Monthly Archives: 4月 2019

法然上人御法語第四

第4 出世本懐(しゅっせのほんかい) gohougo

 

~ブッダはこの教えを説くために出現されたのだ~

 

【原文】

念仏往生(ねんぶつおうじょう)の誓願は、平等の慈悲に住(じゅう)して発(おこ)し給(たま)ひたる事なれば、人を嫌う事は候(そうら)はぬなり。佛の御心(みこころ)は、慈悲をもて体とする事にて候(そうろ)ふ也。されば観無量寿経には、「仏心(ぶっしん)というは大慈悲これなり」と説かれて候(そうろう)。

善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文(もん)を受けて、「この平等の慈悲をもては、普(あまね)く一切を摂(せっ)す」と釈し給へり。「一切」の言(ごん)、広くして、漏るる人候ふべからず。されば念仏往生の願は、これ彌陀如来の本地(ほんじ)の誓願なり。余(よ)の種々(しゅじゅ)の行は、本地(ほんじ)の誓いに非ず。

釈迦も世に出(い)で給ふ事は、彌陀の本願を説かんと思(おぼ)し食(め)す御心にて候へども、衆生の機縁(きえん)に随ひ給ふ日は、余の種々の行をも説き給ふは、これ随機(ずいき)の法也。佛の自らの御心の底(そこ)には候はず。

されば念仏は彌陀にも利生(りしょう)の本願、釈迦にも出世の本懐(しゅっせのほんがい)なり。余の種々の行には、似(あら)ず候也。

☆出典 『勅伝』第二十八

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【ことばの説明】

念仏往生の誓願

『無量寿経』に説かれている、修業時代の阿弥陀仏が、仏となる必要条件として誓った四十八願中の第十八願のこと。

「あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」との願。

 

人を嫌う

「嫌う」は、分け隔てる、差別すること。

つまり、念仏往生の誓願は何らかの条件によって選別された人だけを対象とするものではなく(救いの対象を限定するものではなく)、全ての人を対象としたものであるということ。平等思想であることの表明。

 

彌陀如来の本地(ほんじ)の誓願

「本地」とは「本来の姿、本体」のこと。

ここでは「念仏往生の願」が、彌陀如来(阿弥陀仏)が仏となる以前、菩薩として修行していた時代に立てた誓願であることを意味している。

 

普(あまね)く一切を摂(せっ)す

「普く」は「広く、すみずみまで、漏れなく」、「一切」は「全て」ここでは全ての衆生、「摂す」は「収め取る」つまり「救い取る」の意味ととる。

 

余の種々の行

念仏以外のさまざまな修行のこと。

仏の教えは「八万四千(はちまんしせん)の法門」といわれるように、様々な経典において、様々な修行法(実践法)が説かれている。

しかしながら、それらの様々な行は、決して並列的に考えられているのではない。阿弥陀仏の本地の願において「念仏」こそが往生する為の最も優れた行として取り上げられていることを根拠に、念仏がその他の行から明確に差別化されている。

 

衆生の機縁

「衆生」とは原語でsattva、意味するところは「生きとし生けるもの(生類)」のこと。

特に、六道の中の迷いの境涯である「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間」を指すことが多い。

また「有情(うじょう)」という訳語もある。文字通り感情や意識、つまり心を持つ存在を指しており、当然これも人間に限定される訳ではない。

 

「機縁(きえん)」とは「根機(こんき)・因縁(いんねん)」を略したもの。

根機(こんき)とは衆生の持つ資質(素質・能力)のこと、そして因縁(いんねん)とは、何らかの結果(果報)をもたらす直接的な原因である「因(hetu)」と、間接的な条件である「縁(pratītya)」を指す。

ここでは、【仏の教えを受ける側の衆生の資質(素質・能力)】と、【そのような資質を持つ衆生が、仏の教えに触れられた】という2つの条件が揃って、初めて教えが説かれるという事態が成立すること、言い換えると、われわれ衆生の持つ資質が、仏が教えを説くきっかけとなっていることを意味している。

仏の教えが「八万四千の法門」となったのは、それを聴く衆生の側に、さまざまな「機」が存在したからであり、仏は各々の「機」に最適な法を説いたのである。

 

随機(ずいき)の法

衆生の持つ資質(素質・能力)に従った法、すなわち、聴き手に応じて説かれた教え。

 

利生(りしょう)の本願

「利益(りやく)衆生」のこと。

仏や菩薩が衆生に利益を与えること、またはその利益。

ここでは念仏往生の願が、阿弥陀仏が衆生に利益を与える目的で立てた本願であることを言っている。

 

