Monthly Archives: 1月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板245」

還相回向偈

(書き下し文)
誓ひて弥陀の安養界に到り、穢国に還来して人天を度せん
願はくはわが慈悲際限なくして、長時長劫に慈恩を報ぜん

(意味)
私たちは阿弥陀如来のおわします極楽世界に到って、
さらにのちにはこの娑婆世界に戻り還って苦悩に沈む人々を覚りの彼岸にまで渡すことを誓います
私の慈悲の心が果てしなく、未来永劫にわたり仏の慈悲心へのご恩に酬いられることを願います

能化(僧侶)の回向の際に唱える。
遷化した能化が、往生ののち、苦しむ衆生を救わんと再び此土に帰り来たることを念じる。
一切衆生の済度を志す菩薩のあるべき姿を表現する。
善導大師『法事讃』より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板244」

心浄偈

(書き下し文)
世界に処すること虚空の如く、蓮華の水に著せざるが如し
心の清浄なること彼に超えたり。稽首して無上尊を礼したてまつる

(意味)
釈尊はまるで果てなき虚空のようにこの世界におわし
蓮華のはなが泥水に触れずに咲くように浄らかである
その御心が清浄なること、この蓮華を遥かに凌駕している
こうべを深く垂れて、この上なき尊き人に礼拝致します

現在は僧侶に対する回向文(能化回向文)として用いられるが、元来は釈尊に対する回向文(釈迦回向文)であった。
他宗では食作法の際や授戒の際に唱えられるという。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板243」

自信偈

(書き下し文)
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難(かた)きがなかに転(うた)たまた難し
大悲を伝えてあまねく化するは、まことに仏恩(ぶっとん)を報ずるに成る

(意味)
自ら信じ、かつ他をして信じさせること
これは困難ある中にもまた輪をかけて難しいことである
仏の大いなる慈悲の心を、あまねく全ての人々に伝えることは
誠に仏の大恩に報いることに他ならない

また念仏者の心構えを端的に示した文。
列祖の回向に唱える偈文として用いられることから、御忌会など列祖の法要、また説教・法話・講演会など教えを伝える場面において、最初に「開経偈」を唱え、終わりにこの偈文を称える慣わしである。
善導大師『往生礼讃』初夜礼讃偈より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板242」

讃仏偈

(書き下し文)
仏の諸々の功徳を讃えるに 分別心ある事なく
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ

(意味)
仏の優れた特質を讃えるに
そこには分け隔てする心はなく
速やかに功徳の大いなる宝の海を満たして下さいます

仏の功徳を讃える回向文で、開眼式・撥遣式・浄焚式・晋山式などで用いられる。
元は世親菩薩の『往生論』から。善導大師『観経疏』、同じく『往生礼讃』にも出る。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板241」

敬礼偈

(書き下し文)
天人大覚尊を敬礼す。
恒沙の福智皆円満し 因縁果正覚を成ず。
住寿凝然として去来なし

(意味)
天人にも譬えられる大いなる正覚を得た尊き師に敬って礼拝致します。
ガンジス川の砂粒の数と同様にはかり知れない仏の福徳と智慧は円かに完成され
修行の結果としての覚りを成就され
その寿(いのち)は常に留まり、決して去ってしまうことはない


別名「釈迦回向文」。
釈尊に対する回向文で、釈尊が安置される際に唱えられている。
『大乗本生心地観経』より。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板240」

本誓偈

(意味)
阿弥陀仏がかつて立てられた誓願は
極楽世界へ開かれた最も肝要なる門(入口)である
心が定まり禅定の境地にあって行う善き行い、そして反対に散乱した日常心にて修める修行なども
ともに同じく極楽往生に向けて回向し(振り向けて)
速やかにもはや再生することのない境地(覚りの境地)を得よう

弥陀仏に対する回向で唱えられる回向文。
本誓とは本願に同じ。元の誓願(ちかい)という意味で、法蔵菩薩と呼ばれた正覚前の修行時代の阿弥陀如来が、かつて衆生救済の為に立てた四十八の誓願を指す。
この偈文自体は善導大師『観経疏』玄義分の冒頭の十四行偈(発願帰敬偈)からの抜粋である。

