浄土宗月訓カレンダー
和尚のひとりごとNo131「人柄はその一言にあらわれる」
我が子が、自分と同じ言葉を使っていてドキッとした経験はないでしょうか。或いは自分の話す口調、口癖、仕草がどことなく親と似ていると感じたり、指摘された事はないでしょうか。子供は育った環境で親の姿を見、育てられた身近な大人の真似をして成長していきます。長年共に過ごしていると必然的に似てくるものであります。
お釈迦様とその弟子が修行中に町を歩いていた時、道端に一本の縄が落ちていました。弟子がその縄に近づいて行くと、その縄から魚の腐った様な嫌な臭いがしたので、「この縄は臭くてとても使い物になりませんね。綺麗に洗って干しておきましょう」とお釈迦様に伝えました。またしばらく歩いていると、今度は綺麗な紙が道端に落ちていました。弟子がその紙を拾うと、その紙からは良い香りがしたのでお釈迦様にお渡しし、「先程の縄もこの紙も、元々は匂いが無かったと思いますが、どうしてこの様な違いが有るのでしょうか?」と尋ねました。するとお釈迦様は、「お前の言う通り、先程の縄もこの紙も元々は匂いが無かった。しかし、先程の縄は恐らく、釣った魚を縛っていたので嫌な臭いが付いたのであろう。そしてこの紙は、良い香りのするお香を包んでいたのであろう。だから良い薫りがするのである。我々人間も同様、日々の行いが知らず知らずのうちに体に染み込んでいくのです。その事を肝に銘じて修行していく事が大切ですよ」とおっしゃられました。
体に染み込んでいく働き、匂いをつけていく働きを「薫習(くんじゅう)」と言います。物に香りが染み付く様に、考えや行為が人の心の奥深くに影響を与え蓄積されていく事を言います。また仏道修行を身につけていく事も「薫習」と言います。香りというものは目に見えません。しかし、お釈迦様のお話の様に在る事は確かです。お香を焚くと衣服にその香りが浸み込んでいきます。お香が無くなっても、浸み込んだ香りはいつまでも衣服に薫っています。薫習とはその様なものです。良い経験だけが都合よく浸透してくれるわけではありません。見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触った、考えた、良いも悪いも全て否応無く貯蔵されていくのです。善い行いを身につけていけば我が心も善きものとなり、悪い行いが身につくと我が心も悪いものとなります。
人は生まれてから死ぬまで沢山の言葉の中で過ごします。家庭でも仕事場でも情報伝達の手段に言葉は不可欠です。そしてその言葉はその人の性格、心、人格そのものを映し出します。長年蓄積された言葉遣いがその人そのものとも言えるでしょう。出来る事ならば正しい言葉遣いで、日々善い行いを習慣づけて参りましょう。
和尚のひとりごとNo129「心の弦 張り過ぎず ゆる過ぎず」
梅と塩で「あんばい」と読みます。程度、具合、加減の事で、本来は「えんばい」と読み、塩と梅酢を合わせた調味料の事でした。その味加減の丁度良い物を「えんばい」と呼んだそうです。また「按排(あんばい)」という言葉もあり、上手く処置する事や、具合の良い事を意味し、「塩梅(えんばい)」と「按排(あんばい)」の意味が良い具合にするという点で似ていた為、「塩」と「梅」の「えんばい」も「あんばい」と読まれるようになったそうです。お風呂に入って丁度良い湯加減の時に、「良い塩梅」と言いますが、熱くなし、ぬるくなしが「良い塩梅」であります。
お釈迦様の弟子にソーナという大層真面目で熱心な修行僧が居られました。毎日毎日、朝から晩まで一生懸命に修行を積む弟子でありましたが、いくら修行を積んでもなかなか悩み、苦しみを断ち切れない。それどころか次から次へと欲望が込み上げてくる。少しも心安らぐ事がないと嘆かれていたそうです。もう諦めて、修行を辞めてしまおうかと思い詰めていた時、お釈迦様はソーナに声をかけられました。
「ソーナよ、琴はどの様に弾けば良い音が出るであろうか。良い音で響くであろうか。琴の弦を強く張り過ぎれば、音は詰まって響かない。それどころか強く弾きすぎると弦が切れてしまう。だからと言って弦が緩すぎては振動する事もなく音も出ない。張り過ぎず、ゆる過ぎず、丁度良い加減の時に良い音が生まれるものです。真面目に熱心に修行する事は大切ですが、適度の余裕、心のゆとりも忘れてはなりませんよ」と申されました。
