和尚のひとりごと「伝道掲示板248」

一切精霊偈

(意味)
先だった全ての霊が極楽に往生し
かの地の最上の蓮の華の台にて覚りを得て
さらに悟りの行と誓願とについて決して後戻りする事なく
全ての有情を導いて下さるように

今は亡きすべての精霊(先亡)の往生を念じる回向文。
一般的には、多くの精霊を回向する場合に用いている。
出典については、上二句が『大毘盧遮那経』(『大日経』)、下二句が『大般若経』「理趣分」とされているが細は不明とのこと。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板247」

聞名得益偈

(書き下し文)
その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲すれば
皆悉くかの国に到って、自おのずから不退転に致る

(意味)
彼の仏の本願の力によりて
その名号を聞き、往生するぞと願うならば
皆必ず彼の国に到り、自ずと不退転の位の菩薩となる

在家者の追善のための回向文として、日常的に唱えられる偈文。
出典は『無量寿経』の「東方偈」より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板246」

降魔偈

(書き下し文)
門々不同にして八万四なるは、無明と果と業因とを減ぜんがためなり
利剣はすなはちこれ弥陀の号なり、一声称念すれば罪みな除こる

(意味)
法門が各々異なり実に八万四千にもおよぶのは
衆生の無明(おろかさ)と業の結果とその原因とを除き滅せんが為である
切れ味鋭い剣とは、これ阿弥陀如来の名号に他ならない
ひとたび称すれば、罪障すべて除かれるからである

新亡の霊に対する回向文(精霊回向文)、また「利剣名号の文」とも呼び百万遍念仏を修する際に摂益文の代わりにこの偈を称える。
枕経・通夜・迎接式・荼毘式・収骨式など、在家の葬儀式の際の回向文として用いられている。
善導大師『般舟讃』より。

合掌

和尚のひとりごとNo477「羽ばたく備え 怠りなく」

 念仏信者が守るべき生活態度の一つに長時修(ぢょうじしゅ)というのがあります。これは一生涯最期臨終に至る迄、お念仏を称え続けると言う事です。この世で命終える最期の日迄お念仏の信仰を持ち続けていただく事です。2021-2

 念仏婆さんという昔話があります。お念仏の御教えに出遭ってから七十歳になる迄「南無阿弥陀佛」のお念仏三昧(ざんまい)で暮らして居られたお婆さん。朝、目が覚めると「南無阿弥陀佛」。顔を洗いに行っても「南無阿弥陀佛」。食前食後も「南無阿弥陀佛」。明けても暮れても念仏三昧。このお婆さんが七十歳になった時に地震に遭い、梁が落ちてきて下敷きになろうという時にも「南無阿弥陀佛」と称えました。しかし気の毒にも梁の下敷きになって亡くなられました。ところがこのお婆さん、死んだら地獄の閻魔様の前へ突き出されたので腹を立て、「私は毎日お念仏を申して暮らしてきました。お念仏で極楽へ往けるものと思っておりましたのに、地獄へ堕とされるというのは一体どういう事か?そのわけを聞かせてもらいたい。」と閻魔様にくってかかったそうです。すると閻魔様は、「そうか、それ程お念仏を称えていたのか。それでは今迄称えていたお念仏を此処へもって来い。そのお念仏を調べてやろう。」と言われました。

 お婆さんは長持ち一杯のお念仏を閻魔様の前へ持ってくると、閻魔様が大きな篩(ふるい)の中に長持ち一杯のお念仏を移しました。すると、七十歳になる迄毎日称え続けていたお念仏が皆スポスポと下へ落ちてしまわれた。しかし最後にたった一つだけ残ったお念仏がありました。梁の下敷きになろうという瞬間に一生懸命称えた「南無阿弥陀佛」です。このお念仏が一つだけ残っていました。毎日称え続けていたのは鼻歌みたいなお念仏でしたが、最期命尽きる時に必死で称えた「南無阿弥陀佛」。このお念仏で極楽へ往く事が出来たというお話です。

 この昔話を聞くと、最期必死になって称えたお念仏が阿弥陀様の耳に届いたのだと私達は考えがちです。しかしそうではありません。七十歳になる迄毎日称え続けていたお念仏と、梁の下敷きになろうという最期の瞬間に必死で称えたお念仏の両方で極楽へ往けたとお受け取りください。それは、お念仏の御教えに出遭い、常日頃から南無阿弥陀佛とお称えしていたからこそ、いざという時、まさかの時にお念仏が口から出てきたという事です。我が身にまさかの災難が降りかかった時、普段からお念仏をお称えしていなかったら、なかなか口からお念仏は出てこないものです。たとえ鼻歌交じりのお念仏であっても毎日称え続け、身につけておく事が大事なのです。