合掌

和尚のひとりごとNo470「法然上人御法語後編第四」

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 後編 第四「特留此経(どくるしきょう)」

【原文】
双巻経(そうかんぎょう)の奥に、「三宝滅盡(さんぼうめつじん)の後の衆生、乃至一念(ないしいちねん)に往生す」と説かれたり。善導、釈して曰く、「万年(まんねん)に三宝滅(めっ)して、此(こ)の経、住(とど)まる事百年、爾(そ)の時、聞きて一念すれば。皆まさに彼(かし)こに生ずることを得(う)べし」と云えり。
この二つの意(こころ)をもて、弥陀の本願の、広く摂(せっ)し、遠く及ぶ程(ほど)をば知るべきなり。
重きを挙(あ)げて軽(かろ)きを摂(おさ)め、悪人を挙げて善人を摂め、遠きを挙げて近きを摂め、後を挙げて前を摂むるなるべし。
まことに大悲誓願(だいひせいがん)の深広(じんこう)なる事、たやすく言(ことば)も持て述(の)ぶべからず。心を留(とど)めて思うべきなり。
抑(そもそも)このごろ末法に入(い)れりといえども、未だ百年に満たず。我(われ)ら罪業(ざいごう)重しといえども、未だ五逆(ごぎゃく)を造らず。然(しか)れば、遥(はる)かに百年法滅(ほうめつ)の後を救い給えり。況(いわん)やこのごろをや。広く五逆極重(ごぎゃくごくじゅう)の罪を捨て給(たま)わず。況や十悪(じゅうあく)の我らをや。
ただ三心(さんじん)を具(ぐ)して、専(もは)ら名号を称すべし。

【語句の説明】
特留此経(どくるしきょう)
八万四千の釈尊の教説の中、他のすべての教えが無くなってしまった末法一万年ののちも、この経(『無量寿経』)だけは世に留まるという事。『無量寿経』が留まるという事は念仏の教えが留まる事に他ならない。

双巻経(そうかんぎょう)
浄土三部経の中の『無量寿経』のこと。他の『観無量寿経』『阿弥陀経』は一巻であるのに対して、本経が上下二巻であることからそう呼ばれる。

三宝(さんぼう)
仏教徒が帰依・尊重すべき三つの宝である仏・法・僧のこと。仏とは仏陀つまり覚った者、法とはその教え、僧とは教えに従って修行する者の集まりの事。
ここでは後世に仏教を伝え広めるのに必要な住持三宝(じゅうじさんぼう)として用いられており、より具体的に三宝は仏像、経巻、僧侶たちを指している。

五逆(ごぎゃく)
五種の重罪、五逆罪のこと。『無量寿経』『観経』で示される五逆罪は『阿毘達磨倶舎論』に基づくものといわれ、殺母(母親を殺める事)、殺父(父親を殺める事)、殺阿羅漢(覚りを開いた聖者を殺める事)、出仏身血(仏の身体を傷つける事)、破和合僧(修行者の集団の和を乱して分裂させる事)を指している。

十悪(じゅうあく)
十種の悪行のこと。十不善業道、十悪業道。
まず殺生(せっしょう、有情の命を断つ事)、偸盗(ちゅうとう、盗む事)、邪婬(じゃいん、不道徳な性交渉)の三つの身業(身体を動かす事で行う業)、次に妄語(もうご、他人を誑かす言葉)、両舌(りょうぜつ、仲たがいさせる言葉)、悪口(あっく、罵りの言葉)、綺語(きご、誠の心から出た言葉ではない飾り立てた表面的な言葉)の四つの口業(発言する事で為す業)、最後に貪欲(とんよく貪りの心)、瞋恚(しんに、苛立ちや怒り)、邪見(じゃけん、仏法の正しい見方にそぐわない見解)の三つの意業(心による行い)を数える。

三心(さんじん)
阿弥陀仏の西方極楽浄土へ往生を遂げる為に備えなければならない三種の心構えで、至誠心・深心・回向発願心のこと。総じていえば、誠の心をもって自身の愚を見つめ、心を浄土への往生へ振り向けることである。



