和尚のひとりごとNo850「一紙小消息9」

【原文】
罪は十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。
罪人なお生まる、況や善人をや。

【意味】
罪については、十悪や五逆の重罪を犯した者でさえも往生できるのだと信じながらも
私は些細な罪さえも犯すものか、と自らいさめるようにしなさい。
罪を犯してしまった人でさえも往生できるのです。
ましてや善い行いを心がける人については言うまでもありません。

 

和尚のひとりごとNo848「一紙小消息8」

【原文】
本願に乗ずることは、信心の深きによるべし。

受け難き人身を受けて、遇い難き本願に遇いて、発し難き道心を発して、
離れ難き輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。

【意味】
その本願に身を任せるということは
まさに信ずる心の深さによるものなのです。

今、得難い人としての境遇を受け、出遭い難い仏の本願の教えに出遭い
ついに仏の道を求める心を起こし、離れ難い生死輪廻の境涯から離れて
生まれ難い浄土に往生することができます。
これはまさしくこの上ない悦びなのです。

和尚のひとりごとNo846「一紙小消息7」

【原文】
今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、
願として成ぜずと云う事あるべからず。

【意味】
今、阿弥陀仏の本願に我が身を任せ、往生を願うならば
願いが叶わぬなどということは決してありません。

和尚のひとりごとNo844「偉人の名言1」

  今月から偉人の名言 格言などを紹介していきます。

この一文が皆さまの一助になれば、幸いです。

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聖徳太子(しょうとくたいし)(574年– 622年)・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)
飛鳥時代の皇族・政治家。
「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

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和尚のひとりごとNo843「今こそよく聴きよく遺す」

  お釈迦様の御弟子様の一人で多聞第一(たもんだいいち)と称された方が居られます。阿難(あなん)尊者(そんじゃ)と言われる弟子です。阿難はお釈迦様のお側に二十数年間付き従い、常に説法を聞いていたので多聞第一と呼ばれるようになりました。また記憶力にも優れ、今日読まれるお経は阿難が伝え聞いたものが多いとされています。お釈迦様が亡くなる時まで一緒に居られた阿難尊者は、師が亡き後、自分はどのように生き、何を頼りとしていけばいいのかを尋ねました。すると師匠であるお釈迦様は、「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」、「自らを灯火(ともしび)頼りとし、法を灯火、頼りとしなさい」と仰られました。このお言葉については様々な解釈がなされていますが、自分自身の信仰と御受け取りください。自分自身の信じる道をしっかりと歩み、仏法を信じて生きていくという事。浄土宗ではお念仏の御教えを頼りとして生き切ってくださいという事です。この世は思い通りにならない世間と受け入れたならば、あとは自分の心の内をしっかりと省みて、正しい教え信じる事が大事です。2022nigatu
 自分自身を信じる、自分の心の内を省みるとは、自分自身の至らなさ、愚かさを省みるという事です。信機(しんき)と言います。法然上人は、「始めには我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。」と、先ず始めには我が身の程、自分自身とはどの様な人間であるのか、その事を先ず始めに考え、省みて、それから仏の願、必ず救ってくださるという教えを信じなさいとお示しくださっております。
 何故、先に我が身の程を考えていく必要があるのか。それは我が身の程を知らずに、仏の願いを先に信じたならば、貪りや怒り、憎しみといったものが起きてきた時、自分は卑しい者だと思い、こんな私では到底救われないと仏の本願そのものを疑ってしまうからです。ですから、先ず初めに愚かな我が身である事を省みて、至らない自分の身の程を信じて参りましょうという事です。自分はこんな愚かな人間であるという事をしっかりと認め、受け入れてから、こんな愚かな自分だからこそ仏様に救いとって頂けるのです。阿弥陀様に救い取って頂くしかないのだという思いに至るという事であります。
 我が身の程を省みたならば、次に西方極楽浄土を信じ、阿弥陀様を信じ、お念仏を信じていく。その信仰、信心を持ってお念仏の行を怠らず日々精進していただき、阿弥陀様のお救いくださる力にただただ身を任せ、信仰が深まれば深まる程、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という謙虚な心にさせていただきたいものです。

和尚のひとりごとNo842「一紙小消息6」

【原文】
諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、
三念五念に至るまで、自ら来迎し給う故なり。
諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。

【意味】
様々いらっしゃる仏の中で、特に阿弥陀如来さまにおすがりする理由は
たった三回や五回のお念仏で迎えてくださるからです。
往生を目的とする様々な修行の中でも
特に念仏を用いる理由は、それが阿弥陀仏の本願によって誓われた行だからです。

和尚のひとりごとNo841「一紙小消息5」

【原文】
我が身わろしとても疑うべからず。
「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫なり」との宣えり。

十方に浄土多けれど、西方を願うは、
十悪五逆の衆生の生まるる故なり。

【意味】
自分が煩悩にまみれた至らぬ身であるからといって疑ってはなりません。
あの善導大師さえも「我こそ煩悩を備えた凡夫である」と仰っているくらいですから。

私たちのまわりには仏の世界が数え切れないほど存在していますが
中でも西方の極楽浄土を願う理由は
十悪や五逆といわれる重罪を犯した者でさえも往生できるからです