雑記
和尚のひとりごとNo904「桃の節句」
毎年、桃の節句(ひな祭り)には雛人形をかざり、女の子の健やかな成長を願う美しい風習が我が国に伝わっています。雛人形は元来、幸せな家庭を持てるようにとの願いから、女性の婚姻の晴れ姿を表したものでした。
その歴史を紐解いてみれば、古代中国の「上巳の節句」(じょうしのせっく)」と、平安貴族に愛好された「ひいな遊び」の習慣が合わさり、ひなまつりになったといわれています。
「上巳の節句」は、「人形(ひとがた)」や「形代(かたしろ)」と言われる人の姿を写したものを用意して、そこに自らにつきまとう穢れや災厄を移し、それを水に流して穢れを払う禊(みそぎ)の儀礼でした。
そして小さく可愛らしいものを意味した「雛」(ひいな)を用いて、女の子の身代わりとして、穢れや災厄を引き受けてくれるように願ったのです。桃の節句といわれるゆえんは、3月はちょうど桃の花が咲き誇る季節であり、また桃は古来より魔除けの霊験がある縁起のよい果物とされていたことにちなんでいます。
もともと大陸では、1、3、5、7、9の奇数が重なる日にお供え物を捧げる習慣があったといわれ、我が国では江戸時代に五節句(五つの節目)として、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕などが定められました。
どうか我が子が健やかに、そして幸せに一生を送ってほしい、これは古今東西にわたって、変らぬ私たちの願いでしょう。人形は本来、このような願いを引き受けてくれる存在として大切にされてきたのです。
仏教では人の願いを引き受け人の心を映してくれるこのような存在には、心が宿るとも考えます。大切にしてきたものだからこそ、もしそのお役目を終え、お別れの時がやってきたら、今までの感謝の気持ちを改めて持って欲しい。そしてきちんと供養をして、旅立つ人形を見送って欲しい。これは私たちの願いでもあります。
昔から伝わる習慣には、このようにとても大きな意味が込められています。これからも大切にしていきたいものですね。
和尚のひとりごと「除夜の鐘」
いよいよ年末も押し迫って参りました。皆さんは年末年始をどのように過ごされますか。そう尋ねられたとき、真っ先に思い浮かぶのは「除夜の鐘」ではないでしょうか?年が入れ替わる大晦日に除夜の鐘をつき、新たな気持ちで新年を迎える、これは私たち日本人にはまことに馴染み深い習慣です。
この「除夜の鐘」は、他の様々な仏教行事などと同様に、中国大陸から我が国に伝わりました。既に鎌倉時代には禅宗の寺院で鐘を鳴らす習慣が広まっています。外来、寺院における鳴らしものは、修行僧の生活を律し、時を知らせる重要な役割を担っていました。やがて全国の寺院に採用されるようになったこの習慣は、山のお寺で朝に夕に鳴らされる梵鐘の音として、どこか懐かしい風景でもあります。
ところで除夜の鐘は108回鳴らされるというのが一般的ですね。この「108」という数の由来には諸説ありますが、代表的なものが人間の持つ煩悩の数を数え上げたものである、というものです。煩悩の数だけ鐘を鳴らして、それが私たちを悩まさぬように祈り、清々たる心持ちで新年を迎えるというわけです。
ここで代表的な2つの説をご紹介致します。
そもそも「煩悩」とは「身心を煩わせ苦しめるもの」というのが原意で、苦しみを引き起こす原因となる心の作用を指しています。煩悩があるから私たちは苦しんでいる、その煩悩を滅していくこと、これが仏教の基本的な考え方です。お釈迦さまの時代にはそれほどでもなかったのですが、やがて時代を下ると煩悩の種類やあり方について詳細な分類がなされるようになりました。
まず1つ目の説は、人々を迷いに結びつけて話さぬようにする作用である98種(九十八随眠)、さらにここに心を縛り付けて仏道修行を妨げる作用である次の10種を加えて108とする考え方です。10種とは、恥じないことを示す
「無慚(むざん)・無愧(むき)」、妬みを示す「嫉(しつ)」、物惜しみを示す「慳(けん)」などを始めとして、悔(げ)・睡眠(すいめん)・掉挙(じょうこ)・惛沈(こんちん)・忿(ふん)・覆(ぶく)となります。
