伝道掲示板

和尚のひとりごと「伝道掲示板282」

畜生回向文

たとえ獣類などであっても、ひとたび、弥陀の名号を耳にしたならば
三悪道を離れ、菩提を目指すことができる..

”畜生”の原意は水平に歩む存在を意味した。
直立歩行を行わない生類である鳥や獣、虫や魚類などの有情を指す。
この回向文は動物や家畜を供養する際に唱えるとされている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板281」

禮塔回向文

『六十華厳』より。

仏塔を礼するときに唱える偈文。
仏塔は仏舎利を収める塔であり、仏の身体そのものを象徴する。
初期の仏教では仏の似姿を造形することは避けられ、仏舎利を収めた仏塔こそが崇敬の対象であった。
釈尊滅後、その遺骨は八当分されて奉納され、さらに後のアショーカ王によって再分配され、各々の仏塔に収められたという。

曰く
願わくは仏塔を礼することにより
衆生、仏の如く仏道を究めんことを..

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板280」

展坐具偈

善き哉かな尼師壇は、諸仏の受用したまう所なり
願わくは一切衆と共に、常に其の中に坐せん

坐具を展開する際(展坐具)に唱える偈文。
釈迦滅後の最初の教法結集の際、
25年間師と道行をともにした阿難尊者が教法を誦出するとき、
摩訶迦葉尊者は敬意を表して尼師壇(niṣīdana、坐具)をその前に敷いたという。
浄土宗では特殊法要の際に展坐具を行っている。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板279」

zaihou

受嚫偈(じゅしんげ)

施主より金銭・物品の布施を受けた際に唱える偈文。

布施行による功徳が円満なること、そして菩薩が理想とする布施行の如く
布施の当体、受ける者、ならびに施されるものがともに清浄なること(三輪清浄)を祈念する。

和尚のひとりごと「伝道掲示板278」

洗浴偈

入浴(沐浴)に際して出家が唱える文。入浴によって身体のみならず心も清浄ならしめんと願う。
明治期に著わされた我が浄土宗の法式を網羅した啓蒙書である『浄土苾蒭宝庫』に出典が認められる。
その典拠と想像される『華厳経』には
「澡浴身体 当願衆生 身心無垢 光明無量(内外光潔)」とある。


合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板277」

称讃偈

善導『般舟讃』より

(書き下し文)
釈迦如来の真の報土は、清浄にして荘厳の無勝是れなり。
娑婆を度せんがために、化を分って入り
八相成仏して衆生を度す

増上寺を中心とした東国の縁山流声明において唱えられるもので、この偈は初重に該当する。続く二重・三重とともに、まず前段の四念仏が唱えられ、それに後段の偈が続く形式をとる。「称讃偈」と称されるように誦経後の称讃として用いられることが多い。
”八相”とは教主釈迦牟尼仏の生涯を彩った大切な出来事で、弥勒の兜率天からの「下天(げてん)」、母摩耶夫人の胎内に宿った「託胎 (たくたい) 」、母故郷への道すがら、その右脇から誕生した「降誕 (ごうたん) 」、人生の苦悩を解決せんがために城を出た「出家 (しゅっけ)」、覚りに対する悪魔による障害を退けた「降魔 (ごうま)」、そして菩提樹下での正覚(さとり)である「成道 (じょうどう)」、鹿野園において五比丘になされた最初の説法である「転法輪 (てんぼうりん) 」、クシナガラ沙羅双樹のもとで入滅された「入涅槃 (にゅうねはん) 」の八つを指している。

 

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板276」

錫杖偈

 

『八十華厳』浄行品より。

錫杖を手に執るとき、
願わくは人々と共に大施の法会を設け
真の道を示されんことを..

比丘の十八物に数えられる錫杖は元来、遊行する沙門が蛇や毒虫を殺さずに追い払うために携帯したものであり、時には乞食の際に在家の門前でそれを振って合図とした。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板275」

雪山偈(無常偈)

『大般涅槃経』より


(書き下し文)
諸行は無常なり、これ生滅の法なり。
生滅の滅し已りて、寂滅せるを楽となす

諸々のつくられた事物は、実に無常である。
それらは生じては滅する法である。
生じては滅びるこれらの法の寂滅が安楽である。

釈迦牟尼仏の過去世、雪山童子がこの真理の偈を得んがために
自らの身体を羅刹に施したことで知られる。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板274」

袈裟被着偈

前出『四分律行事鈔』より。

大いなるかな、解脱服よ
無相なる福田衣よ
つつしんで被り如戒を行じ
広くもろもろの衆生を度せん

解脱へと導く袈裟を頂き、その徳を讃え
自ら戒を行じて、広く衆生を覚りへと導かんと願う。
袈裟を被着する際に唱えるべき偈文であり、あるいは、法要の前に意義行相を整えた一同で唱和する。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板273」

七仏通戒偈

“もろもろの悪を作すことなく、もろもろの善を行ずるここと
自らその意(こころ)を浄めること
これが諸々の仏たちの教えである”

過去七仏は釈尊を含めたかつての覚者(フッダ)たち。
その七仏の教えに共通する精神、仏教の戒の根本がここに説かれている。

合掌