御法語

和尚のひとりごとNo729「法然上人御法語後編第二十一」

随順仏教

「念仏して往生するに不足(ふそく)なし」と云(い)いて、悪業(あくごう)をも憚(はばか)らず、行(ぎょう)ずべき慈悲(じひ)をも行 (ぎょう)ぜず、念仏をも励(はげ)まさざらん事(こと)は、仏教の掟(おきて)に相違するなり。
譬(たと)えば、父母(ぶも) の慈悲(じひ)は、善(よ)き子をも悪(あ)しき子をも育(はぐく)めども、善き子をば悦(よろこ)び、悪しき子をば嘆(なげ)くがごとし。仏(ほとけ)は一切衆生 (いっさいしゅじょう)を哀(あわ)れみて、善きをも悪しきをも渡(わた)し給(たま)えども、善人(ぜんにん)を見ては悦び、悪人(あくにん)を見ては悲しみ給 (たま)えるなり。
善き地(じ)に善き種(たね)を蒔(ま)かんがごとし。かまえて善人にして、しかも念仏を修(しゅ)すべし。これを、真実(しん じつ)に仏教に随(したが)う者というなり。

『念佛往生義』より

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随順仏教(ずいじゅんぶっきょう)
仏の教えに素直に従うこと。通仏教的概念。

慈悲(じひ)
「慈」(Ⓢmaitrī)は、あたかも友人に対するように一切の有情に対して慈しみの情を持つこと、「悲」(Ⓢkaruṇā)とは、他者の悲しみを自らの悲しみであるかのように同情し共有すること。慈悲の心は仏・菩薩が衆生を憐れんで示すものであるだけではなく、仏の教えに随順せんとする仏弟子自身が保つべき心であるとされている。


「念仏するだけで往生できるのだからそれで十分ではないか」などと申して、ためらう事もなく悪い行ないをして、持つべき慈悲の心をも持とうとせず、なおかつ念仏さえもそれに励もうとしないのであれば、それは仏教の掟に反しているのです。
例えば父母が子供に示す慈しみの情は、善い子であろうと悪い子であろうと育みますが、善い子に対しては喜び、悪い子に対しては嘆くようなものです。仏は善い人間であろうと悪い人間であろうと、分け隔てなく救いへと導くとは言え、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しんでいるのです。
恵まれた土壌に上質な種を蒔くようなものです。よくよく心掛けて善人となって、それに加えて念仏を修めるべきです。これこそを誠に仏の教えに従う者と呼ぶのです。


善導大師は、一心に仏のお言葉を実践する者を真の仏弟子と呼ぶとされました。そして法然上人は、真の仏弟子とは善を心掛け、念仏を実践すべきであるとされています。このお言葉を諫めとして日々過ごしていきたいものです。

和尚のひとりごとNo714「法然上人御法語後編第二十」

行者存念(ぎょうじゃぞんねん)

ある時には世間の無常なる事を思いて、この世(よ)の幾程(いくほど)なき事を知れ。ある時には 仏(ほとけ)の本願(ほんがん)を思いて「必(かなら)ず迎(むか)え給(たま)え」と申(もう)せ。
ある時には人身(にんじん)の受け難(がた)き理(ことわり)を思いて、このたび虚(むな)しく止(や)まん事を悲(かな)しめ。「六道(ろくどう)を廻(めぐ)るに、人身を得(う)る事は、梵天(ぼんてん)より糸 (いと)を下(くだ)して、大海(だいかい)の底(そこ)なる針(はり)の穴を通(とお)さんがごとし」と云(い)えり。
ある時は「遭(あ)い難き仏法(ぶっぽう)に遭(あ)えり。 このたび出離(しゅっり)の業(ごう)を植(う)えずば、いつをか期(ご)すべき」と思うべきなり。ひとたび悪道(あくどう)に堕(だ)しぬれば、阿僧祇劫(あそうぎこう)を経(ふ)れども、三宝(さんぼう)の御名(みな)を聞かず。いかに況(いわん)や、深く信ずる事を得(え)んや。
ある時には、我が身(み)の宿善(しゅくぜん)を悦(よろこ)ぶべし。かしこきもいやしきも、人(ひと)多(おお)しといえども、仏法を信じ、浄土(じょ うど)を欣(ねが)う者は希(まれ)なり。信ずるまでこそ難(かた)からめ、謗(そし)り憎(にく)みて悪道の因(いん)をのみ造(つく)る。
然(しか)るにこれを信じ、これを貴(たっと)びて、仏(ほとけ)を頼(たの)み、往生(おうじょう)を志(こころざ)す。これ偏(ひとえ)に宿善(しゅくぜん)の然(しか)らしむるなり。ただ今生(こんじょう)の励(はげ)みにあらず。往生すべき期(とき)の至(いた)れる也(なり)と、頼(たの)もしく悦(よろこ)ぶべし。かようの事を、折(おり)に随(したが)い、事(こと)に依(よ)りて思(おも)うべきなり。
『十二箇条問答』

