和尚のひとりごとNo386「ちょっと不便でちょうどいい」
携帯電話が普及し、街中では多くの人々が携帯電話を片手に話をしながら、或いはメールやラインを打っている姿をよく見かけます。電車内でも殆どの方が携帯電話を操作しています。電車内での通話は出来ないので、恐らく携帯電話内のコンテンツを利用したり、インターネットであらゆる情報を入手しているのだと思われます。携帯電話一つあれば、あらゆる情報を即座に入手する事が出来、どこに居ても様々な人たちと繋がる事が可能になりました。外出先で公衆電話を探し回るような事もなくなり、街中で電話ボックスを見かける事は殆どありません。
携帯電話の無い時代には、友達の家に電話をする時も緊張したものです。友達が出るとは限らないからです。親、兄弟、電話を掛けた家に居る誰かが出るのです。誰が出ても良いように、「もしもし、私は〇〇ですが、△△さんのお宅でしょうか。︎︎さんは居られるでしょうか?」と話し出します。そのことで電話先の家族の方は、子供が誰と繋がっているのかを認識し、子供の友人関係を把握する事が出来ていました。しかし、今は携帯電話で直接特定の個人と繋がる事が出来ます。違う人が電話口に出る事は先ずありません。その事で親は子供が誰と繋がっているのかを把握しきれなくなってきているそうです。学校内の友達のみならず、インターネットを介して知り合った実際に会った事のない人や、行ったこともない所まで交友関係が広がっているからです。国内だけではなく、世界中の人々と繋がる事が出来るのは世界観が広がるので良い事でしょうが、直接相手を知らない分、事件につながる危険性もあります。
お互いを理解し合うには何よりもコミュニケーションが大切です。電話でもコミュニケーションは取れますが、実際に会って話す事でお互いの人柄も理解し合え、信頼関係も築いていけるものです。「理解する」という事は、「お互いの距離を縮める」或いは、「相手の立場に立って考えられる事」を意味します。「理解する」を英語でunderstand(アンダースタンド)と言います。underは「〜の下に」と訳しますが、元々「〜の間」という意味があったそうです。Stand(スタンド)は「立つ」です。「相手の間に立つ」つまり「相手との距離を縮めます」というのが「理解する」という事です。
便利な世の中になると、ついつい簡単に物事を済ませがちになります。実際に相手に会って、また日々の生活の中で粗末にしがちなコミニュケーションを大切に、相手の立場に立って考えられるように心がけていきたいものです。
和尚のひとりごと「伝道掲示板164」
天候不順、罪びと数知れず、荒れる世の中を統べるには神仏への信仰こそが肝要である。
そう信じて大仏発願を志した聖武天皇の残したことば。
奈良東大寺大仏は毘盧遮那仏、宇宙の根源を体現する仏の真の姿だという。
開眼の導師をつとめたのは、南インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)
天平勝宝4年(752年)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修された。
菩提僊那はまた20年以上の長きにわたりこの極東の島国で過ごしたのち
天平宝字4年(760年)2月25日、大安寺にて入滅したと伝えられる。
遥か西方を向き合掌したまま、57歳の生涯を閉じたという。
聖武天皇の御前にて
右手奥に菩提僊那、手前に行基菩薩
和尚のひとりごと「伝道掲示板162」
弥陀身心遍法界(みだしんじんへんほっかい) 衆生念仏仏還念(しゅじょうねんぶつぶつげんねん)
一心専念能所亡(いっしんせんねんのうしょもう) 果満覚王独了々(かまんかくおうどくりょうりょう)
山崎弁栄上人は24歳のときに「一心法界」を会得したという。
男体山にある石碑には次のようにある。
“明治十五年二十四歳の時一夏六十日間筑波山上に入山修行、
深三昧の岩床に称名日々十万遍、
王三昧円かに成就して、如来の真境了々と現前。
爾来三業清浄、一行精進、施、戒、進、禅、慧欠くることなく、
更に三年間草庵に籠って、一切経七千三百余巻読了”
「仏教の真理は三昧に入り 神を凝らすにあらざるよりは 証入すること能はず
依て暫く山に入れり」
「仏法は学解にあらず、三昧実証にあり」
これも実理の人、山崎弁栄上人のことばである。