2つ目の説は、私たちが備える6つの感覚器官である「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」の六根がまずあり、それぞれが対象に対して感じる「好(こう、心地よい)・悪(あく、気持ち悪い)・平(へい、どちらでもない)」の3種を数えここで合計18種、さらにこの18種に「浄(じょう、きよらか)・染(せん、けがれている)」の2種があり合計36種、さらにこれを「前世(ぜんせ、過去世)・今世(こんぜ、今の生存)・来世(らいせ、請来の生存)の三世」に配当し合計108種となるというものです。
さてこの除夜の鐘の習慣が全国津々浦々にまで定着したのは、意外と新しいことだったと言われています。時は昭和2年(1927年)のこと、東京上野の寛永寺にてNHKのラジオ放送を通じて除夜の鐘の中継放送がされました。その後TV放送が始まると全国の『除夜の鐘』が撞かれる様子がお茶の間に中継されるようになり、皆さんもご存知の『ゆく年くる年』として定着するようになったというものです。
また意外に思われるかも知れませんが、仏教国タイで観光地として有名なワット・ポー(涅槃寺)では、小仏にコインを供えてゆき、最終的に108の全ての仏様に供えられたら悟りに近づけているというお参りが奨められています。
人は行きていく上では、悩み迷いながら、時には様々な煩悩を抱えざるを得ないのかも知れません。1年の締めくくりに私たちを苦しめる煩悩の消滅を祈り、清々たる気持ちで新年を迎えたいと思う次第であります。
和尚のひとりごと「安居」
8月はお盆の季節です。以前にもご紹介したようお盆は『仏説盂蘭盆経』に基づく行事であり、その中で神通力に勝れた仏弟子目連尊者は、餓鬼道に落ちて苦しむ母親を救う為に、釈尊の教示に基づいて安居を終えた僧たちに供養してその功徳により母親を救いました。この話にあやかって、悪趣に落ちたあらゆる生類やご先祖様を供養してその追福を祈るというのが古来より我が国に伝わるお盆の行事です。そしてその時期というのは旧暦7月15日とされています。これは僧が一カ所に定住して修行する「安居(あんご)」の修行が終わるのがこの時期だからであります。
「安居」は「夏安居(げあんご)」「夏行(げぎょう)」「夏籠(げごもり)」とも呼ばれ、雨季(雨の季節)や歳(年月)を意味する梵語のヴァールシカに由来します。インドの雨期には非常多くの雨が降り、川も氾濫し、地面が隠れるほどの水量となるのも決して稀ではありません。そのような時期に外を出歩くことで草木虫などを踏み、無用な殺生を行ってしまうのを避ける為に、釈尊によって定められたのがこの安居であると伝えられています。この安居は元来は陰暦4月16日からの三か月間、普段は遊行している僧侶たちが一カ所に集まり外出することなく過ごすというもので、伝承では釈尊自身は覚りを開かれてより20年ほどは年間を通して定住するということはなかったとされますが、やがて主に2カ所で安居を行うようになったとも言われています。
ちなみにこの安居の習慣は後世に至るまで厳格に守られていました。インドへの長い旅を成し遂げた玄奘三蔵も、旅の途中で安居の季節になると一カ所に留まる事を旨としていたと伝えられています。
また安居を行う場所は当初は自然の洞窟や木陰、雨をしのげる程度の庵などであったでしょうが、やがて有力な信者たちにより場所や施設が寄進されるようになりました。中でもよく知られたのが祇園精舎でありましょう。
当時の有力であったコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に長者スダッタという者がいました。彼は孤独な身よりなき者たちに惜しみない施しを行った者(給孤独長者 ぎっこどくちょうじゃ)と称され、釈尊に帰依したのちに遊行僧が雨季(安居時)に逗留するための場所を提供しようと志しました。その為に選ばれた園林の所有者がジェータ(祇陀 ぎだ)太子であり、祇陀と園林を合わせて祇園と呼ばれています。またスダッタは土地獲得のためには土地に黄金を引き詰めるほどの出費も惜しまなかったというのは有名な話ですが、この祇園精舎の遺構には、現在も釈尊自身が説法した会堂などが残されています。
さて安居安居明けには僧侶たちは互いに安居中の行いが規則(律)に違えていなかったかを確認し、反省(懺悔)を行います。これを自恣(じし)と呼び、『盂蘭盆経』でも釈尊は自恣の僧たちに施すことを勧められました。また安居明けを祝って在家者による盛大な寄進が行われる習慣は、現在の南方仏教にも伝わっています。
このように長い安居が明けるこの時期は日本ではまさに夏まっさかり、まさに仏教における夏の一大イベントでありました。
