和尚のひとりごとNo843「今こそよく聴きよく遺す」

  お釈迦様の御弟子様の一人で多聞第一(たもんだいいち)と称された方が居られます。阿難(あなん)尊者(そんじゃ)と言われる弟子です。阿難はお釈迦様のお側に二十数年間付き従い、常に説法を聞いていたので多聞第一と呼ばれるようになりました。また記憶力にも優れ、今日読まれるお経は阿難が伝え聞いたものが多いとされています。お釈迦様が亡くなる時まで一緒に居られた阿難尊者は、師が亡き後、自分はどのように生き、何を頼りとしていけばいいのかを尋ねました。すると師匠であるお釈迦様は、「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」、「自らを灯火(ともしび)頼りとし、法を灯火、頼りとしなさい」と仰られました。このお言葉については様々な解釈がなされていますが、自分自身の信仰と御受け取りください。自分自身の信じる道をしっかりと歩み、仏法を信じて生きていくという事。浄土宗ではお念仏の御教えを頼りとして生き切ってくださいという事です。この世は思い通りにならない世間と受け入れたならば、あとは自分の心の内をしっかりと省みて、正しい教え信じる事が大事です。2022nigatu
 自分自身を信じる、自分の心の内を省みるとは、自分自身の至らなさ、愚かさを省みるという事です。信機(しんき)と言います。法然上人は、「始めには我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。」と、先ず始めには我が身の程、自分自身とはどの様な人間であるのか、その事を先ず始めに考え、省みて、それから仏の願、必ず救ってくださるという教えを信じなさいとお示しくださっております。
 何故、先に我が身の程を考えていく必要があるのか。それは我が身の程を知らずに、仏の願いを先に信じたならば、貪りや怒り、憎しみといったものが起きてきた時、自分は卑しい者だと思い、こんな私では到底救われないと仏の本願そのものを疑ってしまうからです。ですから、先ず初めに愚かな我が身である事を省みて、至らない自分の身の程を信じて参りましょうという事です。自分はこんな愚かな人間であるという事をしっかりと認め、受け入れてから、こんな愚かな自分だからこそ仏様に救いとって頂けるのです。阿弥陀様に救い取って頂くしかないのだという思いに至るという事であります。
 我が身の程を省みたならば、次に西方極楽浄土を信じ、阿弥陀様を信じ、お念仏を信じていく。その信仰、信心を持ってお念仏の行を怠らず日々精進していただき、阿弥陀様のお救いくださる力にただただ身を任せ、信仰が深まれば深まる程、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という謙虚な心にさせていただきたいものです。