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行者存念(ぎょうじゃぞんねん)
念仏行者が心掛けるべき事。

阿僧祇劫(あそうぎこう)
”阿僧祇(あそうぎ)”は梵語”a-saṃkhya(アサンキャ)”の音写語で「数え切れない(無数)」の意。
”劫(こう)”は梵語”kalpa(カルパ)”の音写語で、インドで最も長い時間単位を表わす。
したがって阿僧祇劫は、とてつもない長い時間を意味する。

折に触れてこの世間が常ならざることを思い、この人生がさほどは長くはないことを弁えよ。
またある時には仏の本願を思って「必ず私を極楽へ迎え取って下さい」と申せ。
ある時には人として生を受けることが難しいという道理を思い、自分の人生が何の成果を生まずに意味もなく果てるかも知れぬと悲しめ。「六道の世界を輪廻転生していく中で、人の身を得るのは、天界のブラフマー神が大海原に向けて糸を垂らして、海底の針の穴に通そうとするようなものである」、このように説かれている。
またある時には「私は出遭い難い仏の教えにであえたのだ。この生涯において出離解脱の為の業(おこない)をしなければ、またいつの日にかそれを期待出来よう」と心に思うべきである。一度悪しき境涯に生まれ変わってしまえば、数え切れぬほどの長い時間を経ても、ついに仏法僧という三つの宝の名前を耳にする機会もないだろう。それであればそれらを深く信ずることなど出来ようか。
またある時には自ら行ってきたであろう善き行いを喜べ。この世には位の高い人たちもいれば、身分卑しき人たちもたくさんいるが、その中で仏の教えを信じ浄土を願う者はまれである。信じることは難しいとしても、かえってその教えを謗り憎んで悪しき境涯へ堕ちていく原因を造っている者たちは多い。
そうした中であるにも関わらず、汝は浄土の教えを信じて、これを尊び、彼の仏を頼んで、往生を志している。これはただただ前世において積み重ねてきた善き行いのおかげである。ただ今生における汝の努力だけの賜物ではない。今こそ、往生へと向かう機縁が巡ってきたのだ、そのように頼もしく思い喜ぶことだ。このように折に触れ、事柄に応じ、心に思うべきである。


”ある時には、我が身の宿善を悦ぶべし”
思い立ったその時に、浄土のみ教えとの出会いを心に思い喜べ。教えと出会えたことにより、既に救いへの道は開かれている。元祖上人のお言葉であります。

和尚のひとりごとNo699「法然上人御法語後編第十九」

孝養父母(きょうようぶも) 示或人詞

【原文】
孝養(きょうよう)の心(こころ)をもて母(ちちはは)を重(おも)くし思(おも)わん人は、まず阿弥陀仏(あみだほとけ)に預け参(まい)らすべし。我が身(み)の、人となりて往生を願い、念仏する事は、偏(ひとえ)に我が父母の養い立てたればこそあれ。わが念仏し候(そうろ)う功徳(くどく)をあわれみて、わが父母を極楽へお迎えさせおわしまして、罪をも滅(めっ)しましませと思(おも)わば、必ず必ず迎え取らせおわしまさんずるなり。

孝養父母
親孝行。

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【現代語訳】
両親に対する孝行の心をもって、父と母を大切に思う人は、阿弥陀仏にすべてお任せするべきです。私が人として生を受け成長でき、往生を願って念仏を申せるのも、ただ父母が私を育ててくれたが故有なのです。私が申す念仏の功徳をお喜び頂き、どうか父母を極楽へと迎えて、罪業を滅して下さいますように、そのように思うならば、仏が両親を迎え取って下さることは間違いありません。


世俗の恩愛を棄て悟りの境地へと進むこと、これが法然上人が勧める出世の孝養です。そして苦しみ多い世界から安楽なる西方浄土へ、自らのみならず父母をも迎え取って頂きたいと願うこと、これこそが未だ迷界にある私たちのできる最大の親孝行であります。

 

和尚のひとりごとNo683「法然上人御法語後編第十七」

深信因果(じんしんいんが)

十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念をとなえよ。四十八軽(しじゅうはちきょう)をまもりて四十八願(しじゅうはちがん)を頼むは、心に深く希(こいねが)う所なり。
おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)をたもちて浮嚢(ふのう)を守るがごとくにし、身(み)の威儀(いぎ)に油鉢(ゆはつ)をかたぶけずば、行として成就(じょうじゅ)せずという事なし。願として円満せずという事なし。
然(しか)るを我等(われら)、或(あるい)は四重(しじゅう)を犯し或(あるい)は十悪(じゅうあく)を行(ぎょう)ず。彼も犯し此(これ)も行ず。一人(いちにん)としてまことの戒行を具(ぐ)したる者はなし。
「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」は、三世(さんぜ)の諸仏の通戒(つうかい)なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報(ほう)を得(え)、悪(あく)を行(ぎょう)ずる者は悪道(あくどう)の果(か)を感(かん)ずという、この因果の道理を聞(き)けども聞(き)かざるがごとし。はじめて言うに能(あた)わず。
然れども、分(ぶん)に随(したが)いて悪業(あくごう)を止(とど)めよ。縁(えん)にふれて念仏を行じ、往生を期(ご)すべし。

