Monthly Archives: 5月 2020

和尚のひとりごと「伝道掲示板27」

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「仏に会って改心した悪人アングリマーラ」

「仏に会って改心した悪人アングリマーラ」

和尚のひとりごとNo224「法然上人御法語第二十」

前篇 第20 難修観法(なんじゅかんぼう)

~修め難き行への未練を捨てよ~gohougo

【原文】

近来(ちかごろ)の行人(ぎょうにん)、観法(かんぼう)をなす事(こと)なかれ。仏像を観(かん)ずとも、運慶(うんけい)康慶(こうけい)が造(つく)りたる仏(ほとけ)程(ほど)だにも観(かん)じ現(あら)わすべからず。極楽(ごくらく)の荘厳(しょうごん)を観(かん)ずとも、桜梅桃李(ようばいとうり)の花菓(けか)程(ほど)も、観(かん)じ現(あら)わさんこと、難(かた)かるべし。

「彼(か)の仏、今(いま)現(げん)に世(よ)に在(ましま)して成仏(じょうぶつ)し給(たま)えり。当(まさ)に知(し)るべし、本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)、虚(むな)しからざることを。衆生(しゅじょう)称念(しょうねん)すれば、必(かなら)ず往生(おうじょう)を得(う)」の釈(しゃく)を信じて、深く本願を頼(たの)みて、一向(いっこう)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。名号(みょうごう)を称(とな)うれば、三心(さんじん)、自(おの)ずから具足(ぐそく)するなり。

(勅伝第21巻)

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【ことばの説明】

難修観法(なんじゅかんぼう)

観法(かんぼう)

「観法」は、観察(かんざつ)の行によって覚りの境地を目指す修行法。観察の対象は、現象としての法や自己の心の動き、仏法の真理そのものや仏・仏国土の姿形など、文献や宗派等によりまちまちであるが、智慧によって対象を正しく見極めようとする点では共通である。「観」はvipaśyanā(ヴィパッシャナー)と言い、物事を見る、思うを意味する言葉に由来する。

「難修」は修め難いこと。つまり「難修観法」は修めることが非常に困難な観察行を意味している。

 

近来(ちかごろ)

字義通りでは最近、昨今という意味だが、末法に入らんとするこの頃というニュアンスが込められている。末法(まっぽう)あるいは末世(まっせ)という見方は、仏教の開祖である釈尊が入滅した時から、最終的に仏法が滅びてしまうまでの期間を三つの段階に分ける三時説に由来する。まず正法の時代には、つまり釈尊滅後しばらくの期間は、釈尊が説かれた教えの通りに実践修行がなされ、その結果として覚りを得る者も少なからず存在する。続く像法の時代には、教えと行は伝えられるが、その結果として覚り(証)を得る者がもはや存在しない。さらに末法になると教えのみが残り、教えの通りに実践する者も覚りを得る者もない時代となり、やがて法滅を迎えると説かれている。法然上人当時は仏滅を紀元前949年とする説に則って永承7年(1052年)には末法に入ったと考えられ、実際に戦乱や天変地異が起こり始めたと言う。

このように仏教そのものが次第に衰退していくという歴史観は、仏教の故国インドへの異民族の侵入などの歴史的事件が大きな影を落としており、実際に末法思想を強調する事で有名な『大集経(だいじっきょう)』月蔵分(がつぞうぶん)や『蓮華面経(れんげめんぎょう)』を訳した那連提耶舎(なれんだいやしゃ、ナレーンドラヤシャス)は、西北インドに侵入したエフタル族の迫害を目の当たりにしていたと言われている。後世チベットに伝えられた『時輪タントラ』(カーラチャクラ・タントラ)はインド密教の掉尾を飾る密教経典であるが、そこには既にイスラム教の侵入によって滅びんとしているインド仏教の姿とその復興が晩年の釈尊によって暗示され、密教のみが流通する復興までの期間がまさに末法の時代として描かれている。

 

運慶(うんけい)康慶(こうけい)

運慶は貞応2年(1223年)頃、法然上人の在世と重なる平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した仏師。奈良時代の写実と平安初期の力強い重量感を取り入れて新しい様式を確立、それは特に台頭しつつある東国の武士たちに好まれ、鎌倉彫刻に多大な影響を残したと評価されている。

康慶はその父で、南都を拠点とする仏師集団・慶派(けいは)の頭領だった。

 

荘厳(しょうごん)

原語はvyūha(ヴィユーハ)で、元々は「飾り、配列」を意味し、見事に配置されている、美しく飾られていることを表現するようになった。『阿弥陀経』の原名はSukhāvatī-vyūha(スカーヴァティー・ヴィユーハ)でその意味は「極楽(安楽ある場所)の荘厳」である。

