和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文4

 【原文】
この外(ほか)に奥(おく)ふかき事(こと)を存(ぞん)ぜば、二尊(にそん)のあわれみにはずれ、本願(ほんがん)にもれ候(そうろ)うべし。

【意味】
もしこのこと以外に私が さらに奥深い真理があると知り
またさらなる教えの探究が必要であるなどと考えているならば
釈迦ならびに弥陀の二尊の慈悲の心から外れて
我々を救わんとする本願から漏れ出てしまうことになるでしょう。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文3

【原文】
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申(もう)すことの候(そうろう)は、皆(みな)決定(けつじょう)して南無阿弥佛(なむあみだぶつ)にて往生(おうじょう)するぞと思(おも)ううちにこもり候(そうろう)なり。

【意味】
ただし往生に必要だとされている「三種の心の持ち方」や「修行に対する四種の態度」については
南無阿弥陀佛と称えることによって往生は確実となると思う心の中に自ずと具わるものなのです。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文2

 【原文】
ただ往生(おうじょう)極楽(ごくらく)のためには、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と申(もう)して、うたがいなく往生(おうじょう)するぞと思(おも)い取(と)りて申(もう)す外(ほか)には別(べつ)の仔細(しさい)候(そうら)わず。

【意味】
ただ極楽世界に往生するためには 南無阿弥陀佛と声に出して称え
そのことにより必ず往生できるのだと確信した上で称える他には
とやかくと修行をしたり学問を極めたりする必要はありません。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文1

今回から「一枚起請文」 読んでいきます。

【原文】
唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達(ちしゃたち)の、沙汰(さた)し申(もう)さるる観念(かんねん)の念(ねん)にもあらず。また学問(がくもん)をして、念(ねん)のこころを悟(さと)りて申(もう)す念仏(ねんぶつ)にもあらず。

【意味】
私が説いてきた念仏は、古来より中国や我が国において
数多くの学者たちによって様々に見極められ見定められてきた
仏や浄土の姿を見奉ろうとする観念の念仏ではありません。
また学問を積んで念仏の意義を理解することで称えられる念仏でもありません。

和尚のひとりごと「正月

令和4年を迎えました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
さて正月はまず年初に各寺院で「修正会(しゅしょうえ)」が勤められ、その年の天下泰平ならびに人々の安寧が祈念されます。そして宗祖法然上人のご命日である1月25日(寺院により日程は前後しますが)には、「御忌大会」が厳修されます。
「修正会」の「修正」とは、正月に修される法要ということ、その起源ははるか古代中国にさかのぼり、我が国では称徳天皇の神護景雲2年(768年)、諸国の国分寺にて天下泰平・五穀豊穣を祈って営まれたのを嚆矢とし現在に至ります。
そして浄土宗の修正会にて必ず唱えられるのが『大無量寿経』の一節「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲(てんげわじゅん にちがつしょうみょう ふうういじ さいれいふき こくぶみんなん ひょうがむゆう しゅとっこうにん むしゅらいじょう)」であります。「目覚めたるブッダのいらっしゃる世界においては、平和で、太陽・月は世を明るく照らし、風雨も穏やかであり、災い・疫病も起こらず、国土は豊かで、兵力は必要とせず、徳が重んじられて人の道も尊重され、礼節も守られている」。
年始めの「修正会」においては、皆心を一つにしてこのような世界の実現を祈念いたします・
「御忌(ぎょき)」は元来、天皇や皇后といった身分の高い方々の忌日法要に対する名称でありましたが、大永三年(1523年)の詔勅(しょうちょく、みことのり)により、我が宗祖の年忌法要を「御忌」として勤めることが定められたと伝えられます。
「毎年正月、京畿の門葉を集め、一七(いちしち) 昼夜にわたって法然上人御忌をつとめ、はるかに教えの源をたずねよ」。この詔勅により、毎年1月18日よりご命日の25日まで7日間にわたり法要が営まれ、江戸時代になると幕府による外護のもと、全国の人々が参集するまことに盛大なものとなりました。
現在では総本山知恩院、ならびに大本山増上寺では春を迎えた4月に御忌大会が勤められています。
皆さまにとりましても、宗祖の御心そしてお念仏に御教えの有り難さを思い、お念仏の道にご精進いただくよき機会となりますことを心より祈念いたしております。
合掌

和尚のひとりごと「一枚起請文0」

浄土宗の朝夕のお勤めにおいて読誦される『一枚起請文』は、
元祖法然房源空上人がそのご臨終の床にあって、愛弟子の勢観房源智上人に託された御遺訓(遺戒)であるとされ、京都黒谷にある金戒光明寺には直筆と伝えられる「一枚起請文」が伝承されています。
成立は入寂直前の建暦二年(一二一二)正月もしくは、その前年の12月だといわれ、生前より説かれてきたお念仏の教えと実践の真髄がここに示されています。
念仏一行、ただそれだけとされれば、ここに様々な意味合いを読みとろうとするのが、私たち凡夫のならいであるかもしれません。事実、元祖上人の御心にそぐわない様々な”邪義(よこしまなる見解)”が主張されることもあったのでしょう。
しかしここではっきりと説示されているように、”たとえ釈尊の説かれた教えを悉く学びつくしたとしても、自分はいまだ愚かな者であると見定めて、ただひたすらに念仏すべきである”、これこそが元祖上人が弥陀の化身と仰ぐ中国の善導大師より受け継いだ教えであり、仏の大慈悲にかなうお念仏であります。
「和尚のひとりごと」では、一枚起請文をわけて見ていきたいと思います。

合掌

<

和尚のひとりごと「伝道掲示板546」

20220113

世尊よ、悪魔とはいったいどのような存在でしょうか?