勅伝第32巻

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【言葉の説明】
深信因果(じんしんいんが)
深く因果の道理を信じること。とりわけ善因楽果、悪因苦果の法則を深く信じること。

十重(じゅうじゅう)
十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)のこと。『梵網経』に出ており、十波羅提木叉(じゅうはらだいもくしゃ)、十波羅夷(じゅうはらい)とも。菩薩が守るべき十種類の戒。大乗菩薩は決して犯さざるべきものとされ、伝統部派の波羅提木叉の中の波羅夷罪に相当する。これは犯せば積み重ねた修行の成果は失われ、僧伽(教団)から追放される。
①殺(せつ)は有情を殺す事。②盗(とう)は盗む事。③婬(いん)は性交渉を持つ事。④妄語(もうご)は噓をつく事。⑤酤酒(こしゅ)は酒を売る事。⑥説四衆過(せつししゅ)は出家・在家を通じて仏教徒の犯した罪を吹聴する事。⑦自讃毀他(じさんきた)は自分を褒め、他人をけなす事。⑧慳惜加毀(けんじゃくかき)は物惜しみして他へ施さず、乞う者をけなす事。⑨瞋心不受悔(しんじんふじゅげ)は怒りのあまり他者からの謝罪を受け入れない事。⑩謗三宝(ほうさんぼう)は仏・法・僧の三宝をそしる事。これら10種を行わぬように心がけるのが十重禁戒。

四十八軽(しじゅうはちきょう)
上の同じく『梵網経』に説かれるが、こちらは犯しても罪を懺悔する事で滅罪が果たされる軽い罪を戒めた戒。

四重(しじゅう)
四つの波羅夷罪(はらいざい)の事。伝統的に波羅夷(pārājika、パーラージカ)には殺生・偸盗 ・邪淫・妄語の四つを数える。特にここでの妄語は、自ら覚っていないにも関わらず、阿羅漢になった、無上の正覚を得たと豪語する事を指す。これらを犯すと教団追放になる重罪である。

十悪(じゅうあく)
十種の悪行。殺生(せっしょう、殺す事)、偸盗(ちゅうとう、盗む事)、邪婬(じゃいん、不倫)、妄語(もうご、嘘をつく事)、両舌(りょうぜつ、仲たがいさせる言葉)、悪口(あっく、暴言)、綺語(きご、無意味な言葉)、貪欲(とんよく、貪り)、瞋恚(しんに、怒り)、邪見(じゃけん、因果の否定という見解)。

諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)
七仏通戒偈「諸悪莫作、衆(しゅ)善奉行、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」より。訳により「衆善奉行」の「衆」が「諸」となるが意味は同じ。「すべての悪を為すことなく、多くの善を実行せよ、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」の意。過去七仏の教えをまとめた戒の根本とされる。


【現代語訳】
およそどのような修行を専心に行なおうとするにしても、心に戒を保ち実践するには、あたかも水中でうきぶくろを守り手放さぬように心がけるべきであり、また身体の立ち居振る舞いについては、油を入れた鉢を持って一滴もこぼさずに進むように注意深くあるべきであり、そのように行って修行として成し遂げられぬことはなく、また願い叶わぬ筈がありません。
そうは言っても私たちは、時には四重(しじゅう)という思い罪を犯すばかりか、十悪(じゅうあく)という悪行さえも行います。あれも犯し、またこれも犯してしまう。実にただの一人も本当に戒を具足し実践できる者はありません。
ところで「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」(諸々の悪を為す事なく、諸々の善を行ぜよ)というのは、三世の諸仏が一貫して説かれた大切な戒であります。「善き行いを実践する者は安楽なる境涯という結果を受け、悪しき行いを実践する者は悩ましき境涯に堕ちるとい報いを得る」この因果応報のことわりを耳で聞いても、まるで聞いていないが如くであります。ここに改めて申し上げるようなことではありませんが。
このような中でも、今の能力や環境が許す範囲でも悪しき行いは止めなさい。そのご縁があるならば念仏を行い、往生への願いを起こしなさい。


ことは僧俗を問わない。
戒行は仏法を行ずる私たちにとりまことに大切なものであり、因果のことわりもまた同様である。たとえその通りに守れないとしても、出来る範囲で守り、念仏を称えよ、往生を願え。
力強い法然上人のお言葉です。

和尚のひとりごとNo668「法然上人御法語後編第十七」

百万遍(ひゃくまんべん)(『往生浄土用心』)