ところで古い経典を紐解くと、釈尊が理想とされていたのは、定住と所有を避け、常に遊行(移動する事)を旨とする頭陀に徹する沙門の姿であります。それが現在普通に見られるように一カ所に大勢の僧侶が定住する在り方に変わっていったのも、この安居の習慣が定常化した事に始まり、またそれは常に衣食住を寄進してくれる在家者の存在に支えられていたことは忘れてならないでしょう。
和尚のひとりごと「七月十六日は閻魔大王の縁日」
正月十六日と七月十六日は、閻魔王の賽日(さいにち)として知られていますが、特に七月十六日を大賽日(だいさいにち)と呼んでいます。年間でもこの二日間だけは地獄の沙汰を司る閻魔王もお休みをとるというわけで、昔から年間を通してお休みのなかった奉公人たちもこの二日間だけは実家に帰ることが出来ました。
閻魔はつぶさには閻魔羅社(えんまらじゃ)と言い、Yama-rāja(ヤマラージャ)の音を写した名前です。羅社(ラジャ)は大王を意味しています。閻魔(ヤマ)は古くインド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』に登場します。そこでは人として初めて死んだ者として、死者が歩むべき道を発見した者として崇拝されています。またその世界は地獄というよりは、明るい楽園のイメージで表象され、祖霊たちとともに楽しく暮らすと言われていました。
やがて時代が下ると、ヤマ天は世界を守護する神々の一人として南方を守っている神であり、また死者の国へ赴く者を裁く審判者としての役割が強調されるようになります。この姿が仏教とともに伝わり、私たちにもなじみ深い閻魔さまとなっていくのです。
今少しインドの伝承を紐解いてみれば、死神ヤマは冥界を支配し、やがて死にゆく者へと使者を遣わしその者の霊魂(たましい)をとらえて、自分の宮殿へと連れていきます。そしてその場で、側にいるチトラグプタが死者の生前の行いの記録を読み上げ、それを聞いたヤマが記録に基づき審判を行うとされています。
さてところ変わって、日本での話、私たちは死後、やはり閻魔大王の前に引き出されて生前の行いの善悪を計られます。もちろん「善」が「悪」よりも多ければ(重ければ)私たちはよき境遇へと生まれ変わる事が出来、反対であれば地獄の責め苦を味わう世界に連れていかれると言います。昔からこの時までに出来るだけ善い行いを積んで、間違っても悪い行いの比重が大きくならないように生きていかなければならないとされて来ました。
また一説では、閻魔大王と地蔵菩薩との深い縁が語られています。つまり私たちが死後、極楽浄土へ行けるか、地獄へ堕ちるかは、この二人の話し合いによって決まると言うのです。また閻魔大王は慈悲深い地蔵菩薩の化身であるともされています。
良きも悪きもついつい行ってしまうのが私たち人間の姿かもしれません。そして実行に移さないまでも、心の中でよからぬ事を思ってしまうのも、偽らざる私たちの姿でしょう。良い事と悪い事の分別はつく、でもそんな自分を律して生きていくことは、もしかしたら本当に大変なことかもしれません。
時には厳しいお顔をされ、時には優しい菩薩さまのお顔を見せてくれる、閻魔大王もそのような存在なのかもしれませんね。
和尚のひとりごと「衣替え」
6月は私たち浄土宗でも衣替えの季節です。記録によれば旧暦の四月一五日に衣替えを行うのが本義とされていたようですが、これは夏安居(げあんご)入りの日でもあります。夏安居とはもともとはインドで雨季の間は外出せず、一カ所にとどまり皆とともに修行を行ったという習慣に基づいています。
さて、僧侶が身につける装束は一般に袈裟と衣であると言われていますが、その由来についてご紹介したいと思います。
袈裟とはkaṣāya(カシャーヤ)と発音されるインドの言葉に由来し、赤褐色(せっかっしょく)を意味していました。これは壊色(えじき)、染衣(せんね)などとの訳され、在家の人が身にまとう単一色に染められた衣服とは異なり、様々なぼろきれをつなぎ合わせた布を身にまとう出家の姿の旗印でもありました。壊色とは具体的には鮮やかな色ではない青・黒・木蘭(樹液で染めた茶系の色)を指し、これが現在僧侶がかけている袈裟の色の原形となります。
そしてその袈裟は形式により分類されます。袈裟は縦長の布片である条を縫い合わせて作りますが、これが五列であれば五条袈裟、七列であれば七条袈裟、九条であれば九条袈裟といった具合であり、五条袈裟を安陀会(あんだえ)、七条袈裟を鬱多羅僧(うったらそう)、九条より二十五条の袈裟を僧伽梨(そうぎゃり)と呼んでいます。これらは腰に巻き付けるのが五条袈裟、身体に着けるのが七条袈裟、さらにその上からまとう九条以上の袈裟という風に使い分けられていました。