出世の本懐(しゅっせのほんがい・しゅっせのほんかい)

釈尊がこのわれわれの住む迷いの世界である娑婆世界に生まれ出た本来の目的のこと。

もちろん、その目的が衆生に覚りの内容を示し、覚りを開かせるためであることは言うをまたない。しかしながら、さまざまな経においてさまざまな内容が説かれている現状では、それらの中でもっとも説き示したかった教えは本当は何なのか?という疑問も生じざるを得ないだろう。結果、さまざまな異説が生まれた。たとえば、釈尊の出世本懐の経について、天台宗では『法華経』、華厳宗では『華厳経』としている。

それはまた各々の拠って立つ立場の相違も反映している。浄土宗では衆生の済度(救済)は、賢愚善悪(けんぐぜんあく)に関係なく平等になされるものである筈だとの立場から、出世の本懐は阿弥陀仏の本願による念仏の教えを弘めることにあったとしている。

 

 

【現代語訳】

念仏往生の誓願は、あらゆる衆生に平等に適用される、慈悲の心によって起こされた誓いであるから、その救いの対象となる人を分け隔てるということは決していない。だからこそ『観無量寿経』に、「仏の心は、偉大な慈悲の心に他ならない」とはっきり説かれているのである。

彼の善導和尚はこの一文を受けて、「阿弥陀仏は、この平等の大慈悲により、漏れなく全ての衆生を救い取って下さる」と解釈している通りである。ここに「一切」という言葉の意味はまことに広く、漏れ落ちる人がある筈があろうか。だからこそ念仏往生の願は、阿弥陀仏がかつての修行時代に、仏となる為に立てられた願なのであり、念仏以外のさまざまな修行はそうではないのである。

釈尊が、このわれわれの住む迷いの世界である娑婆世界にかつて生まれ出られたのも、実は阿弥陀仏の本願を説こうとされた御心によるものだったが、衆生の資質や置かれた状況に合わせて教えを説こうとされた際には、念仏以外のさまざまな修行を説かれる結果となったのである。ただしこれはあくまでその時の聴き手に応じて説かれた教えであり、釈尊自身が心の底から説きたいと考えられたものではなかった。

そうであるからこそ念仏は、阿弥陀仏にとっては、まさに衆生に利益を与える為の本願であり、釈尊にとっては、この世界にお出ましになって本当に説きたかった教えであったのだ。その他のさまざまな修行とは、このように異なるものなのである。

 

 

「出生の本懐」それは仏が仏として世に出られた本当の目的を表現したことばである。

「出生の本懐」は重いことばだと思うが、同時に、私たち衆生の切実なる期待(そして大きな願い)を表現していると感じる。

仏に恋い焦がれ、仏と同じ境地にたどり着きたいと願う者、あるいは今世(つまり人生そのもの)に絶望し、心の底から安楽なる世界へ超出したいと願う者、それらの者が望むのは一体何だろうか?それは、何らかの前提条件を設けずに、思い立ったその時に実践でき、その効果が確実な修行であろう。私たち自身に与えられたこの身体をもって、仏の浄土に迎えとられていくための方法論であろう。それこそが「仏の名を称すること」すなわち「念仏」であると表明されている。そしてその確実性は彼の仏自身によって誓われているのである。

釈尊はそれを説き示された。人がブッダとなれることを2500年前に自らの身をもって証明された釈迦族の王子は、そののちの世に生を受け、未だ見ぬ仏を想い、その教えに焦がれる衆生に最適な道を、浄土への往生という道を示されたのである。

合掌

和尚のひとりごとNo154「大本山増上寺と日光東照宮 」

浄土宗大本山の一つである増上寺の歴史をひも解くと、もとは弘法大師空海の弟子であった宗叡(しゅうえい)が建立した真言宗の古刹光明寺(こさつ こうみょうじ)を、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人が念仏道場にしたことに始まります。爾来、室町時代の開山から戦国時代さらには江戸時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展してきました。

そうした中、浄土宗にとりましても大きな出来事が起きます。東国に江戸幕府を開こうとしていた徳川家康の帰依を受けるようになったことです。それは家康公が関東の地を治めるようになってから間もなくのこと。やがて増上寺は徳川家の菩提寺(のちに勅願所ちょくがんしょ)となり、1598年(慶長三年)には現在の地(芝)に移転しました。のちには関東十八檀林(僧侶の学問所・養成所)の筆頭として、常時三千人を越す僧侶が学ぶ道場となりました。 zoujyouji

 

