和尚のひとりごとNo840「一紙小消息4」

【原文】
時下れりとても疑うべからず。
法滅以後の衆生、なおもて往生すべし。況や近来をや。

【意味】
教えが説かれた時代よりはるかな時を隔てているとしても疑ってはなりません。
教えそのものが滅び去ってしまうのちの未来においてさえも往生できるのですから
今の時代の私たちにそれが叶わないことなどあるでしょうか。

和尚のひとりごとNo839「一紙小消息3」

【原文】
罪人なりとても疑うべからず。
「罪根深きをも嫌わじ」との宣えり。

【意味】
罪を犯した人であっても疑ってはなりません。
現に釈尊によって
「罪深くとも、分け隔てすることはない」と説かれている通りだからです。

和尚のひとりごとNo838「一紙小消息2」

【原文】
末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。
一念十念に足りぬべし。

【意味】
末法・末世に生きる者たちについて
極楽への往生を遂げられる資格(素質・能力)という観点から考えてみると
たとえ現に実践が少ないからといって、往生できることを疑ってはなりません。
ひとたびや十回のお念仏で既に十分だからです。

和尚のひとりごとNo837「一紙小消息1」

「一紙小消息(いっしこしょうそく)」は、法然上人に帰せられる数あるご法語の中では、「一枚起請文」とともにその名を知られ、また日々のお勤めにて拝読される機会の多いものです。その成立年代等について確かなことは分かりませんが、その教える内容より間違いなく元祖上人のお言葉であると信じられています。
近世までは「小消息」という名称が一般的であり、また「黒田の聖人へつかわす御文」と呼ばれることもありました。この「黒田の聖人」については定説はありませんが、念仏の教えに対して、また念仏の実践とその心構えについて、見識ある方であっただろうと推察できます。
このご法語の内容は、念仏による極楽への往生の教え、それは万人に当てはまる確実な教えであり、それを実現させる仏の本願に出会えた素晴らしさを感じ、感謝の気持ちをもって勇み念仏に励むべきことを説いたものです。
またこのご法語の引き合いに出されることがある浄土真宗の親鸞聖人の言葉に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)というものが残されていますが、その師であった法然上人によく似た「罪人なお生まるいわんや善人をや」(『一紙小消息』)との言葉があるのは興味深いことです。しかしながらその意とするところには違いがあり、法然上人によれば「罪を造った人でさえも往生できるのだから、ましてや善行を為す人が往生できないはずがあろうか」という意味になります。
浄土宗の教えの相伝である五重相伝の初重『往生記』にも引用されているように、後世にわたるまで重要視されてきたご法語であります。
釈迦仏そして諸仏の恩徳を謹んでこの身に受けながら、元祖法然上人がここに勧める道、お念仏による往生を信じながらも悪を作さず善を心がけ、確かなる安心へとつながっていく信仰の白道をこれからも歩んで参りたいものです。
合掌

和尚のひとりごとNo836「法然上人御法語後編第二十八」

順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)

【原文】
このたび輪廻(りんね)の絆(きずな)を離(はな)るる事(こと)、念仏に過(す)ぎたる事(こと)はあるべからず。この書(か)き置(お)きたるものを見て誹(そし)り謗(ほう)ぜん輩(ともがら)も、必(かなら)ず九品(くほん)の台(うてな)に縁(えん)を結び、互いに順逆(じゅんぎゃく)の縁(えん)虚(むな)しからずして、一仏(いちぶつ)浄土(じょうど)の友(とも)たらん。
抑(そもそも)機(き)をいえば五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)を簡(えら)ばず、女人(にょにん)・闡提(せんだい)をも捨てず。行(ぎょう)をいえば一念(いちねん)十念(じゅうねん)をもてす。これによりて五障(ごしょう)三従(さんじゅう)を恨(うら)むべからず。この願(がん)を頼(たの)み、この行(ぎょう)を励(はげ)むべきなり。
念仏の力(ちから)にあらずば、善人(ぜんにん)なお生まれ難(がた)し、況(いわん)や悪人(あくにん)をや。五念(ごねん)に五障(ごしょう)を消(け)し、三念(さんねん)に三従(さんじゅう)を滅(めっ)して、一念(いちねん)に臨終(りんじゅう)の来迎(らいこう)をこうぶらんと、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。時処(じしょ)諸縁(しょえん)に、この願(がん)を頼むべし。あなかしこ、あなかしこ。

念佛往生要義抄より

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【ことばの説明】
順逆二縁(じゅんぎゃくにえん)
仏法に対する順縁(じゅんえん)と逆縁(ぎゃくえん)とが共に仏縁となること。順縁においては友好的に仏教との縁が結ばれ、逆縁においては仏教を信ぜず教えを誹謗しようとも、逆にそれが仏縁となっていく様を表している。この場合は浄土の教えに対するそれぞれの関係が結局は往生への機縁となることをいっている。

