和尚のひとりごと「伝道掲示板532」
”あなたには悩みもなく
また喜びもないのですか?
あなたに不快なる思いがよぎることはないのですか?”
釈尊が天の子に答えて云く。
”わたくしは悩むこともなければ
また喜びもない
不快に襲われることもない。
悩みが生じるならば
その悩みを滅することにより喜びが生じる。
喜びが生じた者に
その喜びが滅したときに悩みが生じるからである。”
『相応部経典』天子相応より
和尚のひとりごとNo805「法然上人御法語後編第二十六」
仏神擁護(ぶっしんおうご)
【原文】
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を深(ふか)く信じて、念仏して往生(おうじょう)を願う人をば、弥陀仏(みだぶつ)より始め奉(たてまつ)りて、十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)・菩薩(ぼさつ)、観音(かんのん)・勢至(せいし)、無数(むしゅ)の菩薩、この人を囲繞(いにょう)して、行住座臥(ぎょうじゅうざが)、夜昼(よるひる)をも嫌わず、影(かげ)の如(ごと)くに添(そ)いて、諸々(もろもろ)の横悩(おうのう)をなす悪鬼(あっき)悪神(あくじん)の便(たよ)りを払(はら)い除き給(たま)いて、現世(げんぜ)には横(よこ)さまなる煩(わずらい)なく安穏(あんのん)にして、命終(みょうじゅう)の時(とき)は極楽世界(ごくらくせかい)へ迎(むか)え給(たま)うなり。
されば、念仏を信じて往生(おうじょう)を願う人は、ことさらに悪魔(あくま)を払(はら)わんために、万(よろず)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈りをもし、慎しみをもする事(こと)は、なじかはあるべき。況(いわん)や、「仏(ほとけ)に帰(き)し、法(ほう)に帰し、僧(そう)に帰する人には、一切の神王(しんのう)、恒沙(ごうじゃ)の鬼神(きじん)を眷属(けんぞく)として、常(つね)にこの人を護(まも)り給(たま)う」と云(い)えり。
然(しか)れば、かくの如(ごと)きの諸仏・諸神(しょしん)、囲繞(いにょう)して護り給(たま)わん上(うえ)は、またいずれの仏(ほとけ)・神(かみ)かありて、悩まし妨(さまた)ぐる事(こと)あらん。
浄土宗略抄
【ことばの説明】
仏神擁護(ぶっしんおうご)
仏や神々による守護。
観音(かんのん)・勢至(せいし)
観音の原語アヴァローキテーシュヴァラは主に二通りに解釈される。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と訳される場合は衆生の声を聴く菩薩の意味。観自在菩薩(かんじざいぼさつ)と訳される場合は、観察することに自在なる菩薩の意味。阿弥陀仏の眷属(仕える者)としては、とりわけ慈悲に優れた菩薩。
勢至(マハースターマプラープタ)は絶大な力を獲得した菩薩、またその力を得せしめる菩薩の意。その智慧はあまねく一切に及ぶと言われ、阿弥陀仏の眷属としては優れた智慧を象徴する。
悪魔(あくま)
悪魔は本来、仏教に由来する言葉で、仏道を妨げる存在を指す。釈迦の成道を妨げんとしたマーラ(魔羅)に同じ。
鬼神(きじん)
人知を超えた超自然的存在。人に災いをもたらすこともあれば、幸いをもたらすこともある。
眷属(けんぞく
本来は一族、仏教では仏につき従う脇侍のこと。
【訳文】
阿弥陀仏の本願を信受して、念仏によって往生を願う人を、阿弥陀仏を始めとした全世界の諸々の仏や菩薩、また観音・勢至の両菩薩、そして数え切れないほどの菩薩たちがぐるりと囲み、平生においては昼夜を問わずに寄り添い、様々な悩みをもたらす悪しき存在による働きかけを払い除き、この現世においては不当なわずらいもなく平穏無事に、また命終わるときには極楽世界へと迎えて下さるのです。
ですから念仏を信じて往生を願う人は、悪魔を追い払おうとしてことさらに萬の仏や神々に祈願したり、物忌をすることなどどうして必要でありましょうか。ましてやこのように説かれています。
「仏に帰依し、教えに帰依し、僧伽に帰依する人に対しては、すべての神王が数限りない鬼神を眷属として従えて常にこの人を守護して下さる」
そのようなわけで、このような諸々の仏、神々が取り囲んで守護して下さるからには、これ以上どのような仏や神があって悩まさることがありましょうか。
臨終においては来迎が確かなものとなり、平生、日々の生活においては仏・菩薩の守護がある。念仏の功徳、まさにかくの如きものであるという元祖の有り難いお言葉です。日々、お念仏の道に精進して参りたいと思います。
和尚のひとりごと「伝道掲示板529」
世尊カッサパは言った。
”生き物を殺すこと、殴る、切る、縛る、盗む、嘘をつく
裏切る、騙す、益のない学問を学ぶ、他人の妻と通ずること
これらが生ぐさである。肉を食するのが生ぐさなのではない。
欲しいものがあるといても立ってもおられず、美味に目がなく
汚らわしき生活を交え、行為の報いなどないと豪語し
平静さを失って、なおかつ頑迷なる人々
これらが生ぐさである。肉を食するのが生ぐさなのではない。
自暴自棄であり、残酷であり、人前ではへつらいを見せ
陰では悪口を言う
友を裏切り、無慈悲で傲慢であり、けちで他に与えぬ人々
これらが生ぐさである。肉を食するのが生ぐさなのではない。”
『スッタニパータ』より
和尚のひとりごと「伝道掲示板528」
”どこにあろうとも、汝に恐怖が起こったならば
身に戦慄が走ったならば、身の毛もよだつ思いをしたならば
我を憶念せよ
釈迦族より出た尊き師は敬われるべき人であり
完全なる悟りを開いた人であり
ブッダとなられた人であると
そうすれば恐怖が起ころうとも
戦慄が走ろうとも、身の毛もよだつ思いが過ぎろうとも
それらは取り除かれるであろう。
もし我を憶念できないならば
法を憶念せよ
法は師によりて善く説かれしものであるから
もし法も憶念できないならば
尊き修行者たちの集いを憶念せよ
もし汝が「僧」を憶念するならば
恐怖が起ころうとも
戦慄が走ろうとも、身の毛もよだつ思いが過ぎろうとも
それらは取り除かれるであろう。”
『相応部経典』帝釈相応より
和尚のひとりごと「伝道掲示板526」
”自己を抑制して悪を作さず、若き時分も中年になっても、聖者は自己を抑制することに変わりない。
彼は他に悩まされることはない。
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
他者から施されたものによって生活し、器の上部、真ん中、また下に残った食物のいずれを得ても
施した者を褒めず、貶めず、罵らない。
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
淫欲を断ち、いかなるうら若き妙齢の女性にも心惹かれず
傲り、怠りを離れて、束縛より脱している者
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。
この世の中を理解して、最上の真理を見て、激流を超えて大海原を渡りきったかくの如き人
束縛を破り、依存を離れ、煩悩の汚れなき人
諸々の賢者たちは、彼こそが聖者であると知っている。”
『スッタニパータ』より