善(じょうぜん・さんぜん)のこと。
そして定善とは、禅定において心が一定の対象に定まり、妄念・邪念が起きない状態で修する善行であり、散善とは、散乱した平常心のまま修する善行のことを意味している。
特に『観無量寿経』に示される数々の往生に向けた実践行をこの「定善・散善」の二種に分類する。

阿難(あなん)
釈尊の十大弟子のひとり。Ānanda(アーナンダ、阿難陀)。釈尊の血縁(いとこ)であると伝えられ、25歳で出家してから25年間仏の入滅まで常に近侍し、仏の説法を記憶すること最も優れていたことから多聞第一(たもんだいいち)と言われる。釈尊の滅後、七葉窟での第一結集(遺法の合誦)においては教え(経法)を誦したと伝えられる。

付属(ふぞく)
伝法、付法に同じ。師匠が弟子に教えの奥義を相伝し(付)、後世に伝えるように託す(属)こと。

三幅業(さんぷくごう)
『観経』に説かれる西方浄土へ往生するための三種の行いで、➀世福(世俗の善)、②戒福、③行福の三つ。それぞれ、①孝養父母(きょうようぶも)・奉事師長(ぶじしちょう)・慈心不殺(じしんふせつ)・修十善業(しゅじゅうぜんごう)、②受持三帰(じゅじさんき)・具足衆戒(ぐそくしゅかい)・不犯威儀(ふぼんいぎ)、③発菩提心(ほつぼだいしん)・深信因果(じんしんいんが)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・勧進行者(かんじんぎょうじゃ)がその内容とされている。➀は仏法に未だ出会う前に世俗的な孝養に努め仁・義・礼・智・信といった徳目を行ずることで、②は戒律の実践、③は大乗の発心を起こし修行に励み、他にもよくそれを勧めることを意味している。
散善の三幅業と言われるように、これらは散乱した平常心のまま修する行である。

十三観(じゅうさんがん)
『観経』に示される定善十三観とは禅定によって精神が統一された状態で、極楽世界の様相を目の当たりに観察するための行法(観想)のこと。順次➀日想観 ②水想観 ③地想(宝地)観 ④宝樹観 ➄宝池観 ⑥宝楼観 ⑦華座観 ⑧像想観 ⑨真身観 ⑩観音観 ⑪勢至観 ⑫普想観 ⑬雑想観。
➀日想(にっそう)観は沈む夕陽を脳裏に焼き付けて観想すること。②水想(すいそう)観は澄んだ水が氷に変わり、やがて瑠璃の大地となり荘厳される様相を観想すること。③地想(じそう)観(または宝地観 ほうじかん)は②の瑠璃の大地の荘厳をさらに観想すること。④宝樹(ほうじゅ)観は極楽世界の宝樹の大きさや荘厳の有様を観想すること。⑤宝池(ほうち)観は極楽世界の池が湛える水が八種の功徳を具え、七宝からなるなどの様相を観想すること。⑥宝楼(ほうろう)観は五〇〇億あると言われる極楽世界の楼閣の様子を観想すること。⑦華座(けざ)観は西方浄土の教主無量寿仏の姿を観察するにあたり、まずは七宝の地の上に蓮の華を観想すること。⑧像想(ぞうそう)観は⑦に続き、蓮華座に坐する無量寿仏と左右の観音勢至の姿を観想すること。⑨真身(しんじん)観はその無量寿仏の身の丈が六十万億那由他恒河沙由旬(ろくじゅうまんおくなゆたごうがしゃゆじゅん)にも及んでいるさまを観想すること。⑩観音観は観音菩薩の姿について、⑪勢至観は勢至菩薩の姿について同様に観想すること。⑫普想(ふそう)観は自分自身が極楽の蓮華座に坐する姿を観想すること。⑬雑想(ざっそう)観は上来の12観を踏まえて、一丈六尺の無量寿仏像が池水の上に在す姿を観想すること。

経に曰(いわ)く、「仏(ほとけ)、阿難に告(つ)げ給わく…
出典『観無量寿経』

善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を釈して…
出典『観無量寿経疏』


【現代語訳】
釈迦如来は『観無量寿経』の中で、定善・散善の数々の実践を説かれたのち、まさしくアーナンダ尊者に教えの要を相伝する段になると、それまでに述べてきた散乱したままの凡夫の日常心において行ずる三種の善行でもなく、三昧の精神状態にて行ずる極楽世界の目の当たりに観察しようとする十三種の観想法でもなく、ただ念仏の一行をのみ託されようとしています。
件の『観経』にはこのようにあります。
「釈尊は阿難に告げた。汝阿難はこの語をよく保ち続けるように。この語を保つとは、無量寿仏の御名を保つということである」
善導和尚はこの一説を解釈して言われます。
「”釈尊は阿難に告げた。汝阿難はこの語をよく保ち続けるように”に続く文は、正しく釈尊が無量寿仏の名号をアーナンダに相伝し、はるか後代の世まで伝えようとされていることを示している。ここに至るまでに釈尊は、定善・散善の二種に分類される実践の利益を説かれてきたが、阿弥陀仏の本願に照らしてみれば、釈尊の真意は、衆生にただひたすらに阿弥陀仏の御名を称えさせることにあるのである」
これらの定善・散善の数々の実践は、ことごとく阿弥陀仏の本願ではないので、釈尊が往生の為の行法を託されようとする際には、念仏を除いた他の実践を託すことはなく、反対に念仏は阿弥陀仏の本願であるので、まさしくそれを選び取って本願の行に他ならない念仏を託されたのです。
今、釈迦如来の説かれた教えに従って往生を求める者は、釈尊が相伝し託されようとした念仏をこそ修めて釈尊の御心に報いるのがよろしいでしょう。このことからしても又、御念仏に精を出して、釈尊が念仏を付属された御心に従うようにしてください。


元祖上人は『選択本願念仏集』でこのように述べておられます。
「故に知んぬ。念仏往生の道は正像末の三時および法滅百歳の時に通ずということを」
念仏の教えこそが、そして彼の仏の名号こそが、後世まで残されるべき要である。そしてそれは他ならぬ釈尊の真意であった。
誠に心強く、心に響く元祖上人のお言葉であります。
合掌