極楽の荘厳と言う場合は、極楽浄土の美しい様であり、それはまさにその仏国土を建立した仏の威神力(偉大なる力)によって生じたものであるとされる。

 

 

本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)

「本誓」は本願に同じ。阿弥陀仏が仏となる以前の修行時代に立てた誓願(誓い)の意味。原語pūrva-praṇidhānaは「以前の誓願」を意味する。「重願」は深く荘重な誓願、四十八願中の念仏往生願(第十八願)のこと。

 

【現代語訳】

(末法を迎える)今のような世相で、仏道修行を志さんとする者は、観察の行法を行ってはなりません。(それはたとえ)仏の御姿を観想しようとしても、結果得られるイメージは(貧弱であり)、(彼の)運慶や康慶(という著名な仏師)が造形する仏像ほどにも、生き生きと鮮やかな姿を思い浮かべることなど出来はしないからです。(同様に)極楽浄土のそれは見事であろう荘厳を観想しようとしても、(我々が日常的に目にする)桜や梅や桃や李(すもも)の果実(かじつ)にさえも及ばぬ姿しか思い浮かべることが出来ないでしょう。

「彼の仏(である阿弥陀仏)は、まさにこの今、この瞬間に、我々の住むこの宇宙に現存し、仏となっておられる。まさによく理解すべきである。阿弥陀仏が、仏となる以前に誓われた誓願(である第十八願)は確実に成就しているのだということを。(すなわち)衆生が称名念仏すれば必ず往生できるのだ」という(善導大師の)解釈を心から信じ、本願を頼りとして、ただひたすらに(阿弥陀仏の)名号を称えるべきです。(このように)名号を称えれば、三心(という往生に必要な心)は自ずと具わってくるのですから。

 

伝統的に覚りを目指す仏道修行に観法(観察の行法)は不可欠なものでした。

釈尊は菩提樹下での禅定観察により、この世の実相が無常転変(むじょうてんぺん)極まりないことを見通され仏陀となりました。

大乗唯識(ゆいしき)の理(ことわり)は、瑜伽(ヨーガ)によって体得され、我が浄土門においては観察行は修めるべき五つの修行(五種正行)に数えられています。

しかしながら法然上人の時代、世は次第に末法に入りつつあると信じられていました。少なくとも数多くの民衆にとり、天変地異が続発し、疫病が蔓延し、戦乱が続く世の中は、まさに末世の様相を呈していたことでしょう。仏の教えは存続していても、それを実践する者もいなければ、覚りを得る者も存在し得ない世界、そのような末法に生きるごく普通の人(凡夫)である私たちに、果たして観法を実践していくことが出来るでしょうか?勝れて集中力と忍耐を必要とし、一心不乱に邁進することが許されるような環境でこそ行える、つまり難修難行であります。

末法はかつて娑婆世界に生を受け我々を導いた釈尊自身が予告した仏なき世界、修行なき世界です。教えはあっても実践が決してままならぬ、そうした無仏の世において、一すじの光明となったのが阿弥陀仏による救済の教えでした。

阿弥陀仏の本願を信じ、その通りに念仏を実践すること、それが私たちに示された凡夫が救われゆく唯一の道であります。そして、実践の中で心が作られ、念仏による往生を心から信じることができるようになる。称念と三心が相即しているという元祖上人の立場が明確に示された御法語だと思います。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板26」

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「阿弥陀佛(あみだぶつ)助け給え(たすけたまえ)とすがるより

外(ほか)に頼(たよ)りの無(な)き身(み)なり」

画 山崎弁栄上人

和尚のひとりごと「伝道掲示板24」

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”岩崎巴人作 水墨画「雲行仏国土絵巻」”

”岩崎巴人作 水墨画「雲行仏国土絵巻」”

和尚のひとりごと「お釈迦さまの気持ちと八万四千の法門」

仏教を開かれたお釈迦さまは、弟子のひとりひとりが独立して、それぞれの個性にあったやり方で道を歩み、最終的に自らの救い(お悟り)にたどり着くことを望みました。決して一方的にただひとつの修行方法を押しつけることはありませんでした。釈迦説法

仏教聖典が何故それほど膨大なのか?
数が多いということは、それだけ多くの人々が仏教とご縁を取り結ぶチャンスを頂けることを意味します。数多くの衆生が、生きていく上での大切な指針をそこから得、救済されていくということであります。

 

歴史上、仏教が辿ってきた道を振り返っても、釈尊の金口(こんく)の説法があり、インドで栄えた出家者の仏教(部派仏教)があり、衆生の救済を第一とする大乗仏教があり、多種多様な姿をもって実を結んだ民衆の信仰がありました。現在の日本でも、そして世界の仏教国を見ても、実にさまざまな形の仏教が存在します。そしてそれぞれが信ずる教えに基づいた正しい実践があり、法燈が守られ続けています。