百万遍(ひゃくまんべん)の事(こと)。
仏(ほとけ)の願(がん)にては候(そうら)わねども、小阿弥陀経(しょうあみだきょう)に、「若(もし)は一日(いちにち)、若(もし)は二日(ににち)、乃至(ないし)七日(しちにち)、念仏申す人、極楽に生ずる」と説かれて候(そうら)えば、七日(しちにち)念仏申すべきにて候(そうろう)。
その七日のほどの数は、百万遍に当り候(そうろ)うよし、人師(にんじ)釈(しゃく)して候(そうら)えば、百万遍は、七日(なぬか)申すべきにて候(そうら)えども、堪え候(そうら)わざらん人は、八日(ようか)九日(ここのか)などにも申され候(そうら)えかし。
さればとて、百万遍申さざらん人の、生(う)まるまじきにては候(そうら)わず。一念十念(いちねんじゅうねん)にても生まれ候(そうろ)うなり。一念十念にてもうまれ候(そうろ)うほどの念仏と思い候(そうろ)ううれしさに、百万遍の功徳(くどく)を重(かさ)ぬるにて候(そうろ)うなり。

勅伝第23巻より

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【言葉の説明】
百万遍(ひゃくまんべん)
一〇〇万回の念仏を期間七日間または一〇日間と限って唱える事。そもそも数一〇〇万回の念仏は数珠繰りの起源となった『木槵子(もくげんし)経』に由来する。

仏(ほとけ)の願(がん)
『大無量寿経』に説かれた阿弥陀仏(法蔵菩薩)の四十八願。

人師(にんじ)
権威ある先人。ここでは道綽禅師を指し、史上初めて念仏の数量を問題にしたと伝えられる。、迦才『浄土論』によれば、道綽は『阿弥陀経』に基づいて一〇〇万回の念仏を創唱したという。


【現代語訳】
百万遍(百万回の念仏)についてお話します。
阿弥陀仏の四十八願で誓われたものではありませんが、『阿弥陀経』には「もし一日、または二日、あるいは七日に至るまで、念仏を称える人は極楽世界に生まれる」と説かれているように、七日間にわたって念仏を申すべきであります。
その七日にわたる念仏の数は(称えれば)百万回の念仏になると、先師は(この『阿弥陀経』について)注釈しておられますので、この百万回の念仏は七日間で称えるべきでありますが、もしそれが出来ない人は、八日、九日にも及んで(百万回に達するように)称えるようにして下さい。
そうは言っても、念仏が百万回に及ばない人には往生が叶わないという訳ではありません。一回や十回の念仏でも極楽に生まれるのであります。そのようにして一回や十回の念仏でも往生できる嬉しさのあまり、自ずと百万回の念仏の功徳を重ねることになるのであります。


念仏の尊さはその数にあるのではない。しかし数を重ねるごとに念仏による往生への確信は強まり、念仏の功徳も増すことでありましょう。念仏のみ教えに触れるご縁は人さまざまであれば、結べたご縁に基づいて、仏の言葉を信受し、念仏に励めばよい。法然上人の結論はやはりここにあると思います。

 

和尚のひとりごとNo652「法然上人御法語後編第十六」

念珠(ねんじゅ)

問う。念仏せんには、必ず念珠(ねんじゅ)を持たずとも苦(くる)しかるまじく候(そうろ)うか。
答(こた)う。必ず念珠を持つべきなり。世間の、歌を歌い、舞(まい)を舞うすらその拍子(ひょうし)に随(したが)うなり。念珠を博士(はかせ)にて舌(した)と手とを動かすなり。
但(ただ)し、無明(むみょう)を断(だん)ぜざらん者は、妄念(もうねん)起こるべし。世間の客(きゃく)と主(あるじ)とのごとし。念珠を
手に取る時は、「妄念の数を取らん」とは約束せず。「念仏の数取らん」とて、念仏の主を据(す)えつる上は、念仏は主、妄念は客なり。
さればとて、心の妄念を許されたるは過分(かぶん)の恩(おん)なり。それにあまっさえ、口(くち)に様々の雑言(ぞうごん)をして念珠を繰り越しなどする事、ゆゆしき僻事(ひがごと)なり。

東大寺十問答より

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【語句の説明】
念珠(ねんじゅ)
仏を念じる際に使用する数珠の意。数珠(アクシャ・マーラー)は元来、バラモン僧によって用いられ、のち仏教徒にも採用されたと言われ、数珠玉の数などについて経典に規定がある。
浄土宗では念仏の数を数える為に用いられる2連の日課数珠が一般的である。

博士(はかせ)
音の高さや旋律(メロディー)など伝統的な和楽を構成する要素の「基準」を示したもので西洋音楽の音符に相当する。

無明(むみょう)
迷いの根本である無知のこと。原語はアビドヤー(avidyā)で文字通り「明」が「無い」事を表わす。
諸説あるが、仏教の真理である四諦八正道などについて知らない事を意味していたという。

客(きゃく)と主(あるじ)
「主」とは主なもの、中心的なものであり、「客」とはそれに対して二次的な意味合いしか持たないもの、従属的な価値しか持たないものを意味している。

過分(かぶん)の恩(おん)
分に相応しない、通常の基準を遥かに超えた恩。

雑言(ぞうごん)
悪口。

僻事(ひがごと)
物事の道理に反した、間違った事。


【現代語訳】
お訊ねします。
念仏するにあたって、必ずしも念珠を携えなくとも、支障はございませんか?

