和尚のひとりごとNo622「法然上人御法語後編第十四」

四修(ししゅ)
【原文】
問う。信心(しんじん)の様(よう)は承(うけたまわ)りぬ。行(ぎょう)の次
第(しだい)、いかが候(そうろ)うべき。
答(こた)う。四修(ししゅ)をこそ本(ほん)とする事(こと)にて候(そうら)え。一つには長時修(じょうじしゅ)、乃至(ないし)、四(よ)つには無余修(むよしゅ)なり。
一つには長時修というは、善導は「命の終るを期(ご)として誓(ちか)って中止せざれ」と云う。
二つに恭敬修(くぎょうしゅ)というは、極楽の仏・法・僧宝(ぶっぽうそうぼう)に於(おい)て、常に憶念(おくねん)して尊重(そんじゅう)をなすなり。
三(み)つに無間修(むけんじゅ)というは、要決(ようけつ)に云(いわ)く、「常に念仏して往生の心を作(な)せ。一切の時に於(おい)て、心に恒(つね)に想い巧(たく)むべし」。
四(よ)つに無余修(むよしゅ)というは、要決に云く、「専(もは)ら極楽を求めて弥陀(みだ)を礼念(らいねん)するなり。ただ諸余(しょよ)の行業(ぎょうごう)を雑起(ざっき)せざれ。所作(しょさ)の業(ごう)は日別(にちべつ)に念仏すべし」。

要義問答より
koudai14
【語句の説明】
四修(ししゅ)
念仏実践に必要な四種の態度や方法。すなわち念仏実践の仕方を示したもの。
浄土宗では願往生者の心構えと具体的な実践について「安心・起行・作業(あんじん・きぎょう・さごう)」という形で概括している。「安心」とは浄土往生を求めるにあたり具えているべき三つの心(三心)であり、「起行」とはその安心に基づいて実践すべき行法(五種正行)であり、「四修」とはそれらの行法を日常生活において策励していく為の四種の態度である。

長時修(じょうじしゅ)
恭敬修、無間修、無余修を臨終の際に至るまで一生涯にわたって継続する事。

恭敬修(くぎょうしゅ)
敬い尊重する態度で実践する事。恭敬の対象は、極楽の阿弥陀仏ならびに菩薩や聖衆、阿弥陀仏の尊像や浄土を説く経典、浄土の教えを説く人々や共に教えを行する者たち、そして仏法僧の三宝であるとされる。

無間修(むけんじゅ)
あたかも遠い故郷の両親を片時も忘れないように、常に極楽への往生の想いを抱き、他の行法によって間断させない事。

無余修(むよしゅ)
専らに阿弥陀仏と西方浄土に関連する行のみを行い、他の行を顧みない事。

憶念(おくねん)
常に心に留め、忘れない事。

要決(ようけつ)
正式には『西方要決釈疑通規(さいほうようけつしゃくぎつうき)』。中国法相宗の祖である慈恩大姉基の撰とされる。西方浄土への往生を勧める為に、弥勒の兜率天との優劣や他の教義との相違などを横断的に注釈した書。


【現代語訳】
伺います。
信心の在り様については既に謹んで承りました。それでは行(おこない)の進め方についてはどのようにあるべきでしょうか?

答えよう。
それは四修を根本とするのです。それは第一の長時修より、第四の無余修に至るものです。
第一の長時修については、善導大師はこのように仰っています。
「命終わるその時まで、誓って中止せざること」。
第二の恭敬修とは、極楽世界にまします仏と教えと修行者の集いという三つの宝に対して、それを常に忘れず心に留め、尊重するように心がける事であります。
第三の無間修とは、『西方要決』によれば、「常に念仏をして往生を願う心を持て、あらゆる瞬間にそのことを心に想うように工夫をこらせ」とある通りです。
第四の無余修とは、『西方要決』によれば、「極楽を求めて阿弥陀仏に礼する心を専らとする事である。その他の種々の行法を交え行じてはならない。すべき事は、毎日のように念仏を行う事である」とある通りであります。

元祖上人の『一枚起請文』に示される如く、「浄土宗の安心、起行」を一言で表すならば「ただ一向に念仏すべし」。
そしてその実践において、心掛けるべき態度がここに示されている。
合掌