和尚のひとりごと「祐天上人」
祐天(ゆうてん)上人は江戸時代中期に活躍した高僧、寛永14年(1637年)より 享保3年(1718年)に在世し、最終的には浄土宗大本山増上寺の36世法主まで昇り詰めました。生まれは陸奥国磐城郡(むつのくにいわきぐん、現在の福島県いわき市)、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りし仏道を志しますが、経文を覚えることすら覚束ず、ついに師より破門されてしまったと伝えられます。それを恥じ成田山新勝寺に参篭、断食修行を行う中で不動明王より智慧を授かり、以後力量を発揮していきました。
「飯沼弘経寺(いいぬまぐぎょうじ)に轉(てん)じ、紫衣(しえ)の被着を許さる」
関東十八檀林にも数えられた飯沼弘経寺の住職として、高位の僧侶のみがまとえた紫衣の被着を許可された祐天上人ですが、最初にかの地に掛錫(かしゃく)された際は「破袈裟 古綿入(やぶれげさ ふるわたいれ)を着し股引草鞋(ももひきわらじ)にて役寮へ参られ」と表現されるように、破れ衣に破れ袈裟の様相でした、ところが一旦説法を行うと皆が聞き惚れ、随喜の涙流す者多数であったそうです。
また祐天上人の名を高らしめたのは、呪術に長けていたことが大きかったようです。強力な怨霊に苦しめられる人々を救済した数多くの奇譚(きたん)が残されますが、中でも羽生村(はにゅうむら)の累ヶ淵(かさねがふち)の説話が有名です。累代(るいだい)に亘り同様の悪業を繰り返す者たちと、深い怨みを残して亡くなった娘の怨霊による祟り、それを念仏の功徳で見事に鎮め、哀れな怨霊を解脱し安心(あんじん)の境地に導いたと伝説されています。
他にも鎌倉大仏や奈良東大寺の復興に力を注いだことでも知られ、幕府や大奥の深い帰依を受けました。「真の僧侶は祐天ただ1人」逝去の知らせを受けた八代将軍・徳川吉宗の言葉だそうです。このように数々の名声を博した祐天上人ですが、その生涯に亘って続けたのが阿弥陀如来の六字名号を書写することでした。祐天自筆の六字名号は「南」を円(まどか)にかたどり「弥陀」のはねの部分が長く伸びている、すぐにそれと分かる独特の、そして力強い書体です。在世時には、高位の人にみならず、多くの人々の求めに応じて名号を授与したと伝えられ、その功徳は特に死霊・怨霊や祟り、厄難除けに大きな力を発揮すると信じられてきました。
玉圓寺に伝わる六字名号には祐天寺六世祐全の證印により祐天上人自筆である旨が記されています。祐天寺は現在も地名にその名を残す東京目黒区にある名刹、祐天上人の没後、直弟子の祐海上人が師の遺言に従って善久院というお寺を買い取り、そこを念仏道場として再建すべく初代住職となったお寺です。のちには時の将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺名を許され現在に至ります。
念仏の功徳を多くの人々に浸透させた祐天上人、そのパワーが込められた南無阿弥陀佛の六字名号を、これからも末永く当山の寺宝として守り伝えてまいります。