Monthly Archives: 8月 2020
和尚のひとりごと「伝道掲示板104」
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめっき)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
諸行無常は仏教の旗印、三法印に数えられるこの世の実相を表した言葉。
諸々の因縁によって仮に現れているこの世界
生じては滅し、また生じる
これらが静まる境地こそが安楽である。
雪山(ヒマラヤ山)で修行していた雪山童子(せっせんどうじ)は
この偈の前半を唱える羅刹の声を聞き
後半の句を聞きたいがために自らの身を食らわせる覚悟をする。
聞き終わったあと、崖の上から身を投じると羅刹はとたんにインドラ(帝釈天)に身を変じ、童子を抱きとめたという。
雪山童子は前世の釈尊であったと結ばれている。
施身聞偈図(法隆寺に伝わる玉虫厨子)
和尚のひとりごとNo308「盂蘭盆」
今回はお盆供養が最初に説かれた『仏説盂蘭盆経』に説かれている目連尊者のお話しをご紹介します。以前にも盂蘭盆(うらぼん)の語源についてサンスクリット語(古代より続くインドの聖典語)の「ウラバンナ」に基づくと記しましたが、その意味については諸説ありました。一つは「倒懸(逆さづり)」あるいは「ウルヴァン(霊魂)」また最近では「オーダナ(ご飯)」を乗せる盆のことであるとも説明されます。
「ウラバンナ」を逆さづりとすると、これは非常な苦しみを表現していると言えます。
『仏説盂蘭盆経』は、有名な仏弟子の目連尊者の母親が餓鬼の境遇で苦しんでいたのを救済する物語であり、別の経典では母親は地獄に堕ちてしまっていたとも言われています。
十大弟子の中でもとりたて神通力に優れていた目連尊者は、ある日、亡き母親の現在の境遇を知りたいと考え、その居場所を天眼(てんげん、優れた眼力)で探したところ、餓鬼界で飢えと渇きが癒されない苦しみを味わっているのを見つけました。目連尊者はその空腹を満たすため、食物を差し出そうとしますが、母親が食べようとするその瞬間にご飯は炭と化して食べることができません。
師である釈尊に相談するとこのように仰りました。
まずは目連尊者に、
七月十五日「僧自恣」(そうじし)の日に衆僧(修行僧たち)にご飯や食べ物、香油、燭台、敷物、寝具などを供えるように。
そして修行僧たちには、
施主の家のためを願い、七世の祖先の幸せを祈り、坐禅をして心を定めてから食するように。
これら十方の衆僧の力があり、目連尊者の母は救われたと記されています。
今でも夏のこの時期にお盆供養が行われるのは、このお話に基づいているのです。
和尚のひとりごと「伝道掲示板98」
「我深く汝等(なんだち)を敬う、敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん、汝等皆菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏することを得べしと」
(常不軽菩薩 じょうふぎょうぼさつの言葉『妙法蓮華経』より)
礼拝の意味
それは自分より偉い者にひれ伏すことだけではない
目の前に現れるすべての存在がいずれは菩薩業を完成し仏となることを予感して、心から恭敬することである
この精神を受けた宮沢賢治はこう残している
雨ニモマケズ
風ニモマケズ…
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
(インターネットの図書館、青空文庫より)
柴又帝釈天の法華経説話彫刻より