Monthly Archives: 1月 2022

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文6

【原文】
証(しょう)のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。

【意味】
以上述べたことに誤りなきことを証明するしるしとして
私は両手にて印を押します。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文5


【原文】
念仏を信(しん)ぜん人(ひと)は、たとい一代(いちだい)の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身(み)になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智(むち)のともがらに同(おな)じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏すべし。


【意味】
念仏を信じようとする者は たとえ釈尊が生涯にわたり説かれた教えをよく学んでいたとしても
自らを文字のひとつも理解しない愚か者であると受け止めて
まだ学びの浅い尼僧や仏道を始めたばかりの初学者たちと全く同じように
あたかも智者であるかのような振る舞いをせずに ただひたすらに念仏をするべきなのです。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文4

 【原文】
この外(ほか)に奥(おく)ふかき事(こと)を存(ぞん)ぜば、二尊(にそん)のあわれみにはずれ、本願(ほんがん)にもれ候(そうろ)うべし。

【意味】
もしこのこと以外に私が さらに奥深い真理があると知り
またさらなる教えの探究が必要であるなどと考えているならば
釈迦ならびに弥陀の二尊の慈悲の心から外れて
我々を救わんとする本願から漏れ出てしまうことになるでしょう。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文3

【原文】
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申(もう)すことの候(そうろう)は、皆(みな)決定(けつじょう)して南無阿弥佛(なむあみだぶつ)にて往生(おうじょう)するぞと思(おも)ううちにこもり候(そうろう)なり。

【意味】
ただし往生に必要だとされている「三種の心の持ち方」や「修行に対する四種の態度」については
南無阿弥陀佛と称えることによって往生は確実となると思う心の中に自ずと具わるものなのです。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文2

 【原文】
ただ往生(おうじょう)極楽(ごくらく)のためには、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と申(もう)して、うたがいなく往生(おうじょう)するぞと思(おも)い取(と)りて申(もう)す外(ほか)には別(べつ)の仔細(しさい)候(そうら)わず。

【意味】
ただ極楽世界に往生するためには 南無阿弥陀佛と声に出して称え
そのことにより必ず往生できるのだと確信した上で称える他には
とやかくと修行をしたり学問を極めたりする必要はありません。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文1

今回から「一枚起請文」 読んでいきます。

【原文】
唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達(ちしゃたち)の、沙汰(さた)し申(もう)さるる観念(かんねん)の念(ねん)にもあらず。また学問(がくもん)をして、念(ねん)のこころを悟(さと)りて申(もう)す念仏(ねんぶつ)にもあらず。

【意味】
私が説いてきた念仏は、古来より中国や我が国において
数多くの学者たちによって様々に見極められ見定められてきた
仏や浄土の姿を見奉ろうとする観念の念仏ではありません。
また学問を積んで念仏の意義を理解することで称えられる念仏でもありません。

和尚のひとりごと「正月

令和4年を迎えました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
さて正月はまず年初に各寺院で「修正会(しゅしょうえ)」が勤められ、その年の天下泰平ならびに人々の安寧が祈念されます。そして宗祖法然上人のご命日である1月25日(寺院により日程は前後しますが)には、「御忌大会」が厳修されます。
「修正会」の「修正」とは、正月に修される法要ということ、その起源ははるか古代中国にさかのぼり、我が国では称徳天皇の神護景雲2年(768年)、諸国の国分寺にて天下泰平・五穀豊穣を祈って営まれたのを嚆矢とし現在に至ります。
そして浄土宗の修正会にて必ず唱えられるのが『大無量寿経』の一節「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲(てんげわじゅん にちがつしょうみょう ふうういじ さいれいふき こくぶみんなん ひょうがむゆう しゅとっこうにん むしゅらいじょう)」であります。「目覚めたるブッダのいらっしゃる世界においては、平和で、太陽・月は世を明るく照らし、風雨も穏やかであり、災い・疫病も起こらず、国土は豊かで、兵力は必要とせず、徳が重んじられて人の道も尊重され、礼節も守られている」。
年始めの「修正会」においては、皆心を一つにしてこのような世界の実現を祈念いたします・
「御忌(ぎょき)」は元来、天皇や皇后といった身分の高い方々の忌日法要に対する名称でありましたが、大永三年(1523年)の詔勅(しょうちょく、みことのり)により、我が宗祖の年忌法要を「御忌」として勤めることが定められたと伝えられます。
「毎年正月、京畿の門葉を集め、一七(いちしち) 昼夜にわたって法然上人御忌をつとめ、はるかに教えの源をたずねよ」。この詔勅により、毎年1月18日よりご命日の25日まで7日間にわたり法要が営まれ、江戸時代になると幕府による外護のもと、全国の人々が参集するまことに盛大なものとなりました。
現在では総本山知恩院、ならびに大本山増上寺では春を迎えた4月に御忌大会が勤められています。
皆さまにとりましても、宗祖の御心そしてお念仏に御教えの有り難さを思い、お念仏の道にご精進いただくよき機会となりますことを心より祈念いたしております。
合掌

和尚のひとりごと「一枚起請文0」

浄土宗の朝夕のお勤めにおいて読誦される『一枚起請文』は、
元祖法然房源空上人がそのご臨終の床にあって、愛弟子の勢観房源智上人に託された御遺訓(遺戒)であるとされ、京都黒谷にある金戒光明寺には直筆と伝えられる「一枚起請文」が伝承されています。
成立は入寂直前の建暦二年(一二一二)正月もしくは、その前年の12月だといわれ、生前より説かれてきたお念仏の教えと実践の真髄がここに示されています。
念仏一行、ただそれだけとされれば、ここに様々な意味合いを読みとろうとするのが、私たち凡夫のならいであるかもしれません。事実、元祖上人の御心にそぐわない様々な”邪義(よこしまなる見解)”が主張されることもあったのでしょう。
しかしここではっきりと説示されているように、”たとえ釈尊の説かれた教えを悉く学びつくしたとしても、自分はいまだ愚かな者であると見定めて、ただひたすらに念仏すべきである”、これこそが元祖上人が弥陀の化身と仰ぐ中国の善導大師より受け継いだ教えであり、仏の大慈悲にかなうお念仏であります。
「和尚のひとりごと」では、一枚起請文をわけて見ていきたいと思います。

合掌

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和尚のひとりごと「伝道掲示板546」

20220113

世尊よ、悪魔とはいったいどのような存在でしょうか?

”我々の肉体を見よ。
肉体は我々を妨害し、惑乱し、ついには不安の底に突き落とす。
この肉体こそが悪魔である。

また我々の感覚を見よ。
これもまた我々を妨害し、惑乱し、ついには不安の底に突き落とす。
この肉体こそが悪魔である。

さらにまた我々の感情や意志や判断も同様であろう。
これらこそが悪魔なのである。”
『相応部経典』羅陀(らだ)相応より

和尚のひとりごと「伝道掲示板545」

20220112

我が身を律し、正しき生活をなし
すでに解脱をなしている者
心が寂静であり、尊敬すべき人に
どうして怒りが起こるか。
怒りに怒りをもって返す者は
それによって悪業を為していることになる。
反対に怒りに怒りをもって返さずば
勝ちがたき戦に勝利したことになる。

怒りに身を任せる者を目の前にしたとき
自らを制し、落ち着いておれば
そのことによりおのれのみならず相手をも利する行いを為すことになる。
『相応部経典』婆羅門相応より