法話

和尚のひとりごとNo870「涅槃会」

「私がいなくなっても真理の法は生きている。
自らを灯明(ともしび)とし自らを拠り所としなさい。
法を灯明とし法を拠り所としなさい」
このような有名な言葉を従者アーナンダに残して、仏教の開祖釈迦牟尼が世を去ってから二五〇〇年の歳月が流れました。そして毎年2月15日は釈迦入滅を偲ぶ涅槃会を勤めるべき日とされてきました。
平家物語に「沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす」と詠われた釈迦入滅の地は、経典にはクシナーラ村と記されていました。入滅まもなく釈迦に因む四大聖地の一つとして巡礼の足とだえることはなかったと伝えられます。四大聖地とは、釈迦誕生の地ルンビニー、菩提樹下で悟りを開かれたブッダガヤ、初めて法を説かれたサールナート、そして入滅の地クシナガラ(クシナーラ)のことです。
時代が下るとインド本土においては仏教は次第に衰微し、仏教徒にとり大切な聖地も砂塵に吹かれ、土に埋もれ、忘れ去らていていきました。ところが19世紀になると、熱心な仏教国であるビルマやアジアに進出したきた西欧の列強により、仏教の遺跡の発掘を進められ再び陽の目を浴びることになります。ここ入滅の地クシナガラは、1876年には寺院跡に安置されていた涅槃像が発見されました。
歴史を残さない国といわれるこのインドの地で、既に失われた場所を特定するのは困難のきわみでしょう。ところがこれら古代遺跡の発掘の際には、遡ること1000年程も前の時代、さかんにインドを訪れた中国僧たちの記録が大変役にたったと言われています。特に7世紀の玄奘三蔵は、この地がすでにさびれ、寺院も十分な保護を受けていない状況とともに、その場所を特定する地理的な手掛かりを残していました。
現在は北インドに位置するウッタル・プラデーシュ州北東部のカシアと呼ばれるこの地は、かつて釈尊の時代には、マッラ国(末羅国)にある二大中心地のひとつとして栄えました。20世紀に入り仏教徒の手によって建立された涅槃堂には今も入滅のお姿をかたどった涅槃像が安置され巡礼の足が途絶えません。
35歳で成道を成し遂げ、45年間に及び遊行と説法に明け暮れ、数え80歳で生涯を閉じられた釈尊ですが、最後は病による肉体の苦しみを訴えられ、沙羅双樹のもとに身を横たえ最後の言葉を託しました。
諸行無常は世のならいであります。人として生きる道を身をもって示されたこのお姿は、今も私たちに語りかけているように思います。
無常なる世の中において、各々がなすべきことを為し懸命に生きよと。
合掌

和尚のひとりごと「彼岸

春と秋にやって来るお彼岸は、それぞれ昼の長さと夜の長さが等しくなる「春分の日」「秋分の日」を中心として前後3日間の計7日間にわたって営まれます。ところで「彼岸(向こう岸)」とは何を意味しているのでしょうか?一般的には死者の赴く世界、あるいは太陽が沈む西方の彼方にある極楽浄土を指していると理解されているでしょう。
この言葉は仏教の故地であるインドでは「pāram パーラム」と呼び、迷いの世界であるこちら岸(此岸)に対して、迷いを離れた悟りの世界である向こう岸(彼岸)を意味します。
向こう岸へ渡り切ることで、乗り越えてあとにすべき世界、それが私たちの住む迷いの世界(娑婆世界)であります。そしてそれは容易には渡れない川であるが故に、釈尊はしばしば「激流」に譬えています。釈尊生前の説法を色濃く反映していると言われる初期経典においては次のように説かれています。

”この世において誰が〈激流〉を渡るのであろうか? この世において誰が大海を渡るのであろうか?
身体をしっかりと支えてくれる寄る辺のない深い海に入って、誰か沈まない者はいるだろうか?”
「常に戒をたもち、智慧あり、よく精神統一をなして、自らの心を内省し、またよく注意している人、こうした人こそが渡りがたい〈激流〉を渡ることができる。」

世間(私たちの生きている世界)についてよく理解した上で、尊ぶべき真理を見、〈激流〉を渡り切ったこのような人、束縛を脱して、煩悩の汚れを離れた人、このような人を賢者たちは「聖人」であると知っている。

神霊よ、聞くがよい。
それら煩悩が起って来る原因について知っている人々は、その煩悩を取り除くことができる。
彼らは渡りがたい、そして未だ誰も渡り切っていないこの〈激流〉を渡り、もはや次の新たな生存をその身に受けることはない。

大切なことは、渡り切ることがたとえ誠に困難であってもそれは実現可能であり、現にそれを体現して悟りを開かれた釈尊がいたという事実でありましょう。弟子たちによって脈々と伝えられたその言葉は「経」として私たちに示されているのです。

ところで伝統的な仏教に対して新たな救済の方法論を打ち出したのが大乗仏教です。しばしば「大きな乗り物」に譬えられるこの教えは、大乗仏教という「大きな乗り物」によってより多くの衆生を向こう岸へ渡すことを目指していると理解できるでしょう。

