和尚のひとりごとNo470「法然上人御法語後編第四」

gohougo

 後編 第四「特留此経(どくるしきょう)」

【原文】
双巻経(そうかんぎょう)の奥に、「三宝滅盡(さんぼうめつじん)の後の衆生、乃至一念(ないしいちねん)に往生す」と説かれたり。善導、釈して曰く、「万年(まんねん)に三宝滅(めっ)して、此(こ)の経、住(とど)まる事百年、爾(そ)の時、聞きて一念すれば。皆まさに彼(かし)こに生ずることを得(う)べし」と云えり。
この二つの意(こころ)をもて、弥陀の本願の、広く摂(せっ)し、遠く及ぶ程(ほど)をば知るべきなり。
重きを挙(あ)げて軽(かろ)きを摂(おさ)め、悪人を挙げて善人を摂め、遠きを挙げて近きを摂め、後を挙げて前を摂むるなるべし。
まことに大悲誓願(だいひせいがん)の深広(じんこう)なる事、たやすく言(ことば)も持て述(の)ぶべからず。心を留(とど)めて思うべきなり。
抑(そもそも)このごろ末法に入(い)れりといえども、未だ百年に満たず。我(われ)ら罪業(ざいごう)重しといえども、未だ五逆(ごぎゃく)を造らず。然(しか)れば、遥(はる)かに百年法滅(ほうめつ)の後を救い給えり。況(いわん)やこのごろをや。広く五逆極重(ごぎゃくごくじゅう)の罪を捨て給(たま)わず。況や十悪(じゅうあく)の我らをや。
ただ三心(さんじん)を具(ぐ)して、専(もは)ら名号を称すべし。

【語句の説明】
特留此経(どくるしきょう)
八万四千の釈尊の教説の中、他のすべての教えが無くなってしまった末法一万年ののちも、この経(『無量寿経』)だけは世に留まるという事。『無量寿経』が留まるという事は念仏の教えが留まる事に他ならない。

双巻経(そうかんぎょう)
浄土三部経の中の『無量寿経』のこと。他の『観無量寿経』『阿弥陀経』は一巻であるのに対して、本経が上下二巻であることからそう呼ばれる。

三宝(さんぼう)
仏教徒が帰依・尊重すべき三つの宝である仏・法・僧のこと。仏とは仏陀つまり覚った者、法とはその教え、僧とは教えに従って修行する者の集まりの事。
ここでは後世に仏教を伝え広めるのに必要な住持三宝(じゅうじさんぼう)として用いられており、より具体的に三宝は仏像、経巻、僧侶たちを指している。

五逆(ごぎゃく)
五種の重罪、五逆罪のこと。『無量寿経』『観経』で示される五逆罪は『阿毘達磨倶舎論』に基づくものといわれ、殺母(母親を殺める事)、殺父(父親を殺める事)、殺阿羅漢(覚りを開いた聖者を殺める事)、出仏身血(仏の身体を傷つける事)、破和合僧(修行者の集団の和を乱して分裂させる事)を指している。

十悪(じゅうあく)
十種の悪行のこと。十不善業道、十悪業道。
まず殺生(せっしょう、有情の命を断つ事)、偸盗(ちゅうとう、盗む事)、邪婬(じゃいん、不道徳な性交渉)の三つの身業(身体を動かす事で行う業)、次に妄語(もうご、他人を誑かす言葉)、両舌(りょうぜつ、仲たがいさせる言葉)、悪口(あっく、罵りの言葉)、綺語(きご、誠の心から出た言葉ではない飾り立てた表面的な言葉)の四つの口業(発言する事で為す業)、最後に貪欲(とんよく貪りの心)、瞋恚(しんに、苛立ちや怒り)、邪見(じゃけん、仏法の正しい見方にそぐわない見解)の三つの意業(心による行い)を数える。

三心(さんじん)
阿弥陀仏の西方極楽浄土へ往生を遂げる為に備えなければならない三種の心構えで、至誠心・深心・回向発願心のこと。総じていえば、誠の心をもって自身の愚を見つめ、心を浄土への往生へ振り向けることである。



