Monthly Archives: 5月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板340

『釈尊の言葉その36』

”眠りすぎてはならぬ
油断する事なく、熱心に努力し、目覚めているようにせよ
怠惰であること、偽ること、談笑すること、遊戯、異性との交わりを捨てよ

私に従う者たちは
アタルヴァ・ヴェーダの呪法、夢占い、人相占いを行ってはならない
鳥獣の声により占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない

修行者は、たとえ非難を受けてもくよくよ悩んではならぬ
称賛を受けても、驕り高ぶってはならぬ
自分自身から、貪りと吝嗇(ものおしみ)と憎しみと悪口を取り除け

修行者は、商取引きに従事してはならない
他人を誹謗することなかれ
村人たちと親し気に交わることなかれ
自分が得しようという考えで人々に話しかけることなかれ

修行者は、驕り高ぶりを捨てよ
自分の利益が目的であるような取り計らいをするな
傲慢ならず、相手といさかいを起こすような言葉を吐くな”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板339

『釈尊の言葉その35』

”眼に見えるものを貪ることなかれ
卑俗な話題から耳を遠ざけよ
美味なるものに耽溺してはならぬ
世間にあふれるさまざまな対象も悉く
「我がもの」であると執着することなかれ

修行者が苦痛を感じたとしても
決して悲嘆に暮れてはならぬ
生きていることに対して貪りの心を起こすことなかれ
恐ろしいものに出遭っても、慄(ふる)えおののいてはならぬ

食べ物や飲み物や保存食品や
身につける衣服を得たとしても
蓄えおさめることなかれ
たとえそれらのものが得られない場合でも
心を患わせることなかれ

こころをしっかりと定めて安らかに
うろうろとすることなく
行なったあとで後悔するような事はせず
怠ることなかれ

修行者は静かな場所で生活すべきである”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板338

『釈尊の言葉その34』

”かたときも母牛のそばを離れようとしない子牛を見よ
まさにこのようにひとたび、覚った方の教えを耳にした者は
決して覚者の側から離れようとしないであろう。
教えを聴くことはかくの如く楽しいものなのである”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板337

『釈尊の言葉その33』

もし勤めて精進すれば
即ち事(じ)として難(がた)き者なし
この故に汝らまさに勤めて精進すべし
譬(たと)えば少水の常に流るれば
即ち能く石を穿(うが)つがごとし
『仏垂般涅槃略説教誡経』 より

「仏垂般涅槃略説教誡教」(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)は古来より「遺教経」(ゆいきょうぎょう)として宗派を問わず親しまれてきた。
弟子たちに説かれた釈尊最後の教えといわれている。

それは釈尊が人生の長い旅路を終えた日、
インドはクシナガラの沙羅双樹のもと
その夜は満月であったと伝えられる。

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板336

『釈尊の言葉その32』

岸辺に立つ人が声高に叫んでいる。
”楽し気に川の流れを下ることを止めよ
下流で待っているのは
波たち、渦巻く
鰐と恐ろしい夜叉(やしゃ)が潜むよどみである
そのまま下ってゆくことは死を意味するのである”と。

「川の流れ」とは愛欲に溺れる生活である。
「楽し気に下る」とは、自らの身体への執着である。
「波たち」とは憎悪と悩みの生活であり
「渦巻く」とは欲望に溺れる姿である。
「夜叉が潜むよどみ」とは自らなした罪悪によって滅びる人生である。
そして「岸辺に立つ人」とは仏陀のことである。

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板335

『釈尊の言葉その31』

人の計らいは
対象への愛着を起こし
ついには苦しみと悩みを生む
『中部経典』より

”さまざまな慮(おもんばか)りが、一切の対象への愛着を生む
時に富に、財産に、名を持つものに、生命に愛着の心を抱く
有無や善悪や正邪、それらの全てに囚われて迷いを重ね
その結果、苦悩している”

存在するも存在しないも
正しきことも正しくないものも
善いも悪いも
それらにとらわれるならば
畢竟(ひっきょう)すべて執着であり
執着は苦悩を生む..

 合掌

和尚のひとりごと「六月四日は伝教大師(でんぎょうだいし)のご命日」

六月四日は伝教大師(でんぎょうだいし)最澄のご命日です。また本年二〇二一年は、その滅後よりちょうど1200年目の節目にあたります。


最澄は日本天台宗の開祖として知られています。天平神護(てんぴょうじんご)二年(766年)、近江国(おうみのくに)(滋賀県)に誕生し、一二歳で同地の国分寺の行表のもとで出家、一四歳で得度し最澄と名付けられ、延暦四年(785年)四月には東大寺にて具足戒を受けて正式な僧侶となりました。当時は正式な僧侶となるためには、二五〇箇条にも及ぶ戒(出家者の生活規範)を受けることでいわば国家の公認を得る必要がありました。そののち比叡の深山に入り、名誉利得を離れた遁世の身として修行に励みます。そうした中、鑑真請来の天台典籍を学び、『法華経』および天台教学こそが最上であるとの信念のもとで研鑽を積み、同地に一乗止観院(後の延暦寺根本中堂、えんりゃくじこんぽんちゅうどう)を建立、自ら刻(きざ)んだ薬師如来を安置し灯明(あかり)を点じました。その灯明は、この時以来一千二百年以上もの間一度も絶えることなく、比叡山の根本中堂に灯され続けていると言われています。
最澄は延暦十六年(797年)には、宮中にて天皇の病気平癒(へいゆ)を祈る内供奉(ないぐぶ)という重職に任ぜられ、また東国の道忠らとともに写経事業を進めていきます。


