雑記
和尚のひとりごとNo191「仏旗」
お寺に参拝された時にカラフルな旗が掲げられているのをご覧なったことがあると思います。今回は、その旗についてのお話です。
旗は仏旗と申します。「六色仏旗」「六金色旗(ろっこんしょくき・ろっこんじきき)」と呼ぶことも御座います。
仏旗は、仏教を象徴する旗。お釈迦さま(仏陀)の教えを守り進んでいくシンボルとなるものです。
旗は五つの色からなります。青・黄・赤・白・橙です。
「六色仏旗」「六金色旗」なのに五色であるのは、五色を合せて一色としているからです。
仏旗は縦五色が並んでいて、最後に色をかさねた縞模様(しまもよう)があり、この部分を一色と数えて六色になります。(写真参考)
この色にはそれぞれ意味があります。
お経の『小部経典』に、「無礙解道」(むげげどう)という項の中に、仏陀が力をはたらかせる時、仏陀の体から青・黄・赤・白・橙および「輝き」の六色の光が放たれる、と書かれています。
青は仏陀の髪の毛の色。心乱さす力強く生き抜く力「定根(じょうこん)」を表します。 黄は燦然と輝く仏陀の身体。豊かな姿で確固とした揺るぎない性質「金剛(こんごう)」を表します。 赤は仏陀の情熱ほとばしる血液の色。大いなる慈悲の心で人々を救済することが止まることのない働き「精進(しょうじん)」を表します。 白は仏陀の説法される歯の色。清純なお心で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める「清浄(しょうじょう)」を表します。 橙は仏さまの聖なる身体を包む袈裟の色。あらゆる侮辱や迫害、誘惑などによく耐えて怒らぬ「忍辱(にんにく)」を表します。 五色の縞模様は「輝き」を表しています。
青・黄・赤・白・橙の仏旗ですが、普段,私たちが見慣れている仏旗の色とは違います。
これは、青・黄・赤・白・橙の仏旗が1950年に世界仏教徒連盟に決められた新しいものだからです。
緑・黄・赤・白・紫の仏旗は古くから日本で使われていた色になります。
玉圓寺は古くある方の緑・黄・赤・白・紫の仏旗を掲げています。
寺院によってどちらを掲げるか違いがありますが、仏旗は仏教徒のシンボルです。
お寺で仏旗を見かけられたときには、この和尚のひとりごとの話を頭の隅にでも思い出していただければと思います。
和尚のひとりごとNo187「傳燈師」
残念なことに新種のウィルスの感染が広がっています。思えば様々な災害や疫病等により、私たちの生活は大きな影響を蒙ってきました。そのような中で、私たち共通の願いは、全ての生きとし生けるもの(一切有情)が平穏無事に暮らしていける世界であり、その願いにこそ仏心が宿ります。一刻も早くこの事態が終息に向かうことを心より祈念致します
本年11月に五重相傳會を厳修を致します。その案内をご覧になられて、「傳燈師」とはなんですかと尋ねられることがあります。
今回は、門前の高札にあります五重相傳の三役「勧誡師」「回向師」「傳燈師」についてご紹介させていただきます。
「勧誡師」とは、受者に浄土宗の教えを分かりやすく解説し、その精神を伝える僧侶です。勧誡師の勧は善をすすめ、誡は悪を誡めるという意味があります。そして、念仏信仰の中にその生涯を全うし、往生浄土の素懐を遂げるために、念仏を申す仏教徒として、明るくたくましく生きてゆく道を受者にすすめるのが勧誡師の役割であります。
「回向師」とは、五重相傳會中に行う勤行の中で特別な回向(供養)をする僧侶のことです。
また同時に「回向師」は、法要の諸作法や注意事項などを指導したり、法要全体の進行・統括も行います。いわば、監督のようなものです。
そして最後に「傳燈師」ですが、
「傳燈」とは、仏法を灯火にたとえて、その火が絶えないように、師匠から弟子へと仏法の正統な教えを脈々と相伝していくことを意味します。伝えられる教えを「伝法」と申します。
つまり「傳燈師」とは、お釈迦さまから法然上人へと受け継がれてきた教えを受者に伝え授けることができる僧侶のことです。
五重相傳は特別な僧侶によって行われる法要です。いわば一期一会の法要であり誠に得難き仏縁であります。是非ご参加ください。
和尚のひとりごとNo184「廃仏毀釈」
去る2月7日に、『寺院消滅』の著者としても知られる鵜飼 秀徳上人のお話を聴いて参りました。大阪市内で開催された研修会でのことです。 『寺院消滅』は、今後25年のあいだに現在日本にある約7万7千の寺院のうち、およそ3割から4割、つまり2万から3万にもおよぶ寺院が消滅するという予測を統計的データのもとに示した衝撃的な書でした。様々なメディアにも取り上げられ、特に私たち僧侶にとりましては、改めて襟を正さなければならないと実感させる本でした。
