和尚のひとりごと「衣替え

6月は私たち浄土宗でも衣替えの季節です。記録によれば旧暦の四月一五日に衣替えを行うのが本義とされていたようですが、これは夏安居(げあんご)入りの日でもあります。夏安居とはもともとはインドで雨季の間は外出せず、一カ所にとどまり皆とともに修行を行ったという習慣に基づいています。
さて、僧侶が身につける装束は一般に袈裟と衣であると言われていますが、その由来についてご紹介したいと思います。
袈裟とはkaṣāya(カシャーヤ)と発音されるインドの言葉に由来し、赤褐色(せっかっしょく)を意味していました。これは壊色(えじき)、染衣(せんね)などとの訳され、在家の人が身にまとう単一色に染められた衣服とは異なり、様々なぼろきれをつなぎ合わせた布を身にまとう出家の姿の旗印でもありました。壊色とは具体的には鮮やかな色ではない青・黒・木蘭(樹液で染めた茶系の色)を指し、これが現在僧侶がかけている袈裟の色の原形となります。
そしてその袈裟は形式により分類されます。袈裟は縦長の布片である条を縫い合わせて作りますが、これが五列であれば五条袈裟、七列であれば七条袈裟、九条であれば九条袈裟といった具合であり、五条袈裟を安陀会(あんだえ)、七条袈裟を鬱多羅僧(うったらそう)、九条より二十五条の袈裟を僧伽梨(そうぎゃり)と呼んでいます。これらは腰に巻き付けるのが五条袈裟、身体に着けるのが七条袈裟、さらにその上からまとう九条以上の袈裟という風に使い分けられていました。
さて仏教の教えが北方から西域の国々を経て中国に伝わると、気候の違いにより、また文化の相違から、袈裟の下に衣を着用するように変化し、袈裟は法衣の一番上に着用して僧侶の威儀を整え、その威厳を象徴する意味合いを強め、日常服としての本来の用法を離れてゆきます。
我国に伝承された法衣には、奈良時代に伝わった教衣(きょうえ)・平安時代にできた律衣(りつえ)・鎌倉期に流行した禅衣(ぜんね)の三種があるとされ、採用する宗派の違い、また相互に影響を及ぼし合ったことなどにより、宗派によって身につける法衣の特色があらわれるようになりました。
さて現在法要で見かける律衣の七条袈裟には、大きく天竺衣と南山衣の二種があります。天竺衣(てんじくえ)とは、その名のとおりインド直伝の袈裟の形であり、現地での見聞をもとに義浄三蔵が伝えました。南山衣(なんざんえ)とは同じくインドから伝わった四分律という書物に規定される袈裟の形をもとに、中国の道宣(どうせん、南山律師)が考案した形であり、袈裟を固定する大きな輪が特徴となっています。
このように歴史的変遷を経て、様々な形をとっている袈裟ではありますが、尊敬すべき対象に対して右側を向け、その際には肩に袈裟をまとわないこと、古来より仏教を他の教えから判別する基準であったこの偏袒右肩(へんだんうけん)の習慣は、現在に至るまで大切に守られているのです。