同じく延暦二三年には、ときの桓武天皇の帰依のもと勅命により還学生(げんがくしょう、正式な留学僧)として唐にわたり、天台教学の本場にて修学、また密教も相承して帰国しました。日本で最初に灌頂(密教の奥義を伝法する儀式)を行ったのも最澄でした。
宮中での法論(教義をめぐる論争)や東国での灌頂など、精力的に活動した最澄が、晩年注力したのが法相宗の徳一(とくいつ)らとの論争、ならびに日本初の大乗戒壇の設立でした。徳一との論争は「三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)」と呼ばれ、様々な素質を持つ衆生にはそれぞれに適した仏道の道があるとする「三乗真実」と、そうではなく素質に関わらず全ての衆生が唯一の道で仏と成ることが出来るのだとする「一乗真実」の争いであり、最澄は『法華経』に基づいて「一乗こそ真実である」という立場をとっていました。またこれは、あらゆる衆生に仏と成れる素質が本来的にあるのか、あるいはそうではないのか、という「悉有仏性(しつうぶっしょう)」論にまでつながる重要な論点でしたが、各々が拠って立つ経典が異なり、そのどちらが仏の真意であったのかという考え方の違いでもありました。


また悲願であった大乗独自の戒壇の設立は生前は果たされず、弘仁一三年(822年)に遷化したのち七日目にして勅許が下ったと伝えられています。
さて最澄滅後、その後継者たちにより「円・戒・禅・密」の総合という師の実現が目指されてゆきます。例えば弟子の円仁は入宋・巡礼を経て浄土教や密教教理の充実を図り、既に述べたように弘仁一三年には既に大乗戒壇の設立をも果たされていました。その後の比叡山はいわば総合仏教大学として発展してゆきます。
日本浄土教の始祖とも言える浄土宗の法然房源空、その流れを継ぐ各宗や弟子の親鸞より始まった一向宗(浄土真宗)、あるいは最澄の法華一乗主義を受け継ぎ「妙法蓮華経」の五字に依らずば末法の衆生は救われないと説いた日蓮、天台で禅を学んだあと宋にわたり只管打坐(しかんだざ)の禅を日本に伝えた曹洞宗の開祖道元など、現在に伝わる日本仏教の大きな流れが比叡山あるいは天台宗を母胎としていることは確かでしょう。
最後に最澄の有名な言葉をご紹介いたします。
「照于一隅 此則国宝(一隅を照らす 此れ則ち国宝なり)」
社会の一隅にありながら、社会を照らす生活を送る。そういった人々こそが国の宝である(山家学生式)。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板334

『釈尊の言葉その30』

釈尊はあるとき、修行僧に仰った。
「比丘らよ、汝らが長い生死輪廻の中において
かつて愛した者との別離にあたって流した涙の量と、四大海の海水と
果たしてどちらが多いだろうか?」

「世にも尊き聖者よ、私たちは師の教えにより
かつての愛した者との別離において流した涙の方が
四大海の海水よりも多いことを承知しています」

「よいかな、比丘らよ
我らは生死輪廻の中において
父母の死別、我が子との死別、友との死別に遭い
じつに四大海の海水も及ばないほどの涙を流してきたのだ」

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板333

『釈尊の言葉その29』

身体により過ちを犯さぬように、護り慎んでおれ
身体による悪行を捨て、身体により善行をなせ。

言葉により過ちを犯さぬように、護り慎んでおれ
言葉による悪行を捨て、言葉により善行をなせ。

心により過ちを犯さぬように、護り慎んでおれ
心による悪行を捨て、心により善行をなせ。


身・口・意の三業により、人間のあらゆる行為(業)は尽くされる。
その各々について、悪を防ぎ、善を行うよう、まもり落ち着け、自らを調御(ちょうご)すること。
釈尊の教えはかくの如くであった。

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板332

『釈尊の言葉その28』

”ブッダはどのようなお方か?”
ある夜叉(精霊)は、別の夜叉に問われて次のように答えた。

”かくの如く立派な聖者であるブッダは
一切の生き物に対して、心安らかなまま動ずることなく
与えられないものを取らず
生き物を殺さないように心がけ
怠惰からは遠ざかり
常に注意を払っている。

偽りの言葉を吐かず、粗暴な言葉づかいをせず
陰口をたたかず、意味のないおしゃべりに興ずることもない。

欲望の享楽にふけることなく
心は濁らず、あらゆる迷いを克服し
目覚めたる者として、一切の物事を明らかに見通す眼を持っている。

明知を持ち、煩悩の汚れなく
その行いは清らかである。

彼はもはや再びこの世界に生まれるという事がない”

 合掌