今回は「廃仏毀釈150年目の寺院消滅」という演題でしたが、廃仏毀釈とはかつて明治政府により進められた神仏分離政策に乗じて、寺院が学校などの公共施設に変わったり、制度あるいは思想的な面での仏教側への不満から、文化財としての仏像や伽藍が破壊された一連の事象を指します。その廃仏毀釈の際に、かつて江戸末期には9万箇寺あったと言われる日本全国の仏教寺院が、4万5千あまりにも減ってしまったそうです。ただ意外だったのは、その後再び寺院は増加傾向に変わり、ピーク時には7万7千にもその数を伸ばします。これは廃寺になった寺の復興であったり、新たに開教の為に建てられた寺院であったりその内実は一様ではないでしょう。しかしながら人々の願いが寺院復興につながった事は紛れもない事実であったと思います。 ご先祖様があったからこそ、今の私たちがあることを実感できる場所、またあたかも浄土の如く荘厳された本堂にて、仏さまに手を合わせることで心の安らぎを得る。近世までの仏教寺院は地域の人々が集まる憩いの場であり、救いを求める場でもありました。 果たして現代の仏教寺院がその役割を果たせているのか?かつての日本は仏教国として世界でも有数の伽藍を擁し、その数は現在でもなお全国のコンビニエンスストアを合わせた数、また学校や幼稚園などの教育施設を合わせた数を上回っているそうです。 今回の研修会を通じて、改めて一仏教僧侶として、皆様に仏様のご縁をしっかりとつないでいける様に精進しなければならない事を実感致しました。
和尚のひとりごとNo178「三蔵法師」
先日、お参りの時に「般若心経を訳した玄奘(げんじょう)という方は、西遊記の三蔵法師なんですか」と聞かれました。玄奘三蔵法師についてです。
西遊記の物語では天竺(インド)を目指してひたすら西へ歩みを進める訳ですが、これにはモデルとなった人物が、隋から唐初にかけて在世した玄奘三蔵であります。
「三蔵」とは仏教の聖典である経・律・論のことです。「経」とは経典(仏の言葉)のこと、「律」とは集団生活を送る出家者の生活規範、「論」とは仏教の教えを哲学的に整理した文献を指します。この三蔵で仏教に伝承されてきた知識をカバーできる訳です。
そしてその三蔵に精通した僧侶を三蔵法師と呼び、歴史上多くの著名な三蔵法師がいましたが、その多くは訳経僧と呼ばれる人たちでした。訳経僧とはインドや西域の言葉で記された仏典を中国に伝え、漢語に翻訳した僧侶たちのこと、60歳でインド行きを決行した法顕(ほっけん)三蔵、インド出身の真諦(パラマールタ)や不空(アモーガヴァジュラ)『阿弥陀経』や『法華経』を翻訳した西域出身の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)がよく知られていますが、中でも玄奘三蔵は三蔵法師の代表格であると見なされるようになりました。それは玄奘三蔵がインドから持ち帰った経・律・論が他をしのぐ実に膨大な量であり、それにも増して玄奘自身が仏教の本場で多くを学び、その成果として諸経論約75部1335巻にも及ぶ仏典の翻訳を国家的事業として成し遂げたからであります。
玄奘の翻訳は原語の意味に最も忠実であった為に新訳(しんやく)と呼ばれ、従来の旧訳(くやく)とは一線を画するものでした。そして玄奘法師がインドを目指した理由、それは完備した『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』の原本に目を通し、難解な唯識(ゆいしき)の教えを原文に即して理解したいが為だったと言われています。当時の中国では断片的に伝わった文献を巡って、諸説が入り乱れ、本当の答えを知るのには原意に当たるのが一番だというのが若き玄奘の考えだったのでしょう。
もちろん学問的良心に忠実であればあるほど、玄奘の気持ちは大きくはるか西の天竺へ傾いていったと想像できます。しかしながら国禁を犯し、たった独り砂漠や高山で命の危険にさらされても、インド行きの決意を貫いた玄奘の心には、さまざまな壁や制約を突破して一気に仏教の故地インドに向かっていこうとする意志の強さと、何よりも釈尊の歩まれた大地と風光への憧れがあったように思えて仕方ありません。
そして玄奘はインド各地で見聞を深め、くしくも我国では大化改新を迎えた645年に実に17年ぶりに故国の土を踏んだのでした。
