Monthly Archives: 2月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板260」

帰僧息諍論の文_001

法要が終わったのちにこの偈文を唱えて袈裟を外す。
「三帰礼」に含まれ、出典は善導大師の『往生礼讃』より。
「僧」とは僧伽(サンガ)つまり和合僧を意味する。
争い・論争を止めて和合僧の集いに帰依し、和合して一味となっている大海のような集いに入り、諸々の衆生と共に、無量寿国に往生する事を願おう..

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板259」

散華荘厳文

『四分律行事鈔』より

散華によって道場を荘厳し供養する際に唱える。

華を散らして浄らかなる光明を荘厳し
荘厳宝華をもって帳となし
もろもろの宝華を遍く十方に散らして
一切の諸々の如来を供養せん..

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板258」

奉請四天王文

善導大師『法事讃』より。

四方を浄める為に洒水(しゃすい)作法を行う際に唱える。
道場を洒水で浄め、結界し、四隅に四天王を安置して、仏敵たる諸悪を退散させる。

四天王を請い奉る。直ちにこの道場中に入らんことを。
師子王を請い奉る。師子にまた逢うは難し。
身毛衣を奮迅せば、衆魔は退散し去るべし。
頭廻して法師を廻わば、ただちに涅槃城を取すべし..

獅子の王者に喩えられるのは仏、四天王と仏を招き諸々の悪魔を斥け、いよいよ道場の荘厳が極まる。

合掌

和尚のひとりごとNo491「涅槃会」

本日2月15日は涅槃会の日です。涅槃(ニルヴァーナ)とは本来、お釈迦さま(釈迦仏)の覚りの境地を表す言葉ですが、やがて弟子たちにより、釈迦仏は肉体が滅することで本当の意味での涅槃に入ったのだと考えられるようになり、釈迦の入滅をもって涅槃と称するようになりました。これを般涅槃(はつねはん、完全な涅槃)と呼びます。
釈迦仏の入滅については確かな記録がない為、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日に、盛大に法要を営み、私たち北伝の仏教徒たちは伝統的に2月15日に涅槃会を厳修する事とされています。nehan

さて釈迦が入滅されたのは、インド北東部のクシナガラにあった沙羅双樹(サーラ双樹)の元であったと伝えられます。実に45年に及んだ伝道教化の旅路を終え、80歳の高齢に達していた釈尊は、これに先立ちゆかりの地ヴァイシャーリにて従者阿難尊者(アーナンダ)に3か月後の入滅を予告し、パーヴァーで鍛治屋チュンダの施食を受けます。そしてその際に召し上がったスーカラ・マッダヴァによる食あたりが死因になったと伝えられます。

この「スーカラ・マッダヴァ」については、昔は茸だと考えられてきましたが、豚肉を指すと考える方が穏当なようです。現在のインドでは豚肉はほとんど食される機会がありません。それはイスラム教が豚肉を食するのを禁じているからです。同様、現在ではヒンドゥー教徒によってタブー視されている牛肉を食することも、当時は普通に行われたようです。

ところで出家の身が肉や魚を食してもよいのか?疑問に思われる向きもあるかも知れませんが、出家者が守るべき規範である律には肉食を禁じた条項は存在しません(とは言っても蛇やヒト等、特定の動物の血肉を食すべきではないという記載はあります)。

しかし注意すべきは、そこに条件が付されている事です。その条件とは、「見・聞・知」を満たしていなければならないというものです。「見」とはその動物が殺生される場を見ていないこと、「聞」とは自分に施す目的で殺生されたということを聞いていないこと、そして「知」とは同様にそのことを知らないことです。これらの条件を満たすものを「三種浄肉(さんしゅじょうにく)」と呼んでいます。

やがて時代が下ると出家の肉食のタブーが成立し、いわゆる精進料理が僧侶の食事だと考えられるようになりますが、それは大乗仏教になってからの話。伝統的には、施されたもののみで生活し、施されたものに対してえり好みを交えず、食する量を八分目に、そして施されたものは決して持ち越さずその場限りのものとする事、これが釈迦の「食」に対する基本姿勢でした。

静かに最後の時を迎えた釈迦が残した言葉が 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい」というものでした。
釈迦の入滅を描いた涅槃図には、頭を北に、顔を西に向け、右脇を下にして(頭北面西右脇臥 ずほくめんさいうきょうが)、静かに、そして穏やかなお顔にて横たわる釈迦仏の御姿と、その死を悼み集まったたくさんの者たちが描かれています。

和尚のひとりごと「伝道掲示板257」

取骨偈

(書き下し文)
仏この夜滅度し給うこと、薪尽きて火の滅するがごとし
諸々の舎利を分布して、しこうして無量塔を起つ

亡者を荼毘に付したのちその遺骨を拾う際に唱える。または「降魔偈」がそれに代わる。
出典『法華経』では釈尊滅後にその骨を分骨して、その仏舎利を祀る数多くの仏塔が建てられたと記す。『大般涅槃経』によれば、釈尊の遺骨は八つに分配されて八大仏塔が建立されたとする。生前の偉大な教師に再び相見える事を願い、多くの仏教徒がそこを訪れた。
私たちはそれに倣い、遺骨を祀り、亡きあとに偲ぶ大切なよすがとする。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板256」

