Monthly Archives: 5月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板331

『釈尊の言葉その28』

 

釈尊が語る。
”母よ。そなたは、「ジーヴァーよ!」と叫んで、林の中で泣き叫ぶ。
ウッビリーよ。そなた自身を知るのだ。
同じジーヴァーと呼ばれた八万四千人もの娘たちがこの火葬場で荼毘に付されたが
そなたが悼むのは、その中の誰であるのか?”

ウッビリーは答えた。
“ああ、あなた様は、私の胸に突き刺さっていた見定めがたい矢を抜いて下さいました。
あなた様は、深い悲しみに打ちひしがれている私から、我が子を失った悲しみをより除いて下さいました。

今や私は、矢を抜き取られ、囚われの心無き者となり、安らぎを得ました。
私は聖者であるブッダと、その真理の教えと、修行者たちの集いに帰依致します。”

長老尼偈(テーリーガーター)は、釈迦に導かれた女性の修行者たちの言葉を集めたもの。
釈尊は子供の死を悼む者に対して、教えを説くのではなく、自ら覚らせる方法をとった。

 合掌

和尚のひとりごとNo576「法然上人御法語後編第十一」

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廻向発願心(えこうほつがんじん)
【原文】
 廻向発願心(えこうほつがんじん)というは、過去および今生(こんじょう)の、身口意業(しんくいごう)に修する所の、一切の善根(ぜんごん)を、真実の心をもて極楽に廻向して、往生を欣求(ごんぐ)するなり。これを廻向発願心と名づく。この三心を具しぬれば、必ず往生するなり。
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廻向発願心(えこうほつがんじん、又はえこうほつがんしん)
三心のひとつ。
自分自身が過去世より今までに為してきた全ての善き行い(善根)と、他者が為してきた善き行いを褒め称える心の全てを、三心の他の二心である「至誠心(誠の心)と「深信」(深く信ずる心)とに回向して往生を願うこと。
『観経疏』に説示された善導大師による廻向発願心のこの解釈を、法然上人はそのまま受け継がれた。
回向(廻向、パリナーマ)とは方向を転じて差し向けるが原意。
行い(業、カルマ)には必ず相応の報いがあり(因果応報)、自ら為した行いの報いは自身が受け取る事(自業自得)が原則である。たとえば善き行いは安楽をもたらし、反対に悪しき行いは苦悩をもたらす(善因楽果、悪因苦果)。しかしながら善き行いについては、その功徳を他者に振り向けたり、特定の目的の為に役立てることが出来ると考える。これが回向となる。

今生(こんじょう)
三世(三際、さんざい)の一つで、現世のこと。「世」は時間を意味し今現に生きている時間を今生と呼ぶ。

欣求(ごんぐ)
悦び願い求めること。



廻向発願心(えこうほつがんじん)というのは、過去世ならびに現在世において、身・口・意の三業によって為してきた全ての善き行いを、誠の心をもって極楽(浄土への往生)に向けて振り向けて、往生を心より願い求めることであります。これこそを廻向発願心と名づけます。(以上述べてきた)これらの三心を具えれば、必ず往生する事がきるのです。


生きる上で為してきた、そしてこれからも為していくであろうさまざまな行い、中でも善き行い(善根)を念仏往生の為に振り向けることができる。それら全てを、極楽往生に向けた意義深い業とすることができる、そのように拝受致したいと思います。

和尚のひとりごと「伝道掲示板330

『釈尊の言葉その27』

”釈尊が拘薩羅(コーサラ)国王に仰った。
日常の政務に忙殺されている場合ではない。
東西南北の四方から巨大な山がこちらに向かって迫ってくる。
まさに世の終わりが来んとしているのである。
もしそのようなときが来たら、そなたは何をするのか?

国王が答えて云わく
そのような時には
ただ残り少ない生命ある限りに
善き行いをして、功徳を積むよりほかにないでしょう。

釈尊云わく
その通りである。
王よ、今まさにそなたに老いと死の危機が迫り来たっているのだ。
そのような事態においてこそ為すべき事柄をなせ。”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板329

『釈尊の言葉その25』

”究極の道理を心得えた者は
有能であり、率直であり、正しく
言葉は柔和であり、高慢の心を離れており
足ることを知り、わずかな食物で生活し
雑事に関わることなく、質素な暮らしに徹し
全ての感覚器官が静まり、聡明であり
謙虚であり、他人の家で貪ることがなく
他の識者たちから非難されるような行為をせず
他人を欺かず、軽んじず、
敵意をもって他人に苦痛を与えるようなこともなく
あたかも母が己のたった独りの子供を生命をかけて守ろうとするように
あらゆる生きとし生けるものどもに無量の慈悲の心を起こし
全世界に対して、無量の慈悲の心を起こす。
そのようにあらねばならない。”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板328

『釈尊の言葉その24』

釈尊はある居士(在家信者)に次のように教え諭した。

”居士よ
欲望は干し草でできた松明に似ている。
その松明を手に、風に向かって進もうとするが如くである。
居士よ、そなたはどのように思うだろうか?
もしその者が速やかに火がついた松明を手放さないならば
やがてその火が彼の手を焼き、腕を焼き
ついには身体そのものを焼くことになるだろう。
そして死の苦しみを味わうことになる。
だからこそそなたは、世俗的な利得への執着を離れ
それを滅ぼさなければならないのである。”