答えよう。
必ず念珠を手にするべきであります。この世のならいでは、歌を歌い、舞を踊るときでさえ、決まった拍子に従って行うものです。(念仏をする時にも)念珠をとりどころとして舌と手とをともに動かして行うべきなのです。
そうは言っても、未だ無明を断じる事の出来ていない者は、(念珠を繰っていても)誤った心が沸き起こってくるに違いありません。これはあたかも世間でいうところの「客」と「主」のようなもので(誤った迷いの心は「客」に過ぎず、念仏の行為こそが「主」なので)す。ひとたび念珠を手にとれば、「誤った迷いの心を数えよう」などとは誓わないものです。「念仏の数を数えよう」と心を定めて、念仏を「主」とする以上は、念仏が主(あるじ)の如く中心的なものであり、誤った心は客(きゃく)の如く二次的な意味合いしか持たないものなのです。
そのように考えても、心の迷いを許されているという事は、仏による過分の恩であります。それにも関わらず、あるまじき事に、種々の悪しき事柄を口にしながら数珠を手繰っていくなどという事は、誠に道理に違えた事であります。


口に名号を称えていれば、たとえ心に妄念が起ころうとも、それは気に留めるべき事ではありません。念仏を行っている以上は、「念仏」が主であり悪しき心は客人(客塵)に過ぎないのでしょう。
念仏を相続する事の有難さがここにも示されていると感じます。
合掌

和尚のひとりごとNo637「法然上人御法語後編第十五」

日課(にっか)
【原文】
毎日の所作(しょさ)に、六万十万(ろくまんじゅうまん)の数遍(すへん)を、念珠(ねんじゅ)を繰(く)りて申し候(そうら)わんと、二万三万(にまんさんまん)を、念珠を確かに一つずつ申し候わんと、いずれかよく候(そうろ)うべき。
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。

百四十五箇条問答より
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【語句の説明】
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。

所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。

数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。

如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。

懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。


【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?

答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。


ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌

和尚のひとりごとNo622「法然上人御法語後編第十四」

四修(ししゅ)
【原文】
問う。信心(しんじん)の様(よう)は承(うけたまわ)りぬ。行(ぎょう)の次
第(しだい)、いかが候(そうろ)うべき。
答(こた)う。四修(ししゅ)をこそ本(ほん)とする事(こと)にて候(そうら)え。一つには長時修(じょうじしゅ)、乃至(ないし)、四(よ)つには無余修(むよしゅ)なり。
一つには長時修というは、善導は「命の終るを期(ご)として誓(ちか)って中止せざれ」と云う。
二つに恭敬修(くぎょうしゅ)というは、極楽の仏・法・僧宝(ぶっぽうそうぼう)に於(おい)て、常に憶念(おくねん)して尊重(そんじゅう)をなすなり。
三(み)つに無間修(むけんじゅ)というは、要決(ようけつ)に云(いわ)く、「常に念仏して往生の心を作(な)せ。一切の時に於(おい)て、心に恒(つね)に想い巧(たく)むべし」。
四(よ)つに無余修(むよしゅ)というは、要決に云く、「専(もは)ら極楽を求めて弥陀(みだ)を礼念(らいねん)するなり。ただ諸余(しょよ)の行業(ぎょうごう)を雑起(ざっき)せざれ。所作(しょさ)の業(ごう)は日別(にちべつ)に念仏すべし」。

要義問答より
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【語句の説明】
四修(ししゅ)
念仏実践に必要な四種の態度や方法。すなわち念仏実践の仕方を示したもの。
浄土宗では願往生者の心構えと具体的な実践について「安心・起行・作業(あんじん・きぎょう・さごう)」という形で概括している。「安心」とは浄土往生を求めるにあたり具えているべき三つの心(三心)であり、「起行」とはその安心に基づいて実践すべき行法(五種正行)であり、「四修」とはそれらの行法を日常生活において策励していく為の四種の態度である。

長時修(じょうじしゅ)
恭敬修、無間修、無余修を臨終の際に至るまで一生涯にわたって継続する事。

恭敬修(くぎょうしゅ)
敬い尊重する態度で実践する事。恭敬の対象は、極楽の阿弥陀仏ならびに菩薩や聖衆、阿弥陀仏の尊像や浄土を説く経典、浄土の教えを説く人々や共に教えを行する者たち、そして仏法僧の三宝であるとされる。