さて仏教の教えが北方から西域の国々を経て中国に伝わると、気候の違いにより、また文化の相違から、袈裟の下に衣を着用するように変化し、袈裟は法衣の一番上に着用して僧侶の威儀を整え、その威厳を象徴する意味合いを強め、日常服としての本来の用法を離れてゆきます。
我国に伝承された法衣には、奈良時代に伝わった教衣(きょうえ)・平安時代にできた律衣(りつえ)・鎌倉期に流行した禅衣(ぜんね)の三種があるとされ、採用する宗派の違い、また相互に影響を及ぼし合ったことなどにより、宗派によって身につける法衣の特色があらわれるようになりました。
さて現在法要で見かける律衣の七条袈裟には、大きく天竺衣と南山衣の二種があります。天竺衣(てんじくえ)とは、その名のとおりインド直伝の袈裟の形であり、現地での見聞をもとに義浄三蔵が伝えました。南山衣(なんざんえ)とは同じくインドから伝わった四分律という書物に規定される袈裟の形をもとに、中国の道宣(どうせん、南山律師)が考案した形であり、袈裟を固定する大きな輪が特徴となっています。
このように歴史的変遷を経て、様々な形をとっている袈裟ではありますが、尊敬すべき対象に対して右側を向け、その際には肩に袈裟をまとわないこと、古来より仏教を他の教えから判別する基準であったこの偏袒右肩(へんだんうけん)の習慣は、現在に至るまで大切に守られているのです。
和尚のひとりごと「巳(み)の日」
本日、4月15日は「巳(み)の日」とされています。これは十二支(えと)が巳(み)にあたる日であり、12日に一度巡ってきます。「巳」とは「蛇」のことで、縁起をかつぐ方は、この日に金運・財運の成就を願って、白蛇や弁財天にお参りします。
古来より神として崇められてきた「蛇(特に白蛇)」に対しては、強烈な畏敬の念と嫌悪(あるいは畏怖)の念がともに込められていると言われています。
そして時にはこの蛇(あるいは龍)と同一視されたり、あるいは蛇こそがその遣いであると言われているのが、広く親しまれている弁財天(べんざいてん)という女神です。
財宝神としての性格が押し出される前には、弁才天と表記したこの神格は、インドではいしにえの聖典『リグ・ヴェーダ』にすでに現れます。聖なる河「サラスヴァティー」の化身としてその名もサラスヴァティー(水を保つもの)と呼ばれました。
そのいわれからも想像できるように、当初は「水の女神」であり、技芸や学問の女神とされていました。その手には数珠、縄、ヴィーナ(琵琶)、水瓶などを持ち、水辺にたたずむ美しくも優雅な姿で表現されます。
やがてそれが戦闘神としての性格を併せ持つようになります。
5世紀に曇無讖(どんむせん、ダルマクシェーマ)によって翻訳された『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という仏典には、弁才天は八臂(はっぴ、8本の腕を持つ)の尊容を持ち、そこに弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧(おの)、長杵(ちょうしょ)、鉄輪、羂索(けんさく、投げ縄)といった武器を携える勇ましい戦闘神としての姿が描かれています。
折しも鎮護国家の教えが強く求められていた奈良時代の日本においては、この弁才天は、仏法を守護するとともにその力で国家を守る護国・護法の神として受け入れられました。
その後、密教の曼陀羅に描かれた姿の影響を受け、いろいろな尊格の図像(イメージ)が表わされる中で、武器を携える戦闘的な弁才天の姿と、両手に琵琶を携える技芸の神としての弁才天の姿へと、そのイメージは両極化していきました。さらに神仏習合の影響下、鎌倉時代には「宇賀神(うがじん、一説には神道の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)のこと)」と習合(同一視)され、あらゆる財福をもたらす神格として信仰されるようになりました。この「宇賀弁才天(うがべんざいてん)」の姿は、どくろを巻いた蛇と老人の頭を頭上に持つ八臂のお姿で表現されています。