一見すると相反するようにも感じられる教えも、元を辿れば源には御仏の教えがあるのみ、八万四千の法門の意味は、覚りという頂上は一つでも、そこに至る道は様々であってよいということです。様々な境遇や考え方を持った人々が、それぞれに頂いたご縁に従い、たとえ一足づつでも仏道を歩んでいけば自ずと覚りの境地に近づいて行けるということです。

浄土宗を開かれた法然上人について、大正大学教授 林田 康順 師は「法然上人は「仏説はどれも百点満点」という一代仏教観を終生堅持され」たと述べられています。
教えに優劣はない、否、凡夫である私たちには仏の教えの優劣を決めることなど望むべくもない。しかしながら私たちを励まし、西方浄土へと送り出してくれる釈尊の言葉が確かにあり、その先には慈悲深き阿弥陀如来がおわします。
そして私たちにはお念仏があります。
法然上人は見出された浄土の御教えは、一部の限られた者にしか実践できない厳しい教えではなく、全ての衆生(心ある者)に開かれた教えです。志を持ち、そしてそれが果たされるべく仏の名を呼べば、必ず報われるというものです。

口称念仏は、誰でも、いつでも、どこでも行える仏道修行であります。
これからもお念仏による安心を感じて頂ける日々をお送り頂ければ幸いです。

和尚のひとりごと「祐天上人」

祐天(ゆうてん)上人は江戸時代中期に活躍した高僧、寛永14年(1637年)より 享保3年(1718年)に在世し、最終的には浄土宗大本山増上寺の36世法主まで昇り詰めました。生まれは陸奥国磐城郡(むつのくにいわきぐん、現在の福島県いわき市)、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りし仏道を志しますが、経文を覚えることすら覚束ず、ついに師より破門されてしまったと伝えられます。それを恥じ成田山新勝寺に参篭、断食修行を行う中で不動明王より智慧を授かり、以後力量を発揮していきました。

「飯沼弘経寺(いいぬまぐぎょうじ)に轉(てん)じ、紫衣(しえ)の被着を許さる」
関東十八檀林にも数えられた飯沼弘経寺の住職として、高位の僧侶のみがまとえた紫衣の被着を許可された祐天上人ですが、最初にかの地に掛錫(かしゃく)された際は「破袈裟 古綿入(やぶれげさ ふるわたいれ)を着し股引草鞋(ももひきわらじ)にて役寮へ参られ」と表現されるように、破れ衣に破れ袈裟の様相でした、ところが一旦説法を行うと皆が聞き惚れ、随喜の涙流す者多数であったそうです。

また祐天上人の名を高らしめたのは、呪術に長けていたことが大きかったようです。強力な怨霊に苦しめられる人々を救済した数多くの奇譚(きたん)が残されますが、中でも羽生村(はにゅうむら)の累ヶ淵(かさねがふち)の説話が有名です。累代(るいだい)に亘り同様の悪業を繰り返す者たちと、深い怨みを残して亡くなった娘の怨霊による祟り、それを念仏の功徳で見事に鎮め、哀れな怨霊を解脱し安心(あんじん)の境地に導いたと伝説されています。IMG_20200506_092446

他にも鎌倉大仏や奈良東大寺の復興に力を注いだことでも知られ、幕府や大奥の深い帰依を受けました。「真の僧侶は祐天ただ1人」逝去の知らせを受けた八代将軍・徳川吉宗の言葉だそうです。このように数々の名声を博した祐天上人ですが、その生涯に亘って続けたのが阿弥陀如来の六字名号を書写することでした。祐天自筆の六字名号は「南」を円(まどか)にかたどり「弥陀」のはねの部分が長く伸びている、すぐにそれと分かる独特の、そして力強い書体です。在世時には、高位の人にみならず、多くの人々の求めに応じて名号を授与したと伝えられ、その功徳は特に死霊・怨霊や祟り、厄難除けに大きな力を発揮すると信じられてきました。

 

玉圓寺に伝わる六字名号には祐天寺六big-yuten世祐全の證印により祐天上人自筆である旨が記されています。祐天寺は現在も地名にその名を残す東京目黒区にある名刹、祐天上人の没後、直弟子の祐海上人が師の遺言に従って善久院というお寺を買い取り、そこを念仏道場として再建すべく初代住職となったお寺です。のちには時の将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺名を許され現在に至ります。

 

 

念仏の功徳を多くの人々に浸透させた祐天上人、そのパワーが込められた南無阿弥陀佛の六字名号を、これからも末永く当山の寺宝として守り伝えてまいります。