そんな増上寺ですが、実は江戸の都市設計上、ある重要な役割を担わされていいたと言われています。当寺の江戸は鎌倉や小田原に比べるとまだまだ未開発の地、港沿いの湿地帯の背後に武蔵野の原野が広がっているような土地柄だったと言われます。そんな中での新たな都市計画です。江戸の街づくりの基本理念は徳川家のブレーン天海僧正によるものです。天海は江戸を京の都、平安京にみたて、鬼門にあたる北東の方角に東叡山寛永寺(東の比叡山です)を配し自ら住職として守り、そこから江戸本丸(江戸城)を挟んで一直線で結ばれる先に増上寺を配しました。つまり増上寺は西南の裏鬼門に位置します。鬼門・裏鬼門は鬼(悪しきもの)が侵入する入り口だというのが古来よりの言い慣わしであります。両寺院が江戸という小さな都市国家を守護する役目を担っていた訳ですね。やがて両寺院には家康公を祀る東照宮が勧請されました。さらにそのラインを反対に江戸の北方面に伸ばしてくと日光東照宮に行きつくともいわれます。地図を眺めて線を引いてみると確かにgobyou

 

 

 

日光東照宮は、東照大権現(江戸城の守護神)として家康公を祀る場所、また北という方角には北極星が鎮座し、その北に位置する東照宮を拝することは、北極星すなわち天帝を拝することでもあると言われました。家康公を天帝と同一視しようとしたのではないでしょうか? 残念ながら増上寺の大塔伽藍に往時の面影を伝えるものは少ないですが、日光東照宮は世界遺産にも登録されています。

 

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都市や町は歴史を持ち、それは人の記憶と似ています。また様々な意図や思惑が込められていることもあるようです。それを探ることも興味深いですね。

合掌

和尚のひとりごとNo153「令和」

日本で最初の元号は西暦で645年の大化の改新に遡ります。それから1400年、私たちは古来より元号が改まるたびに、平和と安寧への強い願いを込めて参りました。
 本日新しい元号が発表されました。
”令和”の時代が、全ての生命あるものにとり、心安らかで幸ある時代となりますようにこころより祈念致します。reiwa
”御仏の光明が すべての世界の衆生をあまねく照らし給うように”
合掌

和尚のひとりごとNo152「新たな出会い よき縁に」

人生は縁であり、縁に始まり縁によって終わると言います。「袖触り合うも多生(たしょう)の縁」という諺(ことわざ)があります。「多生」とは仏教語で、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしてという意味で、前世からの縁という事です。前の世からの縁として「宿縁(しゅくえん)」という言葉もあります。宿とは以前からのという意味です。ですから「宿縁」とは前の世からの御縁です。サッと袖が触れ合っただけというのも前の世からの縁による。また一樹の陰に宿るも、一河の水、河の水を汲ませて戴くのも御縁です。夏の暑い日に一本の樹の下の陰で休ませていただくのも、或いは又、河の水を掬い取って飲ませていただくのも御縁です。

 四月は入学式や入社式などがあり、新たな出会いや御縁に巡り合う人も多い季節です。自分で選択した19sigatu道であっても自分の都合の良い事ばかりではありません。気に入らない事や辛い事もあり、辛抱して色々な試練に打ち勝って世間の荒波を乗り越えていかねばならないのがこの世です。お釈迦様はこの人間世界を忍土(にんど)と示されました。辛い事や苦しい事に巡り合っても耐え忍んでいかなければならない世界であると説かれたのです。しかし忍土である人間世界であっても人間として生まれた事は宿縁による有り難いものであるとお釈迦様は説かれます。お釈迦様はある時に、大地の砂を掴んで「この手の中の砂の数と大地の砂の数とではどちらが多いか」と弟子に尋ねられました。「はるかに手の中の砂の方が少ないです」と弟子が答えると「その通りである。この数え尽くす事の出来ない大地の砂というのは、この世に命恵まれたものの数。その中で尊くも今、人間として生まれる事の出来た者は僅かこの一握りの砂の数である」そして今度は、この手の中の砂をもう片方の親指の爪の上にパラパラとかけていかれました。その殆どは大地へ落ちてしまいましたが極僅かだけ爪の上に残りました。「せっかく人間としての命をいただいても、無駄に過ごしてしまう者もいる。しかし正しい信仰に出遇い、その道を歩む事の出来た者はこの僅かに残った爪の上の砂の数である」とおっしゃられました。正しい信仰の道とは浄土宗では南無阿弥陀佛のお念仏です。辛く苦しみがある忍土であっても阿弥陀様やご先祖様が見守ってくださっている。その様にお受け取りいただき、お念仏の御縁に今、出遇わせていただいた事を共々に喜ばせていただき、日々お念仏を申して過ごして参りましょう。