無間修(むけんじゅ)
あたかも遠い故郷の両親を片時も忘れないように、常に極楽への往生の想いを抱き、他の行法によって間断させない事。

無余修(むよしゅ)
専らに阿弥陀仏と西方浄土に関連する行のみを行い、他の行を顧みない事。

憶念(おくねん)
常に心に留め、忘れない事。

要決(ようけつ)
正式には『西方要決釈疑通規(さいほうようけつしゃくぎつうき)』。中国法相宗の祖である慈恩大姉基の撰とされる。西方浄土への往生を勧める為に、弥勒の兜率天との優劣や他の教義との相違などを横断的に注釈した書。


【現代語訳】
伺います。
信心の在り様については既に謹んで承りました。それでは行(おこない)の進め方についてはどのようにあるべきでしょうか?

答えよう。
それは四修を根本とするのです。それは第一の長時修より、第四の無余修に至るものです。
第一の長時修については、善導大師はこのように仰っています。
「命終わるその時まで、誓って中止せざること」。
第二の恭敬修とは、極楽世界にまします仏と教えと修行者の集いという三つの宝に対して、それを常に忘れず心に留め、尊重するように心がける事であります。
第三の無間修とは、『西方要決』によれば、「常に念仏をして往生を願う心を持て、あらゆる瞬間にそのことを心に想うように工夫をこらせ」とある通りです。
第四の無余修とは、『西方要決』によれば、「極楽を求めて阿弥陀仏に礼する心を専らとする事である。その他の種々の行法を交え行じてはならない。すべき事は、毎日のように念仏を行う事である」とある通りであります。

元祖上人の『一枚起請文』に示される如く、「浄土宗の安心、起行」を一言で表すならば「ただ一向に念仏すべし」。
そしてその実践において、心掛けるべき態度がここに示されている。
合掌

和尚のひとりごとNo607「法然上人御法語後編第十三」

無比法楽(むびほうらく) 勅伝第25巻
比べるものなき、仏の教えの有難さ
【原文】
一々(いちいち)の願の終わりに、「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」と誓(ちか)い給(たま)えり。然(しか)るに阿弥陀仏、仏になり給(たま)いてよりこのかた、すでに十劫(じっこう)を経(へ)給えり。当(まさ)に知るべし、誓願(せいがん)虚(むな)しからず。然(しか)れば、衆生(しゅじょう)の称念(しょうねん)する者、一人(いちにん)も虚しからず往生する事を得(う)。もし然(しか)らば、誰(たれ)か仏(ほとけ)に成り給える事を信ずべき。
三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)なりといえども、一念(いちねん)すればなお往生す。五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人なりといえども、十念(じゅうねん)すれば往生す。いかに況(いわん)や三宝(さんぼう)の世(よ)に生まれて五逆を造らざる我(われ)ら、弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えんに、往生疑うべからず。
今この願に遇(あ)える事は、実(まこと)にこれおぼろげの縁(えん)にあらず。よくよく悦(よろこ)び思(おぼ)しめすべし。たといまた遇(あ)うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給(たま)えり。往生疑い思(おぼ)しめすべからず。必ず必ず二心(ふたごころ)なく、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、このたび生死(しょうじ)を離れ、極楽に生(う)まれさせ給(たま)うべし。
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 無比法楽(むびほうらく)
「無比」は、他に比べるものがないほど、
「法楽」は、仏の教えを信受し、味わい、行ずることから生ずる楽しみのこと。

「若(も)し爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじ」
修行時代の阿弥陀仏である法蔵菩薩が、衆生救済の為に立てた四十八願のいちいちについて、もしその願が成就しなければ悟り開くまいと誓った事。


三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時(とき)
法滅に同じ。隋代の那連提耶舎(なれんだいやしゃ、ナレーンドラヤシャス)訳になる『大集経(だいじっきょう)』月蔵分(がつぞうぶん)などに説かれている法滅思想によれば、仏教は正法、像法、末法の三時を経て三宝の滅尽を迎え、仏教そのものが失われるという。それは

五逆(ごぎゃく)深重(じんじゅう)の人
五逆罪(五つの思い罪)のこと。『倶舎論』によれば、母を殺めること(殺母)、父を殺めること(殺父)、悟りを開いた仏弟子を殺めること(殺阿羅漢)、仏の身体を傷つけ出血させること(出仏身血)、修行者の和合を破ること(破和合僧)を指す。



