Monthly Archives: 12月 2021
和尚のひとりごと「伝道掲示板526」
”自己を抑制して悪を作さず、若き時分も中年になっても、聖者は自己を抑制することに変わりない。
彼は他に悩まされることはない。
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
他者から施されたものによって生活し、器の上部、真ん中、また下に残った食物のいずれを得ても
施した者を褒めず、貶めず、罵らない。
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
淫欲を断ち、いかなるうら若き妙齢の女性にも心惹かれず
傲り、怠りを離れて、束縛より脱している者
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
この世の中を理解して、最上の真理を見て、激流を超えて大海原を渡りきったかくの如き人
束縛を破り、依存を離れ、煩悩の汚れなき人
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。”
『スッタニパータ』より
和尚のひとりごと「伝道掲示板525」
”あらゆるものに打ち勝って、すべてを知り尽くし、かくも聡明であり
すべての事物の汚れとは無縁であり、すべてを捨て、愛執を滅ぼして解脱を成し遂げた人
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
智慧の力を備えて、戒めと誓いを守り、心の統一により禅定の楽しんで
落ち着いた心で注意深く、執着とは無縁であり、荒ぶることもなく、煩悩の汚れを離れた人
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
ただ独り歩み、怠ることなく、毀誉褒貶に心動かされず
まるで物音に動じない獅子の如く、また網にはかからぬ風の如く
そして泥水に汚されぬ蓮の花の如くに
他に導かれることなく、他を導く、そのような人
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。”
『スッタニパータ』より
和尚のひとりごと「伝道掲示板524」
”執着がなく、既に覚っており、疑いを持たず、不死の境地に達した者
私はこのような人をこそバラモンと呼ぶ。
いまここにおいて、功徳や、罪や、執着の対象を克服し
悲しまず、愛着しない、浄らかな人
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
曇りなき月のように、汚れなく、清く、澄み渡り、濁りなく
快楽もなく、再び生まれ変わることのない人
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
前を遮る障碍、険しき道、迷いの生死輪廻の洪水を乗り越えて完成し
瞑想に励み、何事にも心かき乱されることなく、思い煩いなく
穏やかなる人
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
この世界に存する欲望の対象、それらをすべて切り捨てて
どこにも住まいを持たずに行脚し
欲望によって再び生まれ変わることのない人
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
この世界に存する渇望、それらをすべて切り捨てて
どこにも住まいを持たずに行脚し
渇望によって再び生まれ変わることのない人
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
人の世において私たちを縛り付けておくもの
天界にあって神々を縛り付けるもの
それら一切の束縛を乗り越えて解放された者
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。
快も不快も共に切り捨て、浄らかに涼やかに
煩悩の炎に焼かれることなく、所有するものに執着せず
世界中で最も優れた勇者
私はこのような人をこそ真のバラモンと呼ぶ。”
『スッタニパータ』より
和尚のひとりごと「除夜の鐘」
いよいよ年末も押し迫って参りました。皆さんは年末年始をどのように過ごされますか。そう尋ねられたとき、真っ先に思い浮かぶのは「除夜の鐘」ではないでしょうか?年が入れ替わる大晦日に除夜の鐘をつき、新たな気持ちで新年を迎える、これは私たち日本人にはまことに馴染み深い習慣です。
この「除夜の鐘」は、他の様々な仏教行事などと同様に、中国大陸から我が国に伝わりました。既に鎌倉時代には禅宗の寺院で鐘を鳴らす習慣が広まっています。外来、寺院における鳴らしものは、修行僧の生活を律し、時を知らせる重要な役割を担っていました。やがて全国の寺院に採用されるようになったこの習慣は、山のお寺で朝に夕に鳴らされる梵鐘の音として、どこか懐かしい風景でもあります。
ところで除夜の鐘は108回鳴らされるというのが一般的ですね。この「108」という数の由来には諸説ありますが、代表的なものが人間の持つ煩悩の数を数え上げたものである、というものです。煩悩の数だけ鐘を鳴らして、それが私たちを悩まさぬように祈り、清々たる心持ちで新年を迎えるというわけです。
ここで代表的な2つの説をご紹介致します。
そもそも「煩悩」とは「身心を煩わせ苦しめるもの」というのが原意で、苦しみを引き起こす原因となる心の作用を指しています。煩悩があるから私たちは苦しんでいる、その煩悩を滅していくこと、これが仏教の基本的な考え方です。お釈迦さまの時代にはそれほどでもなかったのですが、やがて時代を下ると煩悩の種類やあり方について詳細な分類がなされるようになりました。
まず1つ目の説は、人々を迷いに結びつけて話さぬようにする作用である98種(九十八随眠)、さらにここに心を縛り付けて仏道修行を妨げる作用である次の10種を加えて108とする考え方です。10種とは、恥じないことを示す
「無慚(むざん)・無愧(むき)」、妬みを示す「嫉(しつ)」、物惜しみを示す「慳(けん)」などを始めとして、悔(げ)・睡眠(すいめん)・掉挙(じょうこ)・惛沈(こんちん)・忿(ふん)・覆(ぶく)となります。
2つ目の説は、私たちが備える6つの感覚器官である「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」の六根がまずあり、それぞれが対象に対して感じる「好(こう、心地よい)・悪(あく、気持ち悪い)・平(へい、どちらでもない)」の3種を数えここで合計18種、さらにこの18種に「浄(じょう、きよらか)・染(せん、けがれている)」の2種があり合計36種、さらにこれを「前世(ぜんせ、過去世)・今世(こんぜ、今の生存)・来世(らいせ、請来の生存)の三世」に配当し合計108種となるというものです。
さてこの除夜の鐘の習慣が全国津々浦々にまで定着したのは、意外と新しいことだったと言われています。時は昭和2年(1927年)のこと、東京上野の寛永寺にてNHKのラジオ放送を通じて除夜の鐘の中継放送がされました。その後TV放送が始まると全国の『除夜の鐘』が撞かれる様子がお茶の間に中継されるようになり、皆さんもご存知の『ゆく年くる年』として定着するようになったというものです。
また意外に思われるかも知れませんが、仏教国タイで観光地として有名なワット・ポー(涅槃寺)では、小仏にコインを供えてゆき、最終的に108の全ての仏様に供えられたら悟りに近づけているというお参りが奨められています。
人は行きていく上では、悩み迷いながら、時には様々な煩悩を抱えざるを得ないのかも知れません。1年の締めくくりに私たちを苦しめる煩悩の消滅を祈り、清々たる気持ちで新年を迎えたいと思う次第であります。