出棺偈

如来本誓(にょらいほんぜい) 一毫無謬(いちごうむびゅう)

願仏決定(がんぶつけつじょう) 引接精霊(いんじょうしょうれい)

源信僧都『往生要集』中の臨終行儀では、「我を引摂し給え」としていると言う。
迎接式(こうしょうしき 出棺式)に際に唱える。

(意味)
弥陀が誓われた誓願に一切の誤りはない
どうか必ず亡者を浄土へ迎えて頂きますように

 

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板255」

納棺偈

阿弥陀如来おわします安養極楽世界に救い取って頂き
菩提正覚(正しく完全な悟り)が自らのものとなるように

新亡納棺の際の偈文。
納棺が済んだら一唱一下の念仏を止め、この偈文を三唱後、十念を唱える。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板254」


三帰三竟_page001

三帰三竟_page002

『授菩薩戒儀』より。
帰敬式、得度式、剃度式など様々な場面で唱えられ、枕経では新亡に授与する形をとる。

「三帰」とは三宝への帰依の表明。「三竟」はその帰依が終わったことを表わす。
古来より仏・法・僧の三つの宝への帰依は仏教徒となる事の表明であり、ことある毎に唱えられてきた。ここで”尽未来際”は未来永劫にわたってのものである事を示す。古来、正式な仏教信者となるには、この三帰依を三度唱えることで事足りたと言われている。

合掌

和尚のひとりごとNo486「法然上人御法語後編第五」

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法然上人御法語後編第五「無上功徳(むじょうくどく)」

【原文】
善根(ぜんごん)無ければ此(こ)の念仏を修(しゅ)して無上の功徳を得んとす。余(よ)の善根多くば、たとい念仏せずとも、頼む方もあるべし。
然(しか)れば善導は、「我が身をば善根薄少(ぜんごんはくしょう)なりと信じて本願を頼み、念仏せよ」と勧(すす)め給(たま)えり。経に、「一度(ひとたび)名号を称(とな)うるに、大利(だいり)を得(う)とす。またすなわち無上の功徳を得(う)」と説けり。いかに況(いわん)や念々相続せんをや。然れば善根なければとて念仏往生を疑うべからず。


【語句の説明】
無上功徳(むじょうくどく)
善行による報いとして得られる最も優れた徳のことで、ここでは本願念仏による利益・功徳が最上であることを表現している。

善根(ぜんごん)
あらゆる善業の本となるもので、無貪・無瞋・無痴の三善根を数える。反対に貪・瞋・痴(むさぼり・いかり・おろかさ)は三不善根(三毒)と呼ばれ悪業の根底にある煩悩である。

「我が身をば善根薄少(ぜんごんはくしょう)なりと信じて本願を頼み、念仏せよ」
善導大師『往生礼讃』より。

「一度(ひとたび)名号を称(とな)うるに、大利(だいり)を得(う)とす。またすなわち無上の功徳を得(う)」
『無量寿経』巻下にはこのようにある。
「この人、大利を得たりとす。すなわちこれ無上の功徳を具足す」


【現代語訳】
善き行いを積み重ねることができないからこそ、念仏にすがり、念仏を修めることでこの上なき功徳を得んとするのです。もし仮に念仏ではないが善き行いを数多く積み重ねているのならば、たとえ念仏を称える事なくしも頼る手立てがあるのでしょう。
そのようなわけで善導大師は「自分自身は善いとされる行いを積むこと至極わずかである、そのように信じて仏の本願に頼り、念仏を行う事だ」と勧められているのです。経典には「ひとたびでも念仏を申せば、大いなる利益を得ることにつながる、つまりこの上なき功徳を手に入れることができる」と説かれています。ましてや念仏を絶えず相続し続けるならばその功徳が大きいことは言うまでもありません。だからこそ、日ごろより善き行いを積んでいないからという理由で、念仏による往生を疑うようなことがあってはならないのです。


法然上人は『選択集』でこのように述べる。
「無上功徳とは、これ有上に対する言なり。余行を以て有上と為し、念仏を以て無上と為す」
仏の本願に誓われ、間違いない正しい行として保障された念仏と他の行の違いはかくの如く、
私たちはただ安心して念仏を頼りとし、仏の名号を称えるだけでよいのである。
合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板253」

剃髪偈

『華厳経』より。

(意味)
髪と髭を剃り落したならば
衆生は皆、煩悩を除き、寂滅の境地に達する
かくの如く願え

剃度作法の中で、報恩偈のあと、いよいよ髪を剃る際に唱える。
髪や髭を俗人の煩悩に喩え、それを除くことに俗世間を離れてゆく姿を象徴させる。
剃髪は、釈尊が他の修行者との区別化を図る目的で仏教沙門(釈子)は髪を剃るべしと定められて以来の伝統である。

 

合掌