伝道掲示板

和尚のひとりごと「伝道掲示板411

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”悪を為したならば決して気を許してはならぬ。
遠い昔に為した悪であっても
遠い土地で為した悪であても
あるいは誰にも知られぬ中で為した悪であっても
気を許してはならぬ。
悪業の報いは必ずあるのだから。

善を為した際には安心しておれ。
遠い昔に為した善であっても
遠い土地で為した善であても
あるいは誰にも知られぬ中で為した善であっても
安心しておれ。
善行の報いも必ずやってくるのだから。”
『ウダーナヴァルガ』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板410

tadasiku

小部経典(しょうぶきょうてん)は古来より伝承されてきた仏教の文献である三蔵(大蔵経)の中では
経蔵(お経をとりまとめた集成)に含まれ、比較的短いお経が集められています。
そして小部という名称は、私たちに馴染み深い漢訳の(中国語に翻訳された)仏典ではなく
南伝といって南のスリランカを経て東南アジアに伝わった三蔵の中で使われるものです。
出家の僧侶向けに専門的なお話が展開される長部(ちょうぶ、長いお経の集成)などに比べると
親しみやすく、また色々と気付かされる教えも数多くこの小部の中に含まれています。
今回ご紹介した内容は、お坊さんに施すことを奨励しているものではなく(´∀`;)
自分自身の心を整える修行のためには、困っている他の存在に惜しみなく施しをして
またそのことによる見返りを求めないあり方を目指せ、と説かれているのではないかと考えてアップしました。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板409

makotoni

”もし人が自らを愛おしいと知るならば、自分に悪を近づけてはならぬ。
悪しき行いは楽しみを生まない。
善き行いこそが、容易に楽しみを生む。
もし人が自らを愛おしいと知るならば、よく心掛けて自らを護れ。”
『ウダーナヴァルガ』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板408

nasubeki

罪なきにも関わらず、罵られ、殴られ、拘束されても
それを耐え忍び、心猛き人
わたくしは彼をバラモンと呼ぶ。

怒らず、慎んで、戒律に準じ、欲望を増やすことなく
最後の身体となった人
わたくしは彼をバラモンと呼ぶ。

あたかも蓮の葉の上の露のように
あるいは錐(きり)の先端の芥子粒のように
一切の欲情に汚されない人
わたくしは彼をバラモンと呼ぶ。

この世において既に苦しみが滅されたことを知り
重荷をおろして、捉われなき人
わたくしは彼をバラモンと呼ぶ。

深く明らかな智恵を持ち
様々な道に通達し、最高の目的を既に達成した人
わたくしは彼をバラモンと呼ぶ。
『スッタニパータ』より

「生まれによってバラモンとなるのではない」
〈バラモン〉とは高貴な者を意味している。

和尚のひとりごと「伝道掲示板407

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”重荷を捨てたのちに新たに荷を引き受けぬことこそが賢明である。
実に荷を受けることこそが最上の苦しみとなり
荷を捨てることこそが最上の楽しみである。”
『ウダーナヴァルガ』より

しかしながら生きることは荷を受け続けることである。
多くの人々が自らそれを望む中で、釈尊はこのように説かれた。

和尚のひとりごと「伝道掲示板406

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”外からやってくる毒矢は防ぐことも出来よう。
しかし内より刺さってくる毒矢は防ぐすべを持てない。
それこそは
貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろか)と傲慢さとである。
この四つの毒矢は実に様々に人々を悩ませ
互いに相乗して悪の連鎖を作り為すであろう。”

本事(または如是語)は釈尊自らが法を語ったものとして伝わる。

和尚のひとりごと「伝道掲示板405

kyousejiku

托鉢にて得られた食のみにて生命をつなぐ
それが出家の作法である。
あるとき釈尊はどの家々からも一切施食を受けられなかったが
それは悪魔の策略によるものだったという。
悪魔云わく、
”今一度家々をめぐるがよい。
そうすれば施食を得られるであろう。”

釈尊が答えて云わく、
”私にはもはや悪行の報いは存在しない。
何物をも得られないが、大いに喜びをもって生きていこう。
喜びこそが私の食となるであろう。”
『相応部経典(悪魔相応)』より

和尚のひとりごと「伝道掲示板404

hito

”尊敬されるべき存在(牟尼)は、諸々の群衆に尊ばれて歩むことを決して好まない。
そうなれば心があるべき境地から離れ、三昧は得難きものとなる。
人々が群れ、集まることは苦しみであり、禍のもとであることを知れ。”

ただ一人歩み、家々での施食も喜ばず
人々からの崇拝と供養こそが道を歩む者にとり危ういものであることを語り
生涯を通じて頭陀乞食に徹したマハー・カッサパ長老の言葉。

和尚のひとりごと「伝道掲示板403

mezameta

比丘らよ
この大地すべてが大洋となったと思い浮かべよ
そこに投げかけられた軛(くびき)は
風に吹かれて常に東へ西へと運ばれるであろう。
そこに100年にたった一度、水面に浮かんでくる目の不自由な亀がいるとしよう。
その亀が果てしない大洋に漂う軛に頭を突っ込むことについて
汝らはどのように思うであろうか。

まさにそれほど稀有なことが人として生を受けるという事なのである。
だからこそ、今ここに於いて汝らは
これこそが苦の集まりであり、苦が現れる姿であり
苦の滅尽であり、そこに至る道であると専心せねばならない。
『相応部経典』サッチャ・サンユッタ(真理相応)より

和尚のひとりごと「伝道掲示板402

tenn

この世界にて我は唯一の法を説くであろう。
我こそは再び生を受けることなき境地に達するであろう。

何故尊いのか。
それは真理を悟り、真理を説くからである。
そして全ての有情にとり、その各々の実存は尊いものとなる。
それは誰しもがその実存において生き
道を歩むことは出来るからだ。