【現代語訳】
『無量寿経』の末尾に「三宝が滅び去ったのちの時代の人々でさえも、たった一度の念仏で往生できる」と説かれています。善導大師はそれを解釈して仰っています。「末法が一万年続いたのちの世、ついに三宝が滅び去っても、この経だけはさらに百年間留まるだろう。その時に、弥陀の教えを聞法し一声でも名号を称えれば、そうした者は皆必ず彼の国極楽浄土に生を得ることができる」
この二つの文より、阿弥陀仏の本願が、どれほど広く衆生を包み込んでくれるものであるか、また同時に遠く遥かな未来世までも見据えたものであるか、それを理解すべきです。
これは罪深い者たちをも救いあげ、罪状の軽い者たちをも含め、悪人たちをも救い上げ、善人をも含め、遠い遥か未来世の者たちをも救い上げ、近い将来の者たちをも含めようとされているのです。
まことに弥陀の大いなる慈悲に基づいた誓いが深く広いこと、言葉で表現することは至難であります。よくよく心を寄せて思い量るべきです。
いったいぜんたい、昨今は末法の時代に入ったと言われますが、それでも未だ百年も経過していません。さらに私たちの犯してきた罪は深いといえども、五逆罪までは犯していません。だからこそ遠く三宝が滅び去ったのちの世においても百年間は人々に救いの手を差し伸べて下さるのです。そうであれば今私たちの生きる世界の衆生を救わない筈はありません。
五逆罪という重罪を犯した者たちでさえも見捨てることがないのです。(それよりは程度の軽い罪である)十悪を犯している私たちを見捨てる道理がありましょうか?
ただ実直に三心(という浄土往生に向けたまことの心)を具えて、専一に弥陀の名号を称えることです。


「往生大要抄」に収録されているこの一節は、元祖上人が浄土宗の教えを体系的に説明しようと試みた書で『選択集』以後の成立と見られている。末法・末世ののち仏教の宝であり、私たちが拠り所とすべき三宝が滅びたのちの世においても、ただ念仏による救いのみは残るという。
私たちたちが為すべきは、まさに「三心を具して、専ら名号を称すべし」これに尽きている。

和尚のひとりごと「伝道掲示板239」

献供偈

(意味)

この味わいと色味、香りを、ここに招いた御仏に供養致します。
そしてこの度、この食を施した者に、はかり知れないほどの功徳が届きますように。

仏前もしくは霊前にて御膳を供える際に唱えるもので、”波羅蜜(パーラミター)”は菩薩が実践すべき六つの徳目に含まれるは布施波羅蜜のこと。見返りを求めず惜しげなく施すことを意味する。
本来は浄土宗の食作法(正式な食前の作法)において唱えるべき偈文に「呪願偈(じゅがんげ)」があり、これはそこから転用されたもの。
「此食色香味しじきしきこうみ 上献十方仏じょうこんじっぽうぶつ 中奉諸賢聖ちゅうぶしょげんじょう 下及六道品げぎゅうろくどうほん 等施無差別とうせむしゃべつ 随感皆飽満ずいかんかいほうまん 令諸りょうしょ(今こん)施主得せしゅとく 無量波羅蜜むりょうはらみつ」『新学行要鈔』
これによればこの食によって諸仏から六道輪廻の有情を含む全てに施さんと志すが、ここでは今この道場に奉請した仏に対する供養という形をとっている。
また特定の施主がいるときは”令今施主得”、特定の施主が決まっていないときは”令今諸施主得”とする。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板238」

歎仏偈

(意味)

御仏の妙なる御姿は、この世に同様のものなど存在しない程です。
他と比べるなど思いもよらないことです。
それ故にまさに今、私は仏を敬い礼拝致します。
如来のおすがたは尽きることなく永遠に続き、その智慧もまた然りです。
そして説かれた教えは永遠の真理です。それ故にまさに今、私は仏に帰依致します。

聖徳太子も注釈を著わした『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は詳しくは『勝鬘師子吼一乗大方便広経』。一乗真実と如来蔵を説く代表的な中期大乗経典で、在家信者によって法が説かれる点に特色がある。仏を讃歎すること止まないこの偈文は、本来釈迦如来を讃えたものであった。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板237」

広開偈

(書き下し文)
十方証誠諸仏よ、六神通をもって私を照鑑したまえ。今二尊の教えに乗じて、広く浄土門を開かん

(意味)
十方のあらゆる方角におわします仏たちよ
六種の神通力をもって私をご覧ください
今わたくしは釈迦仏・弥陀仏の尊ぶべき仏の示した教えに従って
ここに広く浄土の御教えを開示しようと思います

善導大師『観経疏』玄義分より
善導大師が『観経』に明かされている凡夫往生の教えを説き示さんとするにあたり記した一文。
唐朝三代皇帝高宗の発願で建造された中国仏教史上に名高い龍門石窟の検校僧に抜擢された善導大師
その龍門石窟からはこの一節を含む十四行偈(『観経疏』の序文)の刻文が発見されているという。

合掌