浄土宗をお開き下さった法然上人は一日に六万遍、七万遍ものお念仏を申され続けたそうです。我々にはなかなか修める事の出来ない数であります。しかし或る人が法然上人に、「お念仏を申している時に眠たくなって、ついついお念仏のお勤めを怠ってしまいます。こんな時はどうやって、この妨げを除けばよいのでしょうか」とお尋ね申したところ、「目が覚めた時にお念仏を申されたら良いでしょう」とお答えになられたと言います。大層尊い事であります。我々には無理せず、唱え続け易い仕方を御教導くださいました法然上人であります。
ソーナの様な加減の過ぎた修行ではなかなか続かないものであります。一日に六万遍ものお念仏はなかなか修められない我々であります。何事も張り過ぎず、ゆる過ぎず、良い塩梅が勤め易いものです。お念仏も日々の生活におきましても、無理せず良い塩梅を心がけ、日々穏やかに過ごして参りましょう。
和尚のひとりごとNo127「天上天下唯我独尊」
この地球上には沢山の生物が住んでいます。人間を含め、あらゆる動物、昆虫、微生物が共存しています。名前が付いているだけでも120万種類、未発見のものを含めると800万種類とも1000万種類以上とも言われています。その一つ一つを数え上げると恐ろしい数字になります。その中で人間として生まれ出る確率を計算された方がおられます。人体構造からその確率を計算すると、およそ1400兆分の1だそうです。又ある学者さんは1億円の宝くじに100万回連続して当たる確率と計算されました。いずれにしてもこの世の中に今、人間として生まれ出、私という自分自身が生きている事は奇跡と言えるでしょう。仏様の教えを説かれたお釈迦様はこの奇跡を「盲亀浮木の譬え」としてお説きくださいました。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀が住んでいる。その目の見えない亀、盲亀が百年に一度、海面に顔を出す。また広い海には一本の丸太の木が浮いていて、その木の真ん中には小さな穴が空いている。亀の顔が出る位の小さな穴。その浮木は風の吹くまま波に揺られ、東へ西へ、北へ南へと漂っている。そして百年に一度浮かび上がる盲亀が、浮かび上がった拍子に、たまたまこの浮木の穴にヒョイと頭を入れ、穴から顔を出す事があるであろうか?人間に生まれるという事はこの盲亀が浮木の穴から顔を出すよりも難しい事である」と説かれました。
以上が「盲亀浮木の譬え」というお話で、人間に生まれ出た有り難さ、今、生きている事の尊さをお説きくださいましたお釈迦様であります。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とは、お釈迦様が誕生した時に七歩歩まれ発せられた言葉です。六道という六つの苦しみの世界を抜け出る教えを説かれたので七歩歩まれたとされ、右手で天を左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言葉を発せられたというお釈迦様を崇め奉っての御伝記です。「この世の中に唯一無二の存在として生まれた出た自分であり、誰とも代わる事の出来ない人間として、この命のままで尊い」という意味であります。人の価値は他人と比較して優劣を決めるものではありません。人はそれぞれ他の人にはない持ち味があり、その持ち味を生かし、それぞれが自分らしく生きていく事が大切であります。
無駄な命、無意義な人間は存在しません。人それぞれ果たすべき大事な使命、生きる意義があるものです。お互いの役割を尊重しながら、社会の一員として生活して参りましょう。
和尚のひとりごとNo124「歩みの はやさ それぞれ」
『ウサギとカメ』という寓話があります。足の速いウサギと足の遅いカメが競争したところ、足の速いウサギは勝つと過信して途中で居眠りを始めてしまい、その間カメは休む事なく歩き続け、ウサギが目を覚ました時にはカメが先にゴールに辿り着いていたというお話です。過信して思い上がり、自惚れ油断してしまうと物事を逸してしまうという戒めになっています。歩みは遅くとも着実に真っ直ぐ進む事で、最終的には大きな成果を得る事が出来るという教訓であります。
仏教は信仰と修行の二本柱です。浄土宗においては南無阿弥陀仏と御念仏を申せば、最期臨終の夕べには必ず阿弥陀様に迎えに来ていただき、西方極楽浄土へ往生させていただけるという御教えが信仰です。そしてその事を素直に信じ、只ひたすら南無阿弥陀仏と御念仏を申し続ける事が修行であります。信行双修(しんぎょうそうしゅ)と言われ、信仰の「信」と修行の「行」との両方を片寄りなく修めるように教化しています。