さて、そのように様々な変遷を経てきた弁天さまですが、現在は七福神の一員に数えられているようにわたくしたちに財福をもたらし、またその名の示すように、流れる水のように弁舌さわやかであり、技芸に秀でた女神として、今も広く信仰を集めています。
和尚のひとりごとNo400「慈恩会」
晩秋を迎えた11月13日には、毎年、奈良の薬師寺ならびに興福寺にて慈恩会(じおんね)の法会が行われています。両寺は古都奈良を代表する由緒ある寺院ですが、わが国で最も古く伝わった仏教宗派である法相宗の大本山でもあります。
慈恩会は法相宗の宗祖とされる慈恩大師基(じおんだいしき)が入滅された日にその忌日法要を営み、その学徳を偲ぶとともに、学僧たちが一堂に会し論義法要を勤めるものとされています。
インド以来の伝統では、僧侶は経典や論書を学び、その知見に基づいて禅定の実践に励んできました。現在でもなお盛んに行われているチベット僧侶たちの論議・質疑応答は、まさにその伝統を今に伝えるものであり、我が国においては天台や南都において今に伝えられます。
さて慈恩大師基は632年から682年にかけて中国唐の時代に在世した僧であり、15年に及ぶインド留学を成し遂げて645年に帰朝したかの玄奘三蔵の弟子にあたります。伝承では中央アジアと漢人の両方の血をひいていたとも言われています。 玄奘は数多くの経論を持ち帰り、太宗の庇護のもと国家的事業として経論の漢語への翻訳を進めましたが、玄奘自身が最も心を寄せていたのは唯識と呼ばれる学問でありました。
そして天竺で本場の唯識を極めた玄奘の教えを忠実に受け継いだのがこの慈恩大師基であります。 法相宗の宗名は「法相」すなわち具体的個物や現象の現れ方を考究していくことで物事の真のあり方を悟ることを目指す宗であったことから来ています。
最終的には唯識の理、あらゆる現象が私たちの認識作用に還元可能であること、つまり私たちが世界をかくの如く認識しているそのままの姿では物事は実在しないことを如実に覚ることで正覚を得るとします。
ところで我が国で最初に火葬にされた人は飛鳥朝の道昭であり、道昭は玄奘から親しくインド伝来の唯識を学びそれを我が国に持ち帰りました。これが法相宗の初伝であるとされています。 爾来奈良の諸寺、のちにはあらゆる宗派の学僧たちにとっても、法相唯識と仏教の基礎学とされる俱舎の学問は必須のものとされてきました。しかしながらその難解さ故、唯識三年俱舎八年とも呼びならわされてきました。仏教各宗には様々な教えがありますが、基礎学問としての俱舎・唯識を修めてこそ、自宗の教えを確実に理解できると考えられていたのです。 そして慈恩大師には、我が宗祖法然上人も主著『選択集』において引用している『西方要決』という書物も伝えられています。西方往生に対する疑難を会釈し、その往生を勧めたものであるとされているのです。
和尚のひとりごとNo277「三千大世界」
先日、「三千大世界とは、なんですか」と尋ねられました。
経典に度々出てくる”三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)”とは、仏教の宇宙観を端的に表す言葉です。原語ではtri-sāhasra-mahā-sāhasra-loka-dhātu(トリ・サーハスラ・マハ―・サーハスラ・ローカ・ダートゥ)、舌を噛みそうな言葉ですが、意味は訳語の通り、これは一言でいえば全世界、全宇宙を言い表しています。
仏教の世界観では最小単位となる一個の世界の中心には、高さが八万由旬(ゆじゅん)にも及ぶ非常に高い山がそびえています。これを須弥山(しゅみせん)と呼びます。八万由旬とは約57万6千キロメートル、とてつもない高さですね。これはインドから見上げたヒマラヤ山がモデルになっていると言われています。そして山頂には天界の住人(神々)が住んでいるといわれ、地下深くには地獄(naraka、奈落)が存在します。須弥山を取り囲むように海や大陸(四大洲)があり、私たちの住む南閻浮洲(なんえんぶしゅう)もここにあります。さらにこの世界は地輪や水輪といった様々な材質の地層で構成され、世界にはその果てがあります。
この最小単位の世界を須弥山世界と呼びますが、その須弥山世界が千個集まって小千世界となり、その小千世界が千個集まったものが中千世界、さらに中千世界が千個集まったものが大千世界(三千大千世界)となります。ざっと計算すれば一つの世界がおよそ10億個集まったのが三千大千世界という訳です。