”我々の肉体を見よ。
肉体は我々を妨害し、惑乱し、ついには不安の底に突き落とす。
この肉体こそが悪魔である。

また我々の感覚を見よ。
これもまた我々を妨害し、惑乱し、ついには不安の底に突き落とす。
この肉体こそが悪魔である。

さらにまた我々の感情や意志や判断も同様であろう。
これらこそが悪魔なのである。”
『相応部経典』羅陀(らだ)相応より

和尚のひとりごと「伝道掲示板545」

20220112

我が身を律し、正しき生活をなし
すでに解脱をなしている者
心が寂静であり、尊敬すべき人に
どうして怒りが起こるか。
怒りに怒りをもって返す者は
それによって悪業を為していることになる。
反対に怒りに怒りをもって返さずば
勝ちがたき戦に勝利したことになる。

怒りに身を任せる者を目の前にしたとき
自らを制し、落ち着いておれば
そのことによりおのれのみならず相手をも利する行いを為すことになる。
『相応部経典』婆羅門相応より

和尚のひとりごと「伝道掲示板544」

20220111

アーナンダよ
今やわたくしは老いさらばえ、人生の旅路の果てにさしかかり
老齢となった。
もはや齢八十に達している。
老朽化した車は修繕を重ねることで
かろうじて動くようになる
わたくしの身体もまた然りである。
『大般涅槃経』より

和尚のひとりごとNo821「法然上人御法語後編第二十七」

仏神擁護(ぶっしんおうご)

【原文】
宿業(しゅくごう)限りありて受(う)くべからん病(やまい)は、いかなる諸(もろもろ)の仏(ほとけ)・神(かみ)に祈るとも、それによるまじき 事(こと)なり。祈るによりて病も止(や)み、命(いのち)も延(の)ぶる事あらば、誰(たれ)かは一人(いちにん)として病(や)み、死(し)ぬる人あらん。
況(いわん)やまた、仏(ほとけ)の御力(おんちから)は、念仏(ねんぶつ)を信(しん)ずる者(もの)をば、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と云(い)いて、宿業限ありて重く受くべき病を軽(かろ)く受けさせ給(たま)う。況や非業(ひごう)を払(はら)い給 (たま)わんこと、ましまさざらんや。
されば念仏を信ずる人は、たといいかなる病を受(う)くれども、「皆(みな)これ宿業なり。これよりも重(おも)くこそ受(う)くべきに、仏の御力(おんちから)にて、これほども受(う)くるなり」とこそは申(もう)すことなれ。
我等(われら)が悪業(あくごう)深重(じんじゅう)なるを滅(めっ)して極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)するほどの大事(だいじ)をすら遂(と)げさせ給(たま)う。まして此(こ)の世(よ)に、幾程(いくほど)ならぬ命(いのち)を延(の)べ、病を助(たす)くる力、ましまさざらんやと申(もう)す事なり。されば、「後生(ごしょう)を祈り、本願(ほんがん)を頼(たの)む心も薄(うす)きひとは、かくのごとく、囲繞(いにょう)にも護念(ごねん)にもあずかる事なし」とこそ善導(ぜんどう)は宣(のたま)いたれ。同じく念仏すとも、深く信(しん)を起して穢土(えど)を厭(いと)い、極楽を 欣(ねが)うべき事なり。

浄土宗略抄

koudai27


【ことばの説明】
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)
「重きを転じて軽く受く」と読み、仏によって本来受けるべき重い罪の果報が転換され、軽く受けさせるように仕向けて下さること。

宿業(しゅくごう)
現世において受けるべき報いの原因となった前世における行い(主に悪業)のこと。

非業(ひごう)
前世の行いが原因として特定できない報いのこと。

穢土(えど)
穢れに満ちた清らかならざるこの世界のこと。


【訳文】
前世の悪業の報いとして定まり、当然受けるべき病について、いかに神や仏に祈ったところで、その祈りが効果をあらわすことはないでしょう。もし祈ることで病が癒え、寿命が延びることがあるならば、誰一人として病に犯され、死んでいく人はいなくなるでありましょう。
もちろん、また仏のお力は、念仏を信じる者については「重きを転じて軽く受く」といって、本来前世に作した悪業の報いとして定まっているはずの病を、軽く受けさせるようにしてくださいます。ましてや前世の悪業によらないいわれなき災いに関しては、なおさら防ぎ払ってくださらないことなどありましょうか。
したがって念仏を信じる者は、たとえその身でいかなる病を受けることになろうとも、「皆これは私の身がかつて行った行為の報いなのである。これよりももっと重く重く受けるはずだったが、仏さまのお力によってこの程度で済んでいるのだ」と考えるべきなのです。
私たちのかつての行いがまことに深く重く罪深いものであっても、それを消滅させて、極楽世界に往生させてくれるほどの大きな事を成し遂げて下さる、それが仏さまであります。ましてやこの世で、幾ほどかの寿命を延ばして、病を癒えさせることくらいの力が無いはずはないというものです。ですから「来世の安楽を願い、本願にたよる気持ちの薄い人は、このように、仏菩薩が我が身を包んで下さることもなく、その守護をこうむることもないのである」このように善導大師は仰られたのです。同じように念仏をするのでも、心より信心を起こし、汚れたこの世界を厭い、極楽世界を願うべきなのです。


仏の本願の御力を信ずる気持ち、それが強まれば強まるほど、我が身に降りかかる災いに対しての捉え方も変わってくるかも知れません。この御法語に示される元祖のお言葉をしっかりと受け止めたいと思います。