和尚のひとりごと「伝道掲示板300

呪願偈

”この食の色・香り・味を、十方の仏に上献し、諸々の賢聖に奉り
下は六道に及び、等しく差別なく施し
皆、飽満を随感し 諸々の(又は今の)施主、無量の波羅蜜を得ん事を。”
同じく食作法において唱えられる。
施食の施主にはかり知れない功徳が有らん事を願う。
呪願偈の”呪”は祈念するの意。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板299

jyujiki

”この食を得る時には
まさに衆生が、法の為に供養し、その志が仏道に存する事を願わん。”
出典は『華厳経』より。
食作法において唱えられる。
『四分律刪繁補闕行事鈔』によれば、食膳の際には、この食が本来は、
求め難く得難きことを観ずべきであるとし、この偈文が引用される。

和尚のひとりごと「伝道掲示板298

tennbatuge

”もし鉢をひろげん時には、
まさに衆生が、身心寂静、離諸粗暴であることを願わん。”

展鉢(てんばつ)とは包んでいた布を広げて鉢を取り出すこと。
鉢は応量器のことで、本来は托鉢の際に施食を入れる為に持ち歩く比丘六物のひとつ。
食が始まろうとするまさにその時に、比丘たる者は、衆生の心身が寂静であり、
諸々の粗暴から離れらることを願うべきであるという内容。
出典は『華厳経』より。

和尚のひとりごと「伝道掲示板297

monntui

食作法においてかつて我が宗でも唱えられていたもの。
献膳(けんぜん)のあと、槌(つち)が鳴らされて、大衆一同で唱える。
釈尊の御一代の大事を想起する内容となっている。
”仏はカピラヴァストゥに降誕し、マガダ国にて成道し
ヴァーラーナシーにて最初の説法を行い、クシナガラにて入滅された”
これらの土地は現在に至るまで仏教徒にとって大切な四大聖地である。
すなわち、生誕のルンビニ―、成道のブッダガヤ、初転法輪のサールナート、般涅槃(入滅)のクシナガラである。

和尚のひとりごとNo536「そっと手を貸す思いやり」

2021sigatu

 コロナ禍で沢山の医療従事者の方々が各地で懸命な看護に当たってくださっています。「看」という字は「手」という字の下に「目」という字を書きます。「目」の上に「手」をかざして、ものをよく見るという意味を表しています。手に心を込めて人の心に触れる事、手を差し伸べる事、対象者をじっくりと見るという意味が「看」という漢字には込められています。  お釈迦様は、「病人が出た場合は必ず看護すべし。」と定められました。或る時、一人の修行僧が病気にもかかわらず誰にも看病されずに横たわっていました。その病人を見かけたお釈迦様は、「どうして誰もあなたを看病しようとしないのか?」と問うと、「私は平生、他の修行者が病気になっても助ける事なく、悪臭の為にその場を厭い離れ、修行者として為すべき事を怠っていたからです。」と答えました。するとお釈迦様はその病気の修行僧の体を清め、衣を洗い、床や部屋を掃除しました。そして病人の体を撫でるお釈迦様の手によって苦痛は取り除かれ、癒されたと伝えられています。お釈迦様は、「平生に為すべき事を怠れば、自分が窮地の際には苦痛が激しく増すのである。」と病人に教え諭され、他の修行者たちには、「病気の者があれば看病しなければならない。お互いが仏弟子であるのだから常平生からお互い助け合うように。」と言われたそうです。

 平生、他の修行僧が困っている時に見て見ぬふりをし、何も手助けをしない事は善くない行いです。だからといってその修行僧が困っている時、同様に手を貸さず見捨てる事も善くない行いです。お釈迦様はどちらの修行者に対してもお互いが助け合い、特に病気になれば看病すべき事を示されました。仏道を歩むとは、目の前で困っている人や、苦しんでいる人たちにしっかりと寄り添い、その苦しみや痛みを我ごとのように受け止め、苦楽を共にする生き方です。

     手を取りて 共に泣かなん 泣く人の 痛む心に 心合わせて

 お釈迦様の伝記では、「病人の体を撫でるお釈迦様の手によって苦痛は取り除かれ癒された。」と言い伝えられていますが、「手」をもって行う看護が病者の苦痛を治癒する大きな要素であるようです。「手当をする」「手遅れになる」という表現があるように、手の働きを抜きにして看護の実際はあり得ないと思われます。また手の「触れる」「つかむ」という働きが、「把握する」「理解する」という精神的な働きと関連する事も大きな意味があるのだと思われます。病人に触れる事でその人の病状を把握し、相手を理解していくという働きへと繋がるのです。

 常平生から見返りを求める事なく、そっと手を差し伸べる思いやりを共々に心がけて参りましょう。

 

和尚のひとりごと「伝道掲示板296

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食作法の肇に唱える十の仏・菩薩の名号。
食膳に関わった全ての施主等の、災障の消滅、および福徳と智慧の増大を願うために唱えるもので、
初めに唱える次の句頭がそのことを示している。
”十方(じっぽう)(又は今日 こんにち)
施主災障消除(せしゅさいしょうしょうじょ) 福慧増長(ふくえぞうじょう)”

食前に十の仏名を唱えることは釈道安に遡るという。
道安は西晋から前秦にかけて(四世紀)の人。
初の経典目録の作成や釋性の創唱、またまだ格義仏教の影響が色濃い中で仏典に即した理解を勧め、
仏教教団の確立に大きな功績を残している。

和尚のひとりごと「伝道掲示板295

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”若(も)人、三世一切の仏を了知せんと欲しなば
応(まさ)に法界(ほっかい)の性(しょう)を観ずべし
一切唯心造なり、と。”

『八十華厳』より。
”この偈を受持すればよく地獄を破す”と伝えられた偈文。
我が宗では盆の棚経ならびに施餓鬼会にて唱えている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板294

諸仏奉請の文

善導大師『法事讃』より。
諸仏を招き入れ、散華をもって供養する..
三奉請又は四奉請の代わりに唱えられるとされる他、三奉請に続き唱えるべきものともされる。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板293

歎仏偈_page001

『大智度論』より

天上天下に仏に比する存在はなく
あらゆる世界における全てのものもまた仏とは比べるべくもない
我、世間の全てを見尽くしたが
仏の如き存在はなかった..

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板292

火葬の文

『舎利礼文』より。
火葬の際に唱える偈文。

仏のまことの舎利(仏舎利)は、仏の本体そのものであり
世界における仏塔(塔婆)として
私たちは敬礼するであろう..

合掌