ではその大乗経典において「彼岸」はどのように説かれているのでしょうか?宗派を超えて親しまれている『般若心経』を見てみましょう。
この経典のタイトルは『般若波羅蜜心経』と言います。『般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)』とは「Prajñā-pāramitā、プラジュニャーパーラミター」の音写であり、「彼岸に渡る(悟りに至る)為の深い洞察」を意味します。この経典は大部の『大般若経』の内容の真髄をまとめたお経であると言われますが、その末尾は「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)と、結ばれます。この経典を翻訳したとされる玄奘三蔵は、インドの言葉から中国語(漢語)に訳すに際して、その正確さに拘るとともに様々な工夫を凝らしました。ここでは経典のタイトルや最後の一文はあえて中国語に意訳せず、元のインドのサンスクリット語の音をそのまま写しているのです。それはそうする事によって、元の言葉の音が持つ力を残したかったからであると言われています。
現代語訳を参考にすればこのような意味を持っています。
「往ってしまった方よ、往ってしまった方よ。完全に彼岸へと至った方よ。その悟りに幸いあれ。」
覚りを開いたブッダとその悟りを讃えた言葉、ここでも「彼岸」は「悟りの世界」を意味しています。

さて中国浄土教の歴史において特筆されるべき善導大師は、その著『観無量寿経疏』の中で「太陽が真東より昇り真西に沈む春分と秋分の日は、沈む太陽を見ながら、その彼方にある西方浄土に想いを馳せるのに最も適している」と記されているそうです。かつて西方の彼方を見ながら、その彼方にある浄土を観想した人々の想いは、確かに現在の私たちの心に受け継がれています。自らが極楽浄土へ往生できることを心より願い、かつて私たちを慈しんでくれた亡き人への感謝の気持ちを新たにできる、彼岸はまさにそのような季節であります。

和尚のひとりごと「四誓偈と仏の誓い」

 

私たち浄土宗のお勤めで最もよく唱えられるお経が「四誓偈(しせいげ)」です。詳しくは「仏説無量寿経 四誓偈(ぶっせつむりょうじゅきょうしせいげ)」と呼ぶように、私たちが所依の経典として最も大切にしている浄土三部経の筆頭に数えられる『無量寿経』に説かれる一節です。
『無量寿経』の中では、かつて法蔵(ほうぞう、ダルマーカラ)菩薩と呼ばれていた修行時代の阿弥陀さまが、時に出現した仏である世自在王如来との出会いをきっかけに、自らも仏となって衆生を救済することを志しました。その際に自らが建立したいと願う仏国土が備えるべき勝れた特徴を四十八願として仏の前に誓います。これらの特質がもし備わらないならば、決して仏とは成るまいとして、自らの正覚と衆生を迎えとる国土の建立を誓ったのです。そののち、四十八願の成就を重ねて誓い、その決意を表明したのがこの「四誓偈」です。
「四誓偈」はこのように始まります。
「我れ超世の願を建つ 必ず無上道に至らん 斯の願満足せずんば誓って正覚を成ぜじ」
私法蔵はいままでなかったような勝れた誓願を今立てた。
そして必ずや完全なる悟りの境地に達したい。またもし今立てた誓願通りの国土の建立が叶わないならば、決して完全なる涅槃の境地には至るまい。
浄土宗の元祖法然上人はこのような言葉を残されています。
”阿弥陀仏、本願を発(おこ)して、「我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚を取らじ」と誓いて、すでに正覚を成り給う故に、この名号を称(とな)うる者は、必ず往生する也”
つまり仏となっているからには必ず衆生救済の誓いは成就している筈だ。であれば第十八願に誓われているように、十遍の御念仏で極楽へ往生できることは確かなことである。
法然上人はこのように理解されました。
『仏説阿弥陀経』の一節を引用します。
「従是西方 過十万億仏土 有世界 名曰極楽 其土有仏 号阿弥陀 今現在説法」
『ここより西方の十万億土を過ぎたところに世界がある。これを名付けて極楽という。
そこには仏があり、その名を阿弥陀という。そして今現に在まして法を説かれている。』
仏なる誓いは同時に迷える衆生を浄土へ迎え取って下さる誓いでもあります。そして仏は私たちがご縁を頂いたその時に、まさに法を説かれている。誠に心強い言葉だと改めて実感致します。
南無阿弥陀佛

和尚のひとりごと「お釈迦さまの気持ちと八万四千の法門」

仏教を開かれたお釈迦さまは、弟子のひとりひとりが独立して、それぞれの個性にあったやり方で道を歩み、最終的に自らの救い(お悟り)にたどり着くことを望みました。決して一方的にただひとつの修行方法を押しつけることはありませんでした。釈迦説法

仏教聖典が何故それほど膨大なのか?
数が多いということは、それだけ多くの人々が仏教とご縁を取り結ぶチャンスを頂けることを意味します。数多くの衆生が、生きていく上での大切な指針をそこから得、救済されていくということであります。