(彼の阿弥陀如来がかつて因位の菩薩であった頃、衆生救済を目的とした四十八の誓願を誓われました)
その願のひとつひとつの最後にこう誓われています。
「もし私がこのように立てた願いが実現しないならば、正しい本当の覚りは開くまい」。
そして彼の阿弥陀仏は、正覚を得て仏陀となられてより、今既に十劫にも及ぶ長い年月が経っています。まさしく知るべきであります。彼の仏の誓願は中身の伴わない絵空事(えそらごと)ではないという事を。だからこそ衆生の中で、念仏を称える者は、一人残らず浄土への往生を得るのであります。もしそうでないとしたら、誰が彼の菩薩がすでに仏となったという事を信じられるでありましょうか?
仏教において尊重し護持すべき三つの宝が失われてしまう時勢でさえも、たった一度、念仏をすれば往生します。五つに数えられる大変重い罪を犯してしまう人でさえも、十回の念仏で往生を遂げます。ましてや仏教の三つの宝がいまだ存在する世界に生を受け、五つの重罪を犯すことのない私たちが、阿弥陀仏の御名を称えれば往生できるという事を、疑うべきではありません。
今まさにこの本願に出遭えた事は、誠にありきたりなご縁によるものではないのです。この事を心に刻み、悦びの念をお持ちなさい。そしてたとえ尊きご縁によりて本願に出遭えたとしても、もしそれを信ずる事がなければ、本願に出遭わないのと同じであります。今心からこの本願を信じているあなたは、ご自身の往生がかなう事に疑いの念を持ってはなりません。必ずこの本願に背く心を持つ事なく、よくよくお念仏を申しなさって、今生の生を最後として再び迷いの世に戻ることなきように、極楽浄土で新たな生命(いのち)を得て下さい。

三宝が確かにあり、尊き仏法へのご縁を結べる事自体が、有難きことである。ましてや阿弥陀仏の尊き本願に出遭えることが如何に得難き僥倖であるか。
改めてこのことに思いを馳せる時、誠の信心の大切さを実感するところであります。

和尚のひとりごとNo591「法然上人御法語後編第十二

【原文】
昔の太子(たいし)は、万里(ばんり)の波を凌(しの)ぎて龍王(りゅうおう)の如意宝珠(にょいほうじゅ)を得給(えたま)えり。
今の我らは、二河(にが)の水火(すいか)を分けて弥陀本願(みだほんがん)の宝珠を得たり。
彼は龍神(りゅうじん)の、悔いしがために奪われ、此(こ)れは異学異見(いがくいけん)のために奪わる。
彼は貝の殻をもて大海(だいかい)を汲(く)みしかば、六欲(ろくよく)・四禅(しぜん)の諸天(しょてん)、来(きた)りて同じく汲(く)みき。
此れは信(しん)の手(て)をもて疑謗(ぎぼう)の難(なん)を汲(く)まば、六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏、来(きた)りて与(くみ)し給(たま)うべし。

勅伝第32巻
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二河白道(にがびゃくどう)
善導大師が『観経疏』散善義中で、三心を釈するなかに説示された譬喩譚。
善根功徳を往生浄土へ回向することで必ず西方浄土への往生が叶う、そのことを譬えて次のように説かれる。
ここに西方に向かい百千里を歩まんとする往生人の前に、突如として南北に大河が現れる。南は炎燃え盛る火の河であり、北は波高き水の河であった。火焰と波浪が両側より襲うその真ん中に、わずか四、五寸ほどの幅の白道が西に向かって続いている。東の後方よりは賊徒や猛獣が向って来ている。いずれに進んでも、立ち止まっても死は逃れようがない状況であった。その時、東岸より西へ進むべしとの声があり、西岸からはこちらへ来いとの激励の声がした。あるいは背後の群賊からは戻ってくるようにとの誘惑の声がある。決然と西に進むとただちに西岸にたどり着くことが出来た。
さらに釈されるに、東岸は娑婆の火宅であり、西岸は阿弥陀仏の極楽浄土、そして群賊・悪獣は衆生の身体生存を、二河は貪愛(むさぼり・愛着)と瞋憎(怒り・憎しみ)を、さらに西岸に向かって進むことは善根回向して往生を願うことに、東岸の声は釈尊からの発遣(はっけん)、西岸からの声は阿弥陀仏からの招喚(しょうかん)に喩えられると言われる。
「発遣」は娑婆世界を厭い浄土への往生を目指すべく勧めること、「招喚」とは浄土から招き入れようとすることを意味している。
「二河白道」の譬喩譚自体は善導大師によって初めて説かれたものである。


”昔の太子は…”
出典は『賢愚経』で南方のパーリ聖典にも伝承されている。釈尊が三業の善悪(賢愚、けんぐ)とその果報について説いたもので、愚者は悪趣へ、賢者は天界へと転生する事が示されている。
ここで引用されている「大施抒海品」は、以下のようなあらすじを持つ。
波羅奈(バーラーナシー)国の大施太子は、貧者救済のため、修行を経て神通力により海中の龍宮に住む龍王より如意宝珠(一切の願いが意の如く叶う珠)を得た。ところが龍王の家臣である龍神はこれを惜しんで、如意宝珠を奪い返してしまう。太子は固き菩提への志をもとに、龍神より宝珠を取り返すべく、大海の水を全て飲み干すことを誓う。亀の甲羅(貝殻)にて飲み尽さんとしたところ、諸天が手を貸し大方の海水が汲み取られてしまう。龍王は慌てて宝珠を太子に返したという。


