Monthly Archives: 7月 2021

和尚のひとりごと「伝道掲示板384

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”比丘らよ、このガンジス川の処々に水の流れが渦まく姿があるだろう。
しかしよく観察してみるとよい。
何処にも渦巻そのものは存せず
渦巻の本質と呼べるものも存在しない。
人もまたかくの如く
絶えず変遷し、ひと時も同じ姿を保っていないのである。”
『相応部経典』蘊相応より

和尚のひとりごとNo637「法然上人御法語後編第十五」

日課(にっか)
【原文】
毎日の所作(しょさ)に、六万十万(ろくまんじゅうまん)の数遍(すへん)を、念珠(ねんじゅ)を繰(く)りて申し候(そうら)わんと、二万三万(にまんさんまん)を、念珠を確かに一つずつ申し候わんと、いずれかよく候(そうろ)うべき。
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。

百四十五箇条問答より
koudai15
【語句の説明】
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。

所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。

数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。

如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。

懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。


【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?

答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。


ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌

和尚のひとりごと「伝道掲示板383

jyasuminn

”比丘らよ
汝らは貪りと怒りを捨て去れ
あたかもジャスミンの花が
惜しげもなく自らの花びらを次から次へと落としていくように”

和尚のひとりごと「伝道掲示板382

zangenonenn

酒に溺れていた生活を反省し
ある老人が釈尊のもとを訪ねた。
数多くの罪業の報いに怖れ慄きながら。
釈尊は仰った。
”白象が引く五百台に積んだ薪を降ろし
これを焼き尽くすには何百台分の火種が必要だろうか?”

老人答えて云わく。
”ほんの僅かな火種さえあれば
火は燃え広がります。”

釈尊は真の懺悔の念があれば
積み重ねた罪業を消すに十分であることを示したのであった。

和尚のひとりごと「伝道掲示板381

kennjinn

”悪を為す人の特質とは何であるか?
罪の何たるかを知らず、止める事もせず
罪を行っている事を知らされるのを嫌がる事である。

では善を為す人の特質とは何であるか?
善と悪について知っており、もし悪だと分かれば即座に止め
罪を行っている事を知らされれば感謝する。

かくの如く、悪人と善人は異なっているのである。

愚かな人は、たとえ親切を示されても感謝する事をしない。
賢い人は、親切を示されれば感謝し、一切のものに対して感謝の念を絶やさない。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板380

ikiteiki

”バラモンよ
私には、全部で14頭いるはずの牛がいなくなり、とうとう六日目になってやっと見つかるといった悩みはない。
田に種を蒔いたが、育った菜種に満足がいかないとった悩みはない。
穀物の倉に鼠が入り、中身をすっかり食い尽くされたといった悩みはない。
放置された寝床に蚤や虱がわいて眠れないといった悩みはない。
七人娘が悉く連れ合いを亡くし、それぞれに息子たちがおり、将来を心配せねばならぬといった悩みはない。
妻が眠りの間に夫を足で蹴って寝付けないといった悩みはない。
早朝から借金取りに責め立てられる心配もない。
だからこそ私は幸せなのである。”

和尚のひとりごと「伝道掲示板379

kakusya

悟りを開いた者の容色の
明るく朗らかなることを見よ。
彼は過去の悲しみを想い返すこともなく
未来に思い煩うこともなく
およそ今考えるべきことにのみ目を向けているのである。

愚かなる人々を見よ。まるで刈り取られた葦のように萎れている・
それは過去の悲しみを想い返すしては打ちひしがれ
未来に思い煩っているが故である。
『相応部経典』諸天相応より

和尚のひとりごと「伝道掲示板378

subetre

”さあ、比丘たちよ
汝らに告げよう。
全ての事象は留まることなく過ぎ去ってゆく。
怠ることなく勤め励みなさい”

最後の言葉を残して
クシナガラの地にて釈尊は入滅された。

和尚のひとりごと「伝道掲示板377

mokuteki

人が樹々の芯を求めて林に踏み入るとき
枝葉を得たのみで満足するならば
これは愚かと言うべきである。

そなたたちは生老病死の苦しみと
心の憂いや苦悩を離れんが為に道を求めている。
それにも関わらず、ほんの僅かな名誉を人々から得たのみで
他よりも自らが優れていると驕り、他を謗るのは
あたかも芯を求めて枝葉で満足している
愚か者の如くである。

和尚のひとりごと「伝道掲示板376

kawawo

ここに長い旅路を続ける人がいる。
彼の目前に河が現れ、道が阻まれたとしよう。
河の此岸は危険極まりない道であり、彼岸は安全に思える。
彼は筏によって向こう岸に無事渡り終えることができた。
そこで彼はこのように思案した。
「この筏のおかげで私は安全なこちら岸に渡り着くことができた。
この大層、役に立った筏を
これからも担ぎ持って行こう」と。

果たしてこの者は、筏に対して
為すべき行為を為しているであろうか?

目的が果たされたならば、もはやその筏は置いていくべきものであろう。
教えも同様である。
いかに勝れた教えであろうとも、所期の目的が果たされたならば執着せずに捨ておくべきものとなる。
ましてや悪しき教えについてはなおさらである。