和尚のひとりごとNo172「善光寺尼公上人」

善光寺参りで多くの参詣者を集める信州(長野)善光寺については何度かご紹介して致しましたが、浄土宗の大本山の中でも住職が代々皇室にゆかりのある女性によって受け継がれてきたという点で、善光寺大本願は際立った存在感を放ちます。『善光寺縁起』によれば、ご利益あらたかな御本尊 一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)は、欽明天皇一三年(五五二)に百済聖明王から献じられた日本最古の霊仏とされています。欽明天皇の御世といれば、仏教にも非常に縁の深い聖徳太子が活躍された時代でもあります。


さて善光寺の開山は皇極(こうぎょく)天皇(のちの斉明天皇)名代として遣わされた蘇我馬子の女(むすめ)、善阿尊光(ぜんなそんこう)であったと言われ、爾来、皇族・公家・大名家の家柄より出家した尼公(にこう)上人が住職を勤められました。


やがて時代が下ると善光寺大本願の住職は本願上人(ほんがんしょうにん)と呼ばれるようになります。
江戸時代には女人信仰の寺として庶民にまで信仰の裾野を広げ、「遠くとも 一度は参れ 善光寺」、つまり何があっても一生に一度は参るべき霊地として人気を集めました。女人禁制のしきたりも根強かった当時、女性の極楽への往生を謳った善光寺は誠に希有な存在でありましょう。


現在の浄土宗大本山善光寺大本願は、第121世法主鷹司誓栄(たかつかさせいえい)上人が法燈を守られ、かつては文明開化の世において廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中、善光寺を寺院として護持された中興の祖第117世誓圓(せいえん)尼公上人のような方もおられました。
現在では年間の参拝者数が700万人を超すという信州を代表する観光名所でもあります。是非、皆さまもお参りください。合掌

和尚のひとりごとNo171「光明徧照」

 

 一々の光明(こうみょう)、徧(あまね)く十方の世界を照らして、念仏の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)して捨て給わず。

 19jyuugatuこれは、『観無量寿経』と言うお経に出てくる偈文です。「阿弥陀様の一つ一つの光明は、徧く十方の世界を照らし、念仏を称える衆生(命ある者)を救い取って、捨てる事がない」と言う意味です。今の我々の目には見る事が出来ない御仏様の御光ですが、いつでも、どこでも、誰にでもお照らしくださっているのです。ですから阿弥陀様の事を別の名で無量光佛(むりょうこうぶつ)とお呼びいたします。量り知れない御光をお照らしてくださっているからです。

 

刑場の露と果つべき身を惜しみ 虫になりても生きたしと思う(島秋人)

 これは昭和四十二年十一月二日、わずか三十三歳で処刑された死刑囚、島秋人(本名;中村覚)が獄中で詠んだ短歌です。彼は生まれつき病弱で学校にも通えず、周囲から罵倒され、貧しさゆえに非行と犯罪を繰り返し、飢えから農家に押し入り強盗殺人を犯し、遂に死刑囚となった青年でした。戦後の貧しさの中、非業な憂き目に遭わされ、罪人としたてあげられた父親と、結核に罹患し亡くなっていく母親という不運な境遇で育ちました。充分な愛情も温もりも知らずに育てられた環境の為、遂に死刑囚になるまで手を汚したと言われています。しかし獄中生活の中で、支えてくれる人々の愛情、心の温もりを感じ、犯してきた罪を悔い改めて過ごされました。その獄中で死刑前夜まで詠み続けた贖罪の歌が先程の短歌です。犯してきた罪を省みれば露の様に消え果てるべき身ではありますが、いざ我が命となると虫になってでも生きてながらえたいと願う生への執着が垣間見えます。しかしそれだけ真剣に人の命というものに向き合えたのでしょう。

 島青年は刑務所で教誨師の導きにより信仰の道に入りました。仏縁に出遇い、人として生きる事の意味、死刑囚であっても命の大切さを身に沁みて感じ、自らの行いを懺悔(さんげ)し、歌を創り続けたのだと思われます。今までは他人の命も自分の命も疎(おろそ)かにし、人生を虚しく捉えて罪を造っていたけれども、仏縁により命の尊さを知ったのです。青年は、「たとえ私が娑婆で百年生きたとしても、仏様の教えに遇う事がなかったならば、それは空しい一生であったでありましょう。しかし短い一生であっても仏法に遇わせていただいた事によって、人生に光明を得た事は何よりの幸せでありました。」と言葉を遺されました。

 どの様な境遇の者でも阿弥陀様は絶対に見捨てません。仏様の御光によって必ず救われて参ります。共々に阿弥陀様に思いを寄せてお念仏申して過ごして参りましょう。

法然上人御法語第九

第9 安心gohougo
~まことの心こそが往生の正因である~

【原文】
念仏の行者の存じ候(そうろ)うべき様(よう)は、後世(ごせ)を恐れ、往生を願いて念仏すれば、終るとき必ず来迎(らいこう)せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)のこと候わず。
三心(さんじん)と申し候うも、ふさねて申す時は、ただ一つの願心(がんしん)にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば、至誠心(しじょうしん)と申し候。この心のまことにて、念仏すれば臨終に来迎すということを、一念も疑わぬ方を、深心(じんしん)とは申し候。この上、我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと欲(おも)い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを、廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。
この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自ずから三心は具足することにて候うなり。
(『勅伝 第二十四巻』)

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【ことばの説明】
安心(あんじん)
安心とは詳しくは、「心念を安置すること」を指し、