その後世は、持ち帰りました経典の漢訳に生涯をついやしました。「般若心経」もその功績の一つです。
玄奘三蔵法師に感謝をこめて 合掌
和尚のひとりごとNo169「地蔵菩薩」
インドの言葉でKṣitigarbha(クシティガルバ)と言います。この言葉を訳せば「大地の子宮」、つまり母親の胎内が新たな生命を生み出すように、新しいものを生み出す豊かな可能性を秘めている存在という意味です。また、大地のように広大な慈悲心を持つ菩薩であるとも言われます。
地蔵菩薩は仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなったあと、遠い未来に世に現われる弥勒菩薩が出世するまでの期間、つまり仏さまが不在であり世が徐々に乱れていく世界に現われて、六道に苦しむ衆生に教えを説き、進むべき道を指し示す菩薩さまです。末法とも呼ばれるこの乱れゆく世界とは、実は私たちが住む娑婆世界のことを差します。仏さまに教えを頂きたくとも、すでに釈迦仏はこの世にはおらず、苦しみから抜け出し心の平安を得るにはどうすればよいか、常に迷っている私たちの味方となってくれるのが地蔵菩薩です。
浄土の御教えでは阿弥陀如来が誓われたお念仏の力で、苦しみのない西方極楽浄土に往生できることを説きます。極楽には阿弥陀さまがいらっしゃって、今この瞬間も法を説いて下さっている。しかしながら私たちには簡単にはまみえることは出来ません。そこで、この娑婆世界のみならず六道と言われる苦しみ多い境涯に自ら赴いて導いて下さるのが地蔵菩薩だいう訳です。
ところで私たちにとって地蔵菩薩といえば、やはり路傍の六地蔵さまが思い出されます。皆さまご存知のように子供の守り仏として広く信仰を集め、関西地方では毎年秋口に地蔵盆が行われます。そういう意味でも一番身近な菩薩さまが地蔵菩薩だと言えるかもしれませんね。
合掌
和尚のひとりごとNo166「同称十念・同称御回願(どうしょうごえがん)」
”南無阿弥陀佛” お念仏は私たち日本人には大変馴染み深いものですね。
その意味するところは、阿弥陀さまという仏の名を呼び、その仏を信頼し全面的に帰依することです。
そこには、どうか私を救ってください、浄土に迎え入れて下さいという心からの願いが込められています。
ところで私たち浄土宗では、僧俗〈そうぞく〉(僧侶と出家していない人、一般の人)が一体となってこのお念仏を10回唱えることがあります。
これをともに称える念仏、つまり同称十念(どうしょうじゅうねん)と呼びます。
では何故、10回なのでしょうか?
そこには根拠があります
浄土の教えが説き示された経典は数多くありますが、浄土宗を開かれた法然上人がとりわけ大切にされたのは浄土三部経です。その中の無量寿経の中に次のような一節があります。
”設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚”(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう ししんしんぎょう よくしょうがこく ないしじゅうねん にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)
後に覚りを開き阿弥陀佛となる法蔵菩薩が修行時代に建てた誓いの一つです。
「あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」
そして法蔵菩薩はその誓いを成就して、阿弥陀佛となりました。
仏法には様々な道があります。
その中でも、心から極楽浄土への往生を願いわずか10回でもお念仏を称えるならば、必ず往生を果たすことができる、それが浄土の教えであります
同称十念とは、その10回のお念仏を皆さんとともに称え、仏さまへの感謝の気持ちを表すことです。
お勤めの際に僧侶が”同称十念”と呼びかけましたら、皆さんも是非お手を合わせ、大きな声でご一緒にお念仏を称えましょう。
和尚のひとりごとNo163「利剣名号」
”南無阿弥陀佛”の六字名号は私たち浄土宗にとり大切なものです。その名号にも様々なスタイルがあれますが、世に言う「利剣名号」(りけんのみょうごう)ほど力強く私たちを惹きつけるものはないでしょう。
特徴的なその書体は、字画の末端を剣のように鋭く描き、それにより悪しき因縁を断ち切ることが願われていると言われています。
法然上人が師と仰ぐ善導大師の残した『般舟讃』にはこうあります。