【現代語訳】
『無量寿経』の末尾に「三宝が滅び去ったのちの時代の人々でさえも、たった一度の念仏で往生できる」と説かれています。善導大師はそれを解釈して仰っています。「末法が一万年続いたのちの世、ついに三宝が滅び去っても、この経だけはさらに百年間留まるだろう。その時に、弥陀の教えを聞法し一声でも名号を称えれば、そうした者は皆必ず彼の国極楽浄土に生を得ることができる」
この二つの文より、阿弥陀仏の本願が、どれほど広く衆生を包み込んでくれるものであるか、また同時に遠く遥かな未来世までも見据えたものであるか、それを理解すべきです。
これは罪深い者たちをも救いあげ、罪状の軽い者たちをも含め、悪人たちをも救い上げ、善人をも含め、遠い遥か未来世の者たちをも救い上げ、近い将来の者たちをも含めようとされているのです。
まことに弥陀の大いなる慈悲に基づいた誓いが深く広いこと、言葉で表現することは至難であります。よくよく心を寄せて思い量るべきです。
いったいぜんたい、昨今は末法の時代に入ったと言われますが、それでも未だ百年も経過していません。さらに私たちの犯してきた罪は深いといえども、五逆罪までは犯していません。だからこそ遠く三宝が滅び去ったのちの世においても百年間は人々に救いの手を差し伸べて下さるのです。そうであれば今私たちの生きる世界の衆生を救わない筈はありません。
五逆罪という重罪を犯した者たちでさえも見捨てることがないのです。(それよりは程度の軽い罪である)十悪を犯している私たちを見捨てる道理がありましょうか?
ただ実直に三心(という浄土往生に向けたまことの心)を具えて、専一に弥陀の名号を称えることです。


「往生大要抄」に収録されているこの一節は、元祖上人が浄土宗の教えを体系的に説明しようと試みた書で『選択集』以後の成立と見られている。末法・末世ののち仏教の宝であり、私たちが拠り所とすべき三宝が滅びたのちの世においても、ただ念仏による救いのみは残るという。
私たちたちが為すべきは、まさに「三心を具して、専ら名号を称すべし」これに尽きている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板239」

献供偈

(意味)

この味わいと色味、香りを、ここに招いた御仏に供養致します。
そしてこの度、この食を施した者に、はかり知れないほどの功徳が届きますように。

仏前もしくは霊前にて御膳を供える際に唱えるもので、”波羅蜜(パーラミター)”は菩薩が実践すべき六つの徳目に含まれるは布施波羅蜜のこと。見返りを求めず惜しげなく施すことを意味する。
本来は浄土宗の食作法(正式な食前の作法)において唱えるべき偈文に「呪願偈(じゅがんげ)」があり、これはそこから転用されたもの。
「此食色香味しじきしきこうみ 上献十方仏じょうこんじっぽうぶつ 中奉諸賢聖ちゅうぶしょげんじょう 下及六道品げぎゅうろくどうほん 等施無差別とうせむしゃべつ 随感皆飽満ずいかんかいほうまん 令諸りょうしょ(今こん)施主得せしゅとく 無量波羅蜜むりょうはらみつ」『新学行要鈔』
これによればこの食によって諸仏から六道輪廻の有情を含む全てに施さんと志すが、ここでは今この道場に奉請した仏に対する供養という形をとっている。
また特定の施主がいるときは”令今施主得”、特定の施主が決まっていないときは”令今諸施主得”とする。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板238」

歎仏偈

(意味)

御仏の妙なる御姿は、この世に同様のものなど存在しない程です。
他と比べるなど思いもよらないことです。
それ故にまさに今、私は仏を敬い礼拝致します。
如来のおすがたは尽きることなく永遠に続き、その智慧もまた然りです。
そして説かれた教えは永遠の真理です。それ故にまさに今、私は仏に帰依致します。

聖徳太子も注釈を著わした『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は詳しくは『勝鬘師子吼一乗大方便広経』。一乗真実と如来蔵を説く代表的な中期大乗経典で、在家信者によって法が説かれる点に特色がある。仏を讃歎すること止まないこの偈文は、本来釈迦如来を讃えたものであった。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板237」

広開偈

(書き下し文)
十方証誠諸仏よ、六神通をもって私を照鑑したまえ。今二尊の教えに乗じて、広く浄土門を開かん

(意味)
十方のあらゆる方角におわします仏たちよ
六種の神通力をもって私をご覧ください
今わたくしは釈迦仏・弥陀仏の尊ぶべき仏の示した教えに従って
ここに広く浄土の御教えを開示しようと思います

善導大師『観経疏』玄義分より
善導大師が『観経』に明かされている凡夫往生の教えを説き示さんとするにあたり記した一文。
唐朝三代皇帝高宗の発願で建造された中国仏教史上に名高い龍門石窟の検校僧に抜擢された善導大師
その龍門石窟からはこの一節を含む十四行偈(『観経疏』の序文)の刻文が発見されているという。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板236」

鳴鐘偈

『四分律行事鈔資持記(しぶりつぎょうじしょうしじき)』から。
南山律師と呼ばれた律の大家 道宣律師によって著わされた『四分律』に対する注釈をさらに釈した元照の作。