九品(くほん)の台(うてな)
九品蓮台(くほんれんだい)とも。極楽浄土に往生する際に、その者の能力に応じて化生する蓮の台が異なっている。それに九段階(九品)数えられることをいう。

五逆(ごぎゃく)重罪(じゅうざい)
五つ数えられる重罪のこと。一つに母を殺す、二つに父を殺す、三つに悟りに達した阿羅漢を殺す、四つに悪意をもって悟りを開いた仏を傷つける、五つに修行僧たちの和合を乱すこと。これらを犯せば死後ただちに無間地獄へと堕ちると説かれた。

闡提(せんだい)
梵語(イッチャンティカ icchantika)の音訳で詳しくは一闡提(いっせんだい)。強欲のあまり悟りを開く一切の要因
を持たない者を指す。

五障(ごしょう)三従(さんじゅう)
「五障」とは五つの障害のことで、女性が神々の長である梵天をはじめ、帝釈天、魔王、転輪聖王(てんりんじょうおう、全世界を統べる王)そして仏とはなれないことをいう。
「三従」とは、女性が結婚するまでは父に従い、婚姻後は夫に従い、その死後には息子に従うべきことをいう。


【訳文】
この身を最後に生死輪廻の束縛から離れる事に関して言えば、念仏より勝れた方法はありません。ここに私が書きおいたものを見て、謗り攻撃するような者であっても、必ず浄土の九品の蓮の台との縁を結び、己が信ずるとこと相異なる信心の者たちもそれぞれに仏縁が実り、同じ仏の浄土にて友となるのです。
そもそも浄土に救われる人の能力を申し上げるならば、五逆の重罪を犯した人も分け隔てなく、女性や一闡提の人たちをも捨て去ることはありません。救われる人が行うべき修行としては、ひとたびの念仏ないし十回の念仏によるとされるのです。この事に拠って五障や三従の境遇を恨むべきでもありません。この仏の本願に頼り、この念仏の行を懸命に行うべきです。
念仏の力に拠らなければ、善人でさえ往生は難しいのです。ましてや悪人については申すまでもありません。この五遍の念仏によって五障を消し、三遍の念仏で三従を滅して、一遍の念仏によって臨終時の仏の来迎を蒙るのだと、普段の生活の隅々にわたり仏の名号を称えて下さい。時と場所を選ばず、様々な機縁をつかまえて、この本願を頼りとするのです。
あなかしこ、あなかしこ。

法然上人にはこのようなお言葉も残されています。
「仏は臨終の際には聖衆とともに必ず来迎し、悪業としてそれを妨げるものはなく、魔縁として妨げるものはない。男女の性別を問わず、また善人と悪人の隔てなく、至心に阿弥陀仏を念ずればその浄土に生まれないことはない」
弥陀の本願は世の習いを超えて必ず救って下さる。この事がはっきりと示されています。
合掌

 

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文9

建暦(けんりゃく)二年正月(しょうがつ)二十三日       大師(だいし)在御判(ざいごはん)

【意味】
ときに建暦二年正月の二十三日
源空上人が直々に押印す。

 

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文8

【原文】
源空(げんくう)が所存(しょぞん)、この外(ほかに)全(まった)く別義(べつぎ)を存(ぞん)ぜず、滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存(しょぞん)をしるし畢(おわ)んぬ。

【意味】
私、源空が思うところは このこと以外に何もありません。
ただ私がこの世を去ったのち 誤った考え方が出てくることを防がんとして
思うところを記しました。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文7

【原文】
浄土宗(じょうどしゅう)の安心(あんじん)起行(きぎょう)この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。

【意味】
浄土門の信心の持ち方、そして修行実践のやり方は
この一紙に記したことに極まります。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文6

【原文】
証(しょう)のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。

【意味】
以上述べたことに誤りなきことを証明するしるしとして
私は両手にて印を押します。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文5


【原文】
念仏を信(しん)ぜん人(ひと)は、たとい一代(いちだい)の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身(み)になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智(むち)のともがらに同(おな)じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏すべし。


【意味】
念仏を信じようとする者は たとえ釈尊が生涯にわたり説かれた教えをよく学んでいたとしても
自らを文字のひとつも理解しない愚か者であると受け止めて
まだ学びの浅い尼僧や仏道を始めたばかりの初学者たちと全く同じように
あたかも智者であるかのような振る舞いをせずに ただひたすらに念仏をするべきなのです。