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和尚のひとりごとNo637「法然上人御法語後編第十五」
日課(にっか)
【原文】
毎日の所作(しょさ)に、六万十万(ろくまんじゅうまん)の数遍(すへん)を、念珠(ねんじゅ)を繰(く)りて申し候(そうら)わんと、二万三万(にまんさんまん)を、念珠を確かに一つずつ申し候わんと、いずれかよく候(そうろ)うべき。
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。
百四十五箇条問答より
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。
百四十五箇条問答より
【語句の説明】
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。
所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。
数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。
如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。
懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。
【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?
答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。
ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。
所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。
数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。
如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。
懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。
【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?
答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。
ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌
和尚のひとりごと「伝道掲示板376」
ここに長い旅路を続ける人がいる。
彼の目前に河が現れ、道が阻まれたとしよう。
河の此岸は危険極まりない道であり、彼岸は安全に思える。
彼は筏によって向こう岸に無事渡り終えることができた。
そこで彼はこのように思案した。
「この筏のおかげで私は安全なこちら岸に渡り着くことができた。
この大層、役に立った筏を
これからも担ぎ持って行こう」と。
果たしてこの者は、筏に対して
為すべき行為を為しているであろうか?
目的が果たされたならば、もはやその筏は置いていくべきものであろう。
教えも同様である。
いかに勝れた教えであろうとも、所期の目的が果たされたならば執着せずに捨ておくべきものとなる。
ましてや悪しき教えについてはなおさらである。