 

歴史上、仏教が辿ってきた道を振り返っても、釈尊の金口(こんく)の説法があり、インドで栄えた出家者の仏教(部派仏教)があり、衆生の救済を第一とする大乗仏教があり、多種多様な姿をもって実を結んだ民衆の信仰がありました。現在の日本でも、そして世界の仏教国を見ても、実にさまざまな形の仏教が存在します。そしてそれぞれが信ずる教えに基づいた正しい実践があり、法燈が守られ続けています。

一見すると相反するようにも感じられる教えも、元を辿れば源には御仏の教えがあるのみ、八万四千の法門の意味は、覚りという頂上は一つでも、そこに至る道は様々であってよいということです。様々な境遇や考え方を持った人々が、それぞれに頂いたご縁に従い、たとえ一足づつでも仏道を歩んでいけば自ずと覚りの境地に近づいて行けるということです。

浄土宗を開かれた法然上人について、大正大学教授 林田 康順 師は「法然上人は「仏説はどれも百点満点」という一代仏教観を終生堅持され」たと述べられています。
教えに優劣はない、否、凡夫である私たちには仏の教えの優劣を決めることなど望むべくもない。しかしながら私たちを励まし、西方浄土へと送り出してくれる釈尊の言葉が確かにあり、その先には慈悲深き阿弥陀如来がおわします。
そして私たちにはお念仏があります。
法然上人は見出された浄土の御教えは、一部の限られた者にしか実践できない厳しい教えではなく、全ての衆生(心ある者)に開かれた教えです。志を持ち、そしてそれが果たされるべく仏の名を呼べば、必ず報われるというものです。

口称念仏は、誰でも、いつでも、どこでも行える仏道修行であります。
これからもお念仏による安心を感じて頂ける日々をお送り頂ければ幸いです。

和尚のひとりごとNo141「三心」

 

法然上人の一枚起請文に、次のような一節があります。

「三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候そうろうは、

皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」

 ここに言われる「三心(さんじん)」とは、阿弥陀さまが建てた西方浄土に往生しようとする者が持つべき三種の心構えのことです。

浄土宗で大切にしている『観無量寿経』には、こう説かれています。

 第一に「至誠心(しじょうしん)」とは「まことの心、真実心」のこと、

 第二に「深心(じんしん)」とは「仏の本願を深く信じる心」のこと、

 そして第三に「回向発願心(えこうほつがんしん)」とは、あらゆる行為を全て西方極楽浄土への往生の願いへと振り向けることだとされています。

 簡単に言えば、「三心」とは私たちの極楽往生への切なる願いです。

 法然上人によれば、極楽往生への条件であるこの「三心」さえも、『南無阿弥陀仏』とおとなえして必ず往生するのだ、と思い定める中に自然に備わってくるというのです。

 難しく考える必要はありません。

 まずは仏が説示され法然上人が勧められるお念仏を申し、慈悲に満たされた阿弥陀如来の浄土に生まれることを願おうではありませんか。

和尚のひとりごとNo132「お念仏のありがたさ」

「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」

(決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい)。

浄土宗の開祖、法然上人が残された御遺訓『一枚起請文』の一文です。

私たち浄土宗の教えは、お念仏を称えることで阿弥陀さまのいる極楽浄土に往生することを目指す教えです。

そしてこの「お念仏」も、極楽というすばらしい仏国土への往生を心から願い、ただ「南無阿弥陀仏」とお称えするだけでよい、そうすれば必ず、臨終(りんじゅう)ののち、迷わずかの地へ生まれ変わることができると言われています。

法然上人の当時、覚りを開くためには、難しい学問や厳しい修行が求められ、あるいは心の安心を得るためには、経済的にも大きな負担となる功徳を積む必要がありました。

それに対し、法然上人が求道の艱難辛苦(かんなんしんく)の末に確信されたのが、「凡夫が、こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、かならず浄土に往生ができる」ことであり、お念仏のみによる往生が既に阿弥陀仏により約束されているという事実でした。

現実には、私たちは、生きている限り、本当にさまざまな煩悩に悩まされ、翻弄(ほんろう)されています。

決して満足を得られないお金やモノへの欲望、解消されない苛立ちや怒り、あるいは悲しみやむなしさといった感情。

お念仏は、これら私たち自身のこころの動揺(どうよう)や煩悩も抑えてくれるのです。

浄土宗が勧めるお念仏は、だれでも、いつでも、どこでも、思い立ったらすぐにでも実践できる行であります。

お念仏を実践し心が阿弥陀さまに向かえば、必ず、今度は阿弥陀さまの慈悲の光が私たちを照らし、こころの平静と安らぎを得、臨終ののちの往生も約束されるのです。

皆さまも、是非とも、日々の生活の中でお念仏を称えてみてください。

お念仏により、皆さまがこころの安らぎを感じるとともに、往生への確信を得、

人生を豊かで意義深いものにして頂けるならば、それこそが、お念仏のご利益であり、ありがたさであると思います。

合掌