和尚のひとりごとNo890「縁距離を大切に」

さきだたば おくるるひとを まちやせん はなのうてなの なかばのこして

 上記の古歌、「先立たば遅るる人を待ちやせん花の台の半ば残して」に曲を付して、『蓮(はちす)のうてなの御詠歌(ごえいか)』として浄土宗では尊く詠われています。「私が先に御浄土に生まれましたら、後から御浄土に来られるあなたの為に、蓮の台(うてな)を調(ととの)えてお迎えいたします。」という意味です。歌の原型は、中国でお念仏の御教えを弘められた唐の時代の僧侶・善導大師の『般舟讃(はんじゅさん)』<『依観経等明般舟三昧行道往生讃(えかんぎょうとうみょうはんじゅざんまいぎょうどうおうじょうさん)』一巻>という書物に見られます。この書物は御浄土を願い阿弥陀仏の徳を讃えていく、お勤めの方法を明らかにしたものです。原文は次のような文章です。

   一到即受清虚楽 願往生 (一たび浄土に到りぬれば即ち清虚の楽を受く 往生を願う)
   清虚即是涅槃因 無量楽 (清虚は即ちこれ涅槃の因なり 無量の楽しみ)
   表知我心相憶念 願往生 (我が心を表知して相い憶念し 往生を願う)
   各留半座与来人 無量楽 (おのおの半座をとどめて来たる人に与う 無量の楽しみ)

2022sanngatu

 「清虚(しょうこ)の楽」とは煩悩のけがれを離れた静かな楽しみの事です。一たび御浄土に往けば心身ともに悩み苦しみが一切なく、心穏やかに過ごしていけるのです。「涅槃(ねはん)」とは覚りを開いた仏の境地に至る事です。まさに御浄土に往けば仏となっていく身であるので、何の苦しみもなくなるのです。そして御浄土から人間世界を思い、遅れてやって来た人には蓮の台の半座を開けましょう。それが御浄土に往った時の楽しみになるのです。
 現況の新型コロナウイルスで生活し難い日々が続いています。一日も早く平穏無事な日々が来る事を願うばかりです。しかし疫病が終息したとしても死なない社会が来るわけではありません。現代日本は多死社会と言われ、少子高齢で誕生する命よりも亡くなっていかれる方の人数の方が多い社会です。またその亡くなり方も多種多様であり、死と隣り合わせの世の中です。どんなに死を忌み嫌い遠ざけたとしても誰もが必ず受けていかねばならないのが死の縁です。お念仏は死の苦しみをどう乗り越えていくかという事に対して説かれた究極の御教えです。今この世で縁あった人と後の世で再会出来ると思う心が、死に別れ、遺された私たちの救いとなるのです。お念仏を縁として後世でまた会えるのです。亡き人とお浄土で再会出来ると思える心が既にお念仏の御利益(ごりやく)だと頂戴し、再会した時には良い報告の出来る生き方を共々に心がけて参りましょう。

和尚のひとりごとNo888「偉人の名言24」

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孔子

人としてなすべきことと知りながら、それを行わないのは、勇気がないためであるということ。

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和尚のひとりごとNo887「偉人の名言23」

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孔子

学問により、視野も広がり、柔軟となって、頑固さがなくなる

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和尚のひとりごとNo886「法然上人御法語後編第三十」

廻向(えこう)

【原文】
当時(とうじ)日(ひ)ごとの御念仏(おねんぶつ)をも、かつがつ廻向(えこう)しまいらせられ候(そうろ)うべし。亡き人のために念仏を廻向し候(そうら)えば、阿弥陀仏、光を放ちて地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)を照らし給(たま)い候(そうら)えば、この三悪道(さんなくどう)に沈みて苦(く)を受(う)くる者、その苦しみ休(やす)まりて、命(いのち)終(おわ)りて後(のち)、解脱(げだつ)すべきにて候(そうろう)。
大経(だいきょう)に、「若(も)し三途(さんず)勤苦(ごんく)の処(ところ)に在(あ)りて此(こ)の光明(こうみょう)を見(み)たてまつらば、皆(みな)休息(くそく)を得(え)て復(また)苦悩(くのう)なし。寿終(じゅじゅう)の後(のち)、皆解脱を蒙(こうぶ)らん」と云(い)えり。

勅伝第23巻

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【ことばの説明】
廻向(えこう)
pariṇāma(パリナーマ)より、「行き先を転じる」「変化する」の意。
自ら修めた行いの功徳(報い)を、他に差し向ける行為。

地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)
ともに避けるべき三つの苦しみの境涯で、「三悪道(さんなくどう)」または「三途(さんず)」に同じ。地獄道においては火炎に身を焼かれ、餓鬼道においては果てしなき飢えの苦しみに加えて刀杖によって迫害され、畜生道においては愚かにもお互いが食い争っている中に身を投じなければならない、とされる。


【訳文】
常日頃のお念仏においては、何はともあれ廻向をされるべきであります。亡き人のために念仏を廻向することで、阿弥陀仏はその身が放つ御光によって、地獄・餓鬼・畜生の境涯を照らし給い、この三つの悪道に堕ちた者たちの苦しみをやわらげ、その者たちがやがて生命終わるときに、苦しみから逃れることができるのです。
『大無量寿経』にはこのようにあります。
「もし三悪道の苦しみある処にあって、この仏の光明を見ることができたなら、皆安らぎを得て、再び苦しむことはない。寿命果てるのち、皆解脱を果たすであろう」と。

自らの行いの報いは自らが受けなければならない、しかしながら善き行いに関しては、その功徳を廻向することができる、仏教ではこのように考えます。そして数ある行為の中でも、この上ない功徳をもたらすとされるお念仏を廻向すれば、三悪道で苦しむ者たちさえも救うことができる、自他ともに利するお念仏を廻向することの大切さを示された法然上人のお言葉であります。
合掌

 

和尚のひとりごとNo885「偉人の名言22」

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ピタゴラス(紀元前582年~紀元前496年) 古代ギリシャの数学者
「ピタゴラスの定理」を発表された方です

pitagorasu

和尚のひとりごとNo884「偉人の名言21」

pita1

ピタゴラス(紀元前582年~紀元前496年) 古代ギリシャの数学者
「ピタゴラスの定理」を発表された方です

pitagorasu

和尚のひとりごとNo881「一紙小消息24」

【原文】
頼みても頼むべきは、「乃至十念」の詞。
信じてもなお信ずべきは、「必得往生」の文なり。

【意味】
頼みとすべきは「たった十返でも称えれば」とのお言葉であり、
心より信頼すべきは「必ず往生することを得る」の一文なのです。