そしてこれらの世界はこの宇宙空間のあらゆる方向に広がっている。そして各々に有情(”衆生”に同じ、心ある生き物)の営みがあると考えます。
この須弥山世界は決して永遠不滅のものではなく、非常に長いスパンで生成(始まり)と破滅(終わり)を繰り返しており、その運動の大本には有情の業の力があると言われています。私たち自身の思いや行為の積み重なりこそが大きな力となっています。
また須弥山世界というのは一人の仏(ブッダ)が教化する範囲であるとも定義されています。実は伝統的には一つの世界には一人のブッダしか現れないと考えられており、私たちの生きる娑婆世界における仏さまとはそのまま釈尊その人のことを指しました。しかも釈尊滅後、当面は仏の不在期間が続き、やがて皆さんご存知の末法の時代に至ります。それがやがて一つの世界には仏は一人だが、そのような世界が無数に存在し、それぞれに仏さまがいらっしゃるはずだと考えられるようになったのです。
宇宙空間には無数の銀河がちらばり、その中には私たちの住むような環境も決して珍しいものではない。
そのように説く現代の宇宙論も連想させるような考え方が、古来より伝承されてきた世界観に見出されるというのは興味深いことです。
和尚のひとりごとNo249「凡夫」
私たちにもなじみ深い仏教語として「凡夫(ぼんぶ)」という表現があります。語感から「平凡な人、平均的な人」という意味かと思われるかも知れませんが、本来の意味は「仏教の理解が乏しく、修行実践もおぼつかない、凡庸で愚かな人」のことを指しています。
インドの原典に遡ってみればpṛthag-jana(プリタグジャナ)という言葉にたどり着きます。しばしば衆生や有情(心のある存在)と同じように使われるこの言葉は「異生(いしょう)」と訳されます。
「異生」とは、生来の煩悩に悩まされる私たちの在り様(ありよう)が、人それぞれであることを表わします。欲望の対象をいくら求めても満足出来ない人、生の悩みや苦しみ、あるいは死への恐怖から心の平安を失っている人…それぞれが異なった境遇にありながらも、煩悩に振り回され、迷いのただ中に生きていることに変わりはありません。
さて伝統的には覚りの智慧(仏智)を目指す修行者には、各々到達したレベルに応じた階梯(ステージ)が設定されていました。オーソドックスな考え方では、準備段階を入れた五段階の階梯があり、三つ目の「見道(けんどう)」以降が聖者(しょうじゃ)と呼ばれ、それに達していない修行者が凡夫(外凡 げぼん、内凡 ないぼん)とされていました。
ではその基準はどこにあったのかと言いますと、仏道修行の要(かなめ)であった「三昧(さんまい samādhi サマーディ)の上達具合によります。三昧とは「観法(かんぽう)」のこと、修行の過程においてさまざまな対象を観察し、その意味の理解を深めていく修行法です。
現在まで伝わっている伝承の中で、スリランカ・東南アジアに息づく南伝の伝統では、「諸行」すなわちこの世界の実相を観察するとされ、北伝の伝統では「四諦説(したいせつ)」を観察吟味していくこととされていました。 「四諦」とは仏教の開祖釈尊が菩提樹下で覚った内容とされ、またその最初の説法である初転法輪のときに説かれた際、かつての修行仲間の五比丘はただちに法眼(ほうげん)を得た(覚りを開いた)とも言われている、仏教において最も基本的な法門であります。生・老・病・死に代表される生きていく上での苦悩には、必ずその原因があり、また必ずその苦悩を滅する道があることを、自らの体験に即して語られたものです。
ところで私たちが奉ずる浄土の御教えにおいては、凡夫はどのように捉えられているのでしょうか?一言で言えば、私たち全員が凡夫であると考えます。凡夫とは上に見たように、未だ聖者の段階に達していない者、すなわち「無我」の道理を弁えず、「我=自分という存在」があり、この世の中が思い通りになって欲しいと願っている者のことです。
浄土教の祖師の一人である道綽禅師は、「安楽集」で末法における凡夫が救われる唯一の道として浄土往生の教えを明かし、法然上人が傾倒された善導大師は、「罪悪生死の凡夫(ざいあくしょうじのぼんぶ)」という表現で、今まさに末法に生きる私たちの在り様を示されました。
そこでは凡夫の意味は、末法という仏の教えが滅びゆく世界において、志はあっても仏道修行がままならない能力が劣った私たち自身のこととなります。そのような自らのあり方を真摯に見つめ、心の底から御仏の救いを求める私たちに釈尊が開示された道こそが浄土の御教えなのです。