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和尚のひとりごと「成道会」
12月8日は仏教の開祖であるお釈迦さまが悟りを開かれたことを記念して行われる成道会の日です。
成道とは釈迦が菩提樹下での禅定を経てブッダ(覚者)となったこと、つまり悟りを開いたことを意味します。
この成道会は釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ、4月8日)と入滅された日に勤める涅槃会(ねはんえ、2月15日)と並び、釈尊三大法要に数えられています。一方、スリランカを経て東南アジアに伝わった南伝仏教では、年に一度のヴェーサカ祭でこの三つを盛大に祝います。これが行われる時期は、インド暦第二の月とされ、日本では4月か5月に相当します。
ご存じのように「お釈迦さま」の「釈迦」とは種族の名前です。そこで仏教徒たちはお釈迦さまのことを尊敬を込めてこのように呼びならわしてきました。「釈迦族出身の聖者」つまり「釈迦牟尼世尊」略して「釈尊」といいます。そして悟りを開いて仏となる前は、ゴータマ・シッタールダと呼ばれていました。ここでは上記に倣い、悟る前を「シッタールダ」、悟った後を「釈尊」と呼ぶことに致します。
さて成道はつぶさには「降魔成道(ごうまじょうどう)」と呼びます。今まさに悟りを開こうとしていたシッタールダの眼前に現れて成道を妨害せんとする魔を斥けて、見事に悟りを得たという意味です。この「魔」はサンスクリット語で「マーラ(魔羅)」と呼ばれ「殺す者」を意味します。このマーラはまず手始めに自身の娘たちによってシッタールダをかどわかそうと試みますがその心は動きませんでした。そしてついにマーラ自身が現れ、恐ろしい怪物や数知れぬ程の武器を放ちましたが、何とその武器は静かに坐すシッタールダの眼前で美しい花に変わったと伝えられています。「魔」は人間誰しもが心に持っている煩悩や恐怖や迷いを象徴するものです。
それではこの成道の舞台を少しのぞいてみましょう。
四苦八苦に代表される人生問題を解決するために故郷の城をあとにし、二人のバラモンの師に瞑想を学び、苦行や断食に身を費やしたシッタールダでしたが、あるとき河の船乗りのことばを耳にします。琵琶の弦はきつく張ってもいけない、ゆるく張ってはいい音色が出ない…
苦行主義と快楽主義の両極端を離れた中道においてこそ、悟りへの道を歩むことができる。シッタールダは6年にわたった苦行を捨て、ナイランジャナー川(尼連禅河、にれんぜんが)のほとりで供養された乳がゆを食して河で沐浴し、近隣のピッパラ樹(インド菩提樹)の下に坐り深い禅定に入りました。そしてついに悟りを開いたとき空に輝く明けの明星を見たと言われています。その後、菩提樹下に坐したまま解脱の楽を味わうこと49日間に及び、のちに十二支縁起としてまとめられる「縁起」を悟りました。苦しみや迷いに彩られた私たちのあり様は、実相を明らかに見ようとしない無知(無明)に原因がある。この世界の森羅万象は、原因と条件(因縁)によって成り立っている。このように悟ったときから、シッタールダは覚者(ブッダ)と呼ばれるようになりました。
成道の舞台となったブッダガヤは現在、世界中の仏教徒にとって最大の聖地となり2500年経った今でも巡礼者が絶えることはありません。
さて写真は悟りを開かれたそのときを表す降魔印(触地印)を結ぶ釈尊の御姿です。成道の瞬間、大地は大いに震動したが、釈迦の座した宝座だけは微動だにしなかったと伝えられています。そして大地を示したその手は、自らが悟りを開いてブッダとなったことを外ならぬ大地が証明していることを表しているのです。
和尚のひとりごとNo416「信頼はかたちのない財産」
本年一月『「おはよう」笑顔かがやく』の中でも書きましたが、「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言って、金品でなくても出来るお布施が『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に説かれています。
「眼施(げんせ)」:澄んだ優しい眼差しで応じる事。
「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」:和やかな優しい笑顔で接する事。
「言辞施(ごんじせ)」:優しい思いやりのある言葉で接する事。
「身施(しんせ)」:体で出来る事は進んでさせてもらう事。
「心施(しんせ)」:心から愛情を注ぎ、思いやりの心で相手の立場になって接する事。
「床座施(しょうざせ)」:座席や場所を譲る事。
「房舎施(ぼうしゃせ)」:部屋を綺麗にしてお客様を招き入れ、不快な感じを与えない事。
日々の暮らしの中では、相手に対する接し方や自分自身の行動で信頼関係が築き上げられ、それが目には見えないけれども大きな財産となってまいります。「無財の七施」はどちらかというと目に見えて分かる善業、善い行いです。「陰徳(いんとく)」という言葉があります。人の見ていないところでする善い行いで、その善業によって自身の徳を積むという事です。徳とは善い行いによって身に付く特性や結果として得られる善い報いの事です。人目に触れず善い事をするという意味合いが強いですが、積極的にプラスになる事をするのではなく、マイナスになる事をしないという心がけで、結果としてプラスになるという意味が本来の「陰徳」です。例えば電車内で体調の悪そうな人や高齢者を見かけた時に席を譲るのは「床座施」であり、「陰徳」ではなく「顕徳(けんとく)」になります。目に見えて分かる善い行いが「顕徳」。「陰徳」は、「もしかしたらここに誰か座るかも知れないと思って、初めから座らずに立っておく行い」を言います。「陰徳」の実践方法は色々ありますが、『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』という禅宗の書物には「人知れず仏様を拝む事が陰徳である」と説かれています。
法然上人は「飾る心無くして、真(まこと)の心でお念佛を申しなさい」と示されました。ある晩、法然上人が夜中に起きて一人でお念仏を申していたのですが、人の気配を感じたので声に出してお念佛を称えるのを止め、法然上人はそのまま寝つかれました。どうしてお念佛を止められたかについて、法然上人は、「人は必ず人目を気にするものです。どんなに親しい間柄でも人目を気にし、飾る心というものを人間は持っています。そういう飾る心でお念佛を申しては心の底から素直に往生を願う事は難しいものです。人目を気にする事なく、飾る心を捨てて真心込めてお念佛申す事が大事です」と仰られました。
人目を気にして良く見せようという着飾った気持ちでは誠実な心ではなくなります。日々の日暮らしの中でも人目を気にしてではなく、誰が見ていようと見ていまいと善い行いをする事で信頼は生まれてくるものです。常平生の行いは身につくものですから出来るだけ善い行いを心がけて過ごして参りましょう。