和尚のひとりごと「伝道掲示板386」
ビハールの一角にガンジスの支流のひとつバルガ川がある。
かつて尼連禅河(ナイランジャラー河)と呼ばれたこの川の畔の菩提樹の下で
釈尊は降魔成道を成し遂げ、覚った者となった。
釈尊は川を漕ぐ船頭の言葉により苦行から禅定へと歩みを変えたという。
もしそなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色はひびくだろうか?
否
もしそなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色はひびくだろうか?
否
もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎず、
丁度よいころ合いで張ってあったならば、琴の音色はひびくだろうか?
仏教の道は、苦行の果てに命終わることを理想とするジャイナ教とは異なり
感官を抑制せず、恣に進む道ともまた異なる。
禅定により万象の真実を見極める道である
和尚のひとりごと「伝道掲示板385」
かつて王舎城郊外に500人もの子供を持つハーリティー(鬼子母神)が住んだ。彼女は近隣の幼児を次々とさらい、食い殺していたため、大変恐れられていたという。
釈尊はその500人の子供たちの中で、ハーリティー最愛のプリヤンカラを神通力によって隠してしまった。見失った我が子を求め狂乱する彼女に釈尊が説いて云わく。
汝、500人の子供の中でたった一人を失った事で悲しみに暮れている。
では、たった一人の子供たちを失った世の親たちの事を思うがよい。
伝説によれば釈尊のこの説示によりハーリティーは仏の教えに帰依し、善神となったと伝えられる。
鬼子母神のこの説話は義浄三蔵のもたらした『根本説一切有部毘奈耶雑事』をはじめ、数々の書に伝えられ、北東インドより東南アジアの広きにわたって親しまれてきた。
和尚のひとりごとNo637「法然上人御法語後編第十五」
日課(にっか)
【原文】
毎日の所作(しょさ)に、六万十万(ろくまんじゅうまん)の数遍(すへん)を、念珠(ねんじゅ)を繰(く)りて申し候(そうら)わんと、二万三万(にまんさんまん)を、念珠を確かに一つずつ申し候わんと、いずれかよく候(そうろ)うべき。
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。
百四十五箇条問答より
答(こた)う。凡夫の習い、二万三万を当(あ)つとも、如法(にょほう)には適(かな)い難(がた)からん。ただ数遍の多(おお)からんには過(す)ぐべからず。名号(みょうごう)を相続せんためなり。必ずしも数を要(よう)とするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。数を定(さだ)めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧(すす)むるにて候(そうろう)。
百四十五箇条問答より
【語句の説明】
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。
所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。
数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。
如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。
懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。
【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?
答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。
ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌
日課
日々行うべき事として定める勤めの事。
所作
立ち居振る舞い、為すべき勤め。
数遍(すへん)
予め数を定めて行う念仏。念仏を行った回数。
如法(にょほう)
仏の定めた通りに、仏教の教えに準じた正しいやり方で。
懈怠(けだい)
怠り、怠ける事。『倶舎論』によればあらゆる悪心に伴う心の動きであるという。
【現代語訳】
日々のお勤めにおいて、六万十万にも及ぶ(数多くの)念仏を、数珠を手に唱える事と、(それより数は少ないが)二万三万の念仏を、数珠を一繰りづつ確かめながら唱える事とでは、どちらがよいのでしょうか?
答えよう。
凡夫は常にそうであるように、たとえ二万三万の念仏を定めて割り当てたとしても、教えに準じた正しい仕方で念仏を称える事は困難でありましょう。ともかくも念仏の回数は大いに越したことはないのです。それは仏の御名を唱える事を続ける為であります。必ずしも数が多ければよいという事ではありません。ただ常に念仏を唱え続ける為なのです。数を定めておく事をしないのは、もし数を定めなければ(如法に唱えられていないにも関わらず、止めてしまうという)怠け心の基となるからであり、数を定めた念仏をお勧めします。
ただ念仏を継続する事が大切であり、数珠を手繰るのも、数を定めるのも、全てこれが為の方便である。
如法の念仏、誠の心が伴った念仏、それは念仏をただ実直に唱え続ける事の中で培われる。
浄土宗の立場はかくの如くであります。
合掌