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板327

『釈尊の言葉その23』

天の子が釈尊に問いかけて云わく
「何をやめれば安らかに暮らせるでしょうか?
何をなくせば悩まずに済みますでしょうか?」

釈尊がこれに答えて曰く
「怒りをやめることによって
人は安らかに暮らせる。
怒りをなくせば、悩むこともなくなる。
怒りの根は毒を含み
またその果実は甘美である。
だからこそ怒りを滅することを
聖者たちは讃えるのだ。」

 合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板326

『釈尊の言葉その22』

”臆面もなく
「われは(汝の)友である」と口では言いながら
してやれる事さえ、実行しない人
こういう人は「われの友ではない」と心得るべきである。

あるいは、上っ面の言葉だけで甘いことを言う人
こういう人は「口先だけで実行の伴わない人」と賢者たちは見抜いている。

友和が破れる事恐れ、甘い言葉しか投げかけず
ただ友人の至らぬ点ばかりを気にするような人
このような人は友とは言えない。”

合掌

和尚のひとりごと「五月五日は子供の日」

本日、五月五日は「子どもの日」として知られていますが、もともとは「端午の節句」と呼ばれていました。「端午(たんご)」とは月のはじめの午(うま)の日の事で、旧暦五月の最初の午(うま)の日に行われていた行事でした。ところで「午(うま)」の字は「ご」とも読める事から、五月五日になったと言われています。
さてこの「端午の節句」のそもそものいわれは、今から約2300年前、中国の楚(そ)の国王の側近であった屈原(くつげん)の故事にさかのぼります。人望もあり祖国を思う気持ちの強かった屈原でしたが、陰謀によりその地位を追われ失脚の憂き目にあいました。そして絶望の末に汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。屈原を慕った人々は、屈原の死体が魚に食べられないようにと、小舟に乗り、太鼓を打って魚をおどし、さらに粽(ちまき)を投げ込んだといいます。
これが現在でも祝い事に欠かせないとされている粽の起源となります。また中国のボートレースであるドラゴンレースもここに由来するそうです。
その後も、毎年屈原の命日に供養祭を行い、厄難除けや無病息災を祈る行事へと発展していきました。
この行事が我が国に伝わったのは、盛んに大陸の文化を取り入れていた奈良時代のことで、5月の厄除けの行事として定着し、やがて武家社会の台頭とともに、勇壮なる男子の理想のイメージが込められてきます。五月人形を飾り、男子の健康を願う現在の「端午の節句」の原型です。
ところでこの季節に町を彩る鯉のぼりは、池や沼などでも生きていける生命力の強い魚として知られている鯉が、天高く昇っていく姿を表します。これは黄河の急流を登り切った鯉がついに竜となるという伝説に基づいています。『後漢書』に出る「登龍門(とうりゅうもん)」という言葉はここに由来しています。
また菖蒲湯に浴し、その厄除け・魔除けの効果にあやかろうとしたり、葉が落ちないと考えられた柏の葉に包んだ餅(柏餅)を食うことも、健康や無病息災を願う気持ちのあらわれでありました。
風にたなびく鯉のぼりの姿には、子供がすこやかに育ち、天高く駆けのぼるように立身出世を目指してほしい、今も昔も変わらぬ親の願いが込められているように思えてなりません。

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和尚のひとりごと「伝道掲示板325

『釈尊の言葉その21』

釈尊があるときに仰った。
”一番大きな足跡を残す象にかなう者はいない。
諸々の歩行者の足跡も、全てここに含まれてしまうほどである。
同様に、あらゆる修行の道は、
不放逸であること、努め励むことにを根本とする。
不放逸こそが最大の道である”と。

合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板324

『釈尊の言葉その20』

田を耕すバーラドヴァーシャというバラモンが釈尊に言った。
「道の人よ。わたしは耕して種を播く。そのようにして生活の糧を得ている。
そなたも田を耕してから、食べたらどうだ」
釈尊は答えて仰った。
「バラモンよ、私もまた田を耕している。
信仰がその種であり、苦行が雨、智慧が軛(くびき)と鋤(すき)である。
慚(行為を恥じ入ること)が鋤棒(すきぼう)であり、心が縄である。

心を落ち着かせることが鋤先(すきさき)と鞭(むち)とである。
身を慎んで、言葉に気をつけ、節制して過食しない。
そして真実を守ることをもって、草を刈っている。
このようにして耕作を行い、それが甘露の実り(涅槃)をもたらし
あらゆる苦悩から解き放たれることにつながるのである。」

これを聴いたバーラドヴァーシャは
大きな青銅の鉢に乳粥(ちちがゆ)を盛り、捧げた。
しかし釈尊はそれを受け取らずに仰った。
「詩を唱えた報酬として得たものを食してはならない。
これが目覚めた人のならわしである。
その粥は青草の少ない場所か、あるいは生物のいない水中へでも沈めるがよかろう。」

水の中に投げ棄てられた粥は、あたかも熱した鉄製の鋤先を水につけた時のような音を発し、煙を出して沈んでいったという。

合掌