信心についてはたった一度の御念仏で阿弥陀様は必ずお迎えに来てくださると信じ、行については一生涯続けて励むべきであると言われます。一生涯続ける事を念仏相続と申しますが、何故一生涯御念仏を申し続ける必要があるのでしょうか。それはたった一度の御念仏でも救われるからといって、毎日続けて御念仏を申していなかったら遂には口から南無阿弥陀仏の御念仏が出てこなくなり、御念仏の事すら忘れてしまう様になってしまうからであります。ですから一生涯、南無阿弥陀仏と申し続けてくださいと御念仏の相続を勧めています。
雨そそぐ 軒の下石 くぼみけり 難きわざとて 思いすてめや
軒下の硬い石であっても何年も絶え間なく雨だれに打たれ続けると窪んでゆきます。何事も休まず怯まず、急がず慌てず、辛抱強く継続して努力する事が大切です。仏道修行も休まず怯まず、急がず慌てず継続していく事が大事です。浄土宗の御念仏は阿弥陀様のお救いを信じて、ただ南無阿弥陀仏とお称えするだけの易行であります。いつでもどこでも誰にでも出来る易しい修行であります。毎日数回、数分でも結構ですので南無阿弥陀仏と共々に申し続けて日々過ごして参りましょう。
和尚のひとりごとNo122「やさしい言葉を贈ろう」
「鬼は外、福は内」と節分の日には掛け声をかけ、豆を撒いて、年齢の数だけ豆を食べ厄除けを行います。季節の変わり目には邪気(鬼)が生じ、それを追い払う為のお祓い行事が節分会の始まりと言われています。古来から目に見えない災禍をもたらすものに対して「鬼」と称し、お祓いの対象としてきたようです。また自分にとって都合の悪い相手に対しても「鬼」と呼び、目に見える人間を対象として悪口としても使われます。気にくわないと、ついつい他人の悪口を言ってしまう愚かな私達であります。
戒律といって仏教徒の守るべき戒めと規則を記した書物には口に関する事柄が沢山あります。「不妄語」(嘘、偽りを言わない)・「不両舌」(二枚舌を使ったり、陰口を言わない)・「不悪口」(他者を誹謗、中傷しない)・「不綺語」(噂話や世間話、心にもない綺麗事など無駄口をたたかない)等、発言についての行為を戒めています。「口は災いの元」と言われるように、口から出た言葉一つで相手を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまうのが言葉の恐ろしさです。それだけに発言には気をつけるようにとの戒めであります。
ひとつのことばで なかなおり
ひとつのことばで 頭が下がり
ひとつのことばで 心が痛む
ひとつのことばで 楽しく笑い
ひとつのことばで 泣かされる
ひとつのことばは それぞれに
ひとつの心を持っている
きれいなことばは きれいな心
やさしいことばは やさしい心
ひとつのことばを 大切に
ひとつのことばを 美しく
たった一言で喧嘩する事もあれば、相手と仲良くなるのも言葉の力です。出来るだけ良い言葉を使うように心がけ、毎日笑顔で過ごすようにしたいものであります。
和尚のひとりごとNo120「願うこころは道をつくる」
初夢は「一富士・二鷹・三茄子」と新年を迎え、見ると縁起が良い夢として伝えられています。起源や言い伝えには諸説有るようですが、平穏無事(富士)に、高い志をもって運気上昇(鷹)、怪我無く物事が成せるように(茄子)と、一年を迎えるにあたっての願いが込められております。今も昔も変わらぬ、我々人間の願いであります。出来るだけ万事無事に、運気も高まり、物事が達成出来れば言う事ないのであります。しかし、なかなか上手くいかないのがこの世の中。我々人間の願いとは裏腹に、思い通りいかない無常の世の中であります。
そんな思い通りにいかない苦しみの世の中を見られ、悲しみに暮れる我々人間の為に生きる希望の道筋をお立てになってくださったのが阿弥陀如来様であります。悩み苦しむ人々をなんとか救ってやりたい、救わせてくれと願われご修行されて、仏となられたのが阿弥陀如来様。仏となられた阿弥陀様の名を呼べば必ず救ってくださる。
その救いの先、救いの場所が西方極楽浄土であります。この世の中の一番の悩み苦しみである「死」を先に解決してくださっているのが南無阿弥陀仏のお念仏であります。お念仏の御教えは、「死」の苦しみを解決してくださっていると共に、先に亡くなられた方とまた会えるという再会の場所を作ってくださったのであります。
平穏無事に、高い志をもって、怪我なく物事を成していける様にと願いつつ、この世を生き切った先には阿弥陀如来様の居られる西方極楽浄土がある。何かと上手くいかない世の中にあっても、死んで終わりではない事、亡き人ともまた会えるという再会の場所がある事が生きがいになって参ります。その生きがいをもって、今年一年も共々に南無阿弥陀仏とお念仏を申して過ごしてくださいます様にお願い申し上げます。 合掌