「門門不同八万四(もんもんふどうまちまんし)、為滅無明果業因(いめつむみょうかごういん)、利剣即是弥陀号(りけんそくぜみだごう)、一声称念罪皆除(いっしょうしょうねんざいかいじょ)」
すなわち、数ある仏の法門〈お経のことです〉は須く(すべからく)覚りを曇らす無明を滅し、煩悩を断つものとして同じである。
その中でも阿弥陀佛の名号はひとこえ称えれば、私たちの全ての罪を除いてくれる勝れたものであると。これが「利剣名号」の典拠であると言われています。
さて現代から遡ること680年前の昔、後醍醐天皇の元弘元年(一三三一)のこと、天災飢饉や疫病といった天変地異で世は大いに乱れ、人々は困窮していました。多くの罪なき民が亡くなる中、後醍醐天皇の御下命(ごかめい)で当時の百万遍知恩寺第八世の空円に白羽の矢が立てられました。普寂国師空円は後に浄土宗第三祖良忠上人にも師事された方で、宮中における七日間にもわたる百万遍念佛の修法で猛威を振う疫病を鎮めたと言われています。 百万遍知恩寺は、この効験により弘法大師空海作と伝えられる「利剣名号」と「知恩寺」の勅額を賜ったと言われています。
皆さまも機会があれば是非、「利剣名号」の書をご覧頂き、阿弥陀佛の名号の功徳を実感してください。
No160和尚のひとりごと「びんずるさん」
わが国でも昔から馴染み深い「びんずるさん」について紹介します。 十六羅漢の第一に数えられる賓頭盧(びんずる)尊者、名前を聞いたことはあってもという方も多いかもしれません。 詳しくは、名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャと言い、バラモンの家系に生を受けお釈迦さまに弟子入りした方です。 神通力に優れた能力を発揮しましたが、あまりに勝れていたため、お釈迦さまから軽々しく神通を示現することたしなめられたこともありました。また非常に聡明であり、説法が他の異論や反論を一切許さないほどであったことから、”獅子吼(ししく)第一”ライオンの如くとも称されたそうです。まさに独り勝ちといった感じです。
その賓頭盧尊者ですが、お釈迦さまより重大な使命を授かります。つまり自分(お釈迦さま)が亡くなったのちの世において、お釈迦さまに代わり衆生を済度せしめ、末世の人々が供養するに値する存在として頑張るようにというわけです。そこで賓頭盧尊者はあえて涅槃に入らず、西方の土地で教えを説き続けたと言われます。 その姿は”白髪長眉の相”つまり白く長い眉毛が特徴です。今では身体の不調を感じたとき、賓頭盧像のお身体のその箇所を撫でれば快癒(かいゆ)する「撫で仏(なでぼとけ)」として信仰を集めています。元々はお寺の食堂(じきどう)に祀られていたそうですが、いつの間にか私たちに身近な外陣や回廊の降りてこられた羅漢さまです。皆さまも機会があれば是非お参りください。
和尚のひとりごとNo157「霊山冨士」
富士山は2013年6月26日に世界遺産に選ばれました。確かにその美しさは私たちの胸を打ちます。季節により、時間帯により、気候により、まったく違った様相をもってその姿を示してくれる日本を代表する山です。
しかし富士が注目を集めるのは、その美しさ故というだけには留まりません。世界中の山々がそうであったように、古来より富士は信仰の対象であり、かつては荒ぶる山として畏れられてきました。それは他ならぬ火山活動によるものであり、度重なる噴火が甚大な被害をもたらしたと伝えられています。
また古くは縄文時代に遡る遺跡もあり、私たちの遠い祖先たちも、富士の威容を遥か彼方に拝していたのでしょう。
やがて火山活動が沈静化に向かった平安期以降、実際に登りその霊力にあやかろうとする人々が増え始めました。中世には神仏習合の影響の下、富士そのものが仏たちが住む世界である両界曼荼羅に見立てられます。神々あるいは仏の住まう世界である山を登山しあるいは抖擻(とそう)すること、それ自体が大切な修行であると見なされます。
このように富士山への信仰の背景には、山に象徴される自然に対する畏敬の念が込められています。
近世には富士修験や富士講で大いににぎわいを見せ、修験者だけではなく一般庶民にも開かれた山となりました。現在では「御来光」を拝み、また「お鉢めぐり」を行うために数多くの登山者が富士を訪れていますが、これだけ多くの人を惹き付ける富士の魅力とは一体何でしょうか?それは富士登山を通して自分自身を見つめなおし、新たな意義を発見出来るからではないでしょうか?古来より私たちが抱いてきた霊山富士への思いが、今に連綿と受け継がれていることに感慨を深く致します。
合掌