そしてこの『鳴鐘偈(めいしょうげ)』は、法要の為に本堂も荘厳され、導師をはじめとする役僧たちの準備がすっかり整ったのち、喚鐘(かんしょう)の音とともに唱えられる。

“願わくは諸々の聖者(しょうじゃ)と賢者がこの道場に入り来たり
また同時に諸々の悪しき境涯で苦しむ者どもが、その苦悩から逃れられるように…”

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板235」

 法鼓文

まさにこの音をもって、全ての世間の衆生を覚らしめ
はかり知れないほど存在する全ての世界を
光明が遍く照らさんことを

“法鼓(ほうこ)”とは太鼓のこと。その音の勇壮たる響きは、仏の説法を戦闘での進軍にたとえたもの、あるいはその説法が我々を迷いの泥から救い上げ、目覚めさせようとする様を表しているといわれる。
いよいよ勤行の開始を迎えるとき、大衆はこれを聞いて集まり、威儀を整え、座次を定めて、式次第などを確認する。

和尚のひとりごと「伝道掲示板234」

警覚偈

敬白大衆 生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸

うやまってだいしゅうにもうす
しょうじじだいむじょうじんそくおのおのよろしくせいかくすべし
つつしんでほういつなることなかれ

大衆に生死が一大事である。
それにも関わらずこの世が無常であり一刻も猶予なき事を知らせ、
各々がよく目を覚まして、放逸なる生活を戒めようとする文。
早朝、大衆の覚醒を促すのはこの偈文とそれに続いて打ち鳴らされる版木(ばんぎ)の音である。

禅宗では六祖慧能禅師の残した言葉として伝えられている。
生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
各宜覚醒(かくぎかくせい)
慎勿放逸(しんもつほういつ)
                                                                                    〔六祖壇経〕

和尚のひとりごと「伝道掲示板233」

 洪鐘偈

(意味)
願わくはこの鐘の音が全世界に響きわたり、鉄囲山に取り囲まれた迷いの世界の全ての衆生がそれを耳にして、三悪道の苦しみから離れて、極楽浄土に生を受け、かの地で悟りの境地へと到達できますように

鉄囲とは鉄囲山(てっちせん)のこと。『倶舎論』によれば我々の住む世界の中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)を取り囲むようにして九山八海(くせんはっかい 九つの山脈と八つの大海)があり、その中で最も外側にある鉄の山のこと。鉄囲山に囲まれた世界という意味で、我々の住む世界を表している。
幽暗は煩悩に曇らされ迷いの暗中にある凡夫のあり様を示す。
三途は地獄道、餓鬼道、畜生道と呼ばれる三つの悪しき境涯(三悪道)を指す。
安養は西方極楽浄土のこと。「極楽」の異訳として康僧鎧訳『無量寿経』には「安養仏」や「安養国」という表現がある。

鐘(お寺の梵鐘)を打つ前に十方世界の衆生に法要の始まりを告げること、あるいは日常における時刻の合図として用いられ、この偈文は「鐘を打つ時唱念すべき文」(『諸回向宝鑑』)とされている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板232」

 警覚偈

(意味)
大衆方に敬意を表して申し上げる。
生死は仏教の一大事、時間は留まることなく速やかに過ぎ去っていく
各人はよく目覚めて修行に励み、決して怠惰・無為に過ごすことのないように

修行僧の朝は役僧によって打ち鳴らされる版木(ばんぎ)の音で始まる。その際に高声で唱えられる偈文。

生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
各宜覚醒(かくぎかくせい)
慎勿放逸(しんもつほういつ)
禅宗の文献『六祖壇経(ろくそだんきょう)』の中に六祖慧能禅師の言葉としても伝えられている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板231」

別回向⑩

(意味)
天災地変(天変地異や災害)により
あるいは国家などの犠牲により、また不慮の事態で亡くなった 三界の全ての精霊に
仏法に結縁した者たちも、その縁に恵まれなかった者どもも
あらゆる世界に到りくまなく、平等の利益がもたらされるように

殉難とは自分を超えた存在の為に命を落とすこと。
横死は思いがけない、予想外の事故や病気などで命を落とすこと。
三界は欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の事で、有情が生まれ変わり(輪廻転生)を繰り返す三種の生存境界を指し、五趣(異説では六趣)つまり六道輪廻に同じ。これは迷いの境界であり、浄土教においてはそこを厭い離れて出離し、浄土へ往生する事が目指される(厭離穢土欣求往生 おんりえどごんぐじょうど)。
法界は全宇宙の根源、あるいは真如(真実の姿)のことだが、ここでは全世界・全宇宙という意味。

別回向のお勤めの最後に読み上げることが多い回向文である。

合掌