異学異見(いがくいけん)
異学・異見とはその学んできた内容やその結果身に付いた学識・見解が異なっていること。またそのような人士。仏教以外の学派などを指す場合と、仏教内部で立場を異にする学派や流派を指す場合とがある。
善導大師は「この心深く信ずること、なおし金剛のごとくにして、一切の異見、異学、別解、別行の人等(にんとう)に動乱破壊(どうらんはえ)せら」る事のない堅固なる決定深信の重要性を説く。


如意宝珠(にょいほうじゅ、チンターマニ)
チンターは「思考」、マニは「珠」、つまり思考の如くに願いを成就する珠という意味。願望の成就だけではなく、悪を除去し災厄を防ぐ功徳があるともされている。


六欲(ろくよく)
六欲天のことで、欲界に属する六つの天界とそこに住む神々の事を指す。
仏教では衆生が生死輪廻をくり返す世界を欲界・色界・無色界の三種の境涯(三界、さんがい)に分ける。これと六道との対応関係は、欲界に属するのが、地獄・餓鬼・畜生・人・天の五趣であり、色界・無色界には天のみが存する。また欲界の天を六欲天、色界の天を四禅天、無色界の天を四無色天と呼び、色界・無色界は深まりゆく禅定の境地も表している。
三界は煩悩に縛られ輪廻をくり返す場であるから、そこからの解脱が目指されている。

「六欲天」とは、欲界に属する三つの天である「四大王衆(しだいおうしゅ)天」「三十三天」「夜摩(やま)天」「覩史多(とした)天」「楽変化(らくへんげ)天」「他化自在(たけじざい)天」のこと。三界の天の中では比較的低位に位置づけられるが、このうち、四大王衆天は世界の中央にそびえる須弥山(スメール山)の中腹に、三十三天(忉利天、とうりてん)は須弥山の頂に住み、この二つを地居(じご)天(地に住む天)と呼ぶ。
また夜摩天以上は、空居(くうご)天と呼ばれ、須弥山の頂上のさらに上空の宮殿に住む。夜摩天は運命、死、冥界を司ることから閻魔の原型ともなった。覩史多天(または兜率天、とそつてん)は弥勒が存在する処で浄土と同一視される事もあった(弥勒浄土)。またこの弥勒菩薩が瑜伽行派の祖であるマイトレーヤ(弥勒)と同一視される信仰に基づき、同派の諸師(有名なところでは玄奘三蔵など)には兜率天への願生を願う者も多かった。楽変化天(または化楽天、けらくてん)では神々は自らの力で欲望の対象を出現させ、それを楽しむという。また欲界の最高位である他化自在天(または第六天)は他の神が出現させた欲望の対象において自在に楽しむとされている。


四禅(しぜん)の諸天(しょてん)
四禅天とは色界の諸天のこと。初禅から第四禅まで各々の禅定の境地に応じた楽があり、物質界の最上位である色究竟(しきくきょう)天(有頂天、うちょうてん)を含め、六欲天の上空に階層をなして住処をもつ神々がいるとされる。


疑謗(ぎぼう)
疑いの念を懐き、謗ること。


いにしえのインドはバーラーナシー国の大いなる施しを行うと呼ばれた太子は、海上遥かなる波濤を乗り越えた末、海中の龍王が所有する意のままに願望が成就する宝珠を手にしました。
現在の私たちは水・火の二つの大河に分け入って、ついに阿弥陀仏の本願という宝珠を得たのであります。
太子の宝珠は竜王の手下であった竜神たちがそれを惜しんだ為に奪われてしまいますが、私たちのこの仏の本願という宝珠は、修学・見解を(私たちの浄土の教えとは)異にする者たちによって奪われるのです。
太子が貝殻によって大海の水をすべて飲み干そうと志すと、六欲・四禅に属するたくさんの神々がそれを助け、ともに海水を汲み出しました。
(同じように)私たちがまことの信心の手によって、(学びや見解を異にする者たちからの浄土の教えに対する)疑いや謗りといった困難を汲み上げるなら、六方に存するガンジス河の砂粒ほどに数限りない仏たちが来て、私たちに味方してくれるでありましょう。


ここで引用されている「大施抒海品」は、『登山状(元久法語)』に引かれる話であり、この『登山状』は旧仏教勢力の専修念仏に対する厳しい弾圧に対して、それを和らげる為に著されたと言われています。
そして『観経疏』に示された二河白道の譬喩は、ひたすらなる浄土への願生心を白道に喩え、堅固なる信により必ず浄土に至ることが説かれています。そこには二尊による励ましの声があり、仏の本願によりて道が保証されている。そのことを改めて心に銘じて、念仏の御教えに邁進して参りたいと思います。