  そらみたか 常が大事じゃ 大晦日

 命尽きた時には阿弥陀様にお迎えに来ていただき、西方極楽浄土へ往生させていただく。それまで怠らず日々共々にお念仏を申し続けて過ごして参りましょう。

和尚のひとりごと「伝道掲示板245」

還相回向偈

(書き下し文)
誓ひて弥陀の安養界に到り、穢国に還来して人天を度せん
願はくはわが慈悲際限なくして、長時長劫に慈恩を報ぜん

(意味)
私たちは阿弥陀如来のおわします極楽世界に到って、
さらにのちにはこの娑婆世界に戻り還って苦悩に沈む人々を覚りの彼岸にまで渡すことを誓います
私の慈悲の心が果てしなく、未来永劫にわたり仏の慈悲心へのご恩に酬いられることを願います

能化(僧侶)の回向の際に唱える。
遷化した能化が、往生ののち、苦しむ衆生を救わんと再び此土に帰り来たることを念じる。
一切衆生の済度を志す菩薩のあるべき姿を表現する。
善導大師『法事讃』より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板244」

心浄偈

(書き下し文)
世界に処すること虚空の如く、蓮華の水に著せざるが如し
心の清浄なること彼に超えたり。稽首して無上尊を礼したてまつる

(意味)
釈尊はまるで果てなき虚空のようにこの世界におわし
蓮華のはなが泥水に触れずに咲くように浄らかである
その御心が清浄なること、この蓮華を遥かに凌駕している
こうべを深く垂れて、この上なき尊き人に礼拝致します

現在は僧侶に対する回向文(能化回向文)として用いられるが、元来は釈尊に対する回向文(釈迦回向文)であった。
他宗では食作法の際や授戒の際に唱えられるという。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板243」

自信偈

(書き下し文)
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難(かた)きがなかに転(うた)たまた難し
大悲を伝えてあまねく化するは、まことに仏恩(ぶっとん)を報ずるに成る

(意味)
自ら信じ、かつ他をして信じさせること
これは困難ある中にもまた輪をかけて難しいことである
仏の大いなる慈悲の心を、あまねく全ての人々に伝えることは
誠に仏の大恩に報いることに他ならない

また念仏者の心構えを端的に示した文。
列祖の回向に唱える偈文として用いられることから、御忌会など列祖の法要、また説教・法話・講演会など教えを伝える場面において、最初に「開経偈」を唱え、終わりにこの偈文を称える慣わしである。
善導大師『往生礼讃』初夜礼讃偈より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板242」

讃仏偈

(書き下し文)
仏の諸々の功徳を讃えるに 分別心ある事なく
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ

(意味)
仏の優れた特質を讃えるに
そこには分け隔てする心はなく
速やかに功徳の大いなる宝の海を満たして下さいます

仏の功徳を讃える回向文で、開眼式・撥遣式・浄焚式・晋山式などで用いられる。
元は世親菩薩の『往生論』から。善導大師『観経疏』、同じく『往生礼讃』にも出る。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板241」

敬礼偈

(書き下し文)
天人大覚尊を敬礼す。
恒沙の福智皆円満し 因縁果正覚を成ず。
住寿凝然として去来なし

(意味)
天人にも譬えられる大いなる正覚を得た尊き師に敬って礼拝致します。
ガンジス川の砂粒の数と同様にはかり知れない仏の福徳と智慧は円かに完成され
修行の結果としての覚りを成就され
その寿(いのち)は常に留まり、決して去ってしまうことはない


別名「釈迦回向文」。
釈尊に対する回向文で、釈尊が安置される際に唱えられている。
『大乗本生心地観経』より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板240」

本誓偈

(意味)
阿弥陀仏がかつて立てられた誓願は
極楽世界へ開かれた最も肝要なる門(入口)である
心が定まり禅定の境地にあって行う善き行い、そして反対に散乱した日常心にて修める修行なども
ともに同じく極楽往生に向けて回向し(振り向けて)
速やかにもはや再生することのない境地(覚りの境地)を得よう

弥陀仏に対する回向で唱えられる回向文。
本誓とは本願に同じ。元の誓願(ちかい)という意味で、法蔵菩薩と呼ばれた正覚前の修行時代の阿弥陀如来が、かつて衆生救済の為に立てた四十八の誓願を指す。
この偈文自体は善導大師『観経疏』玄義分の冒頭の十四行偈(発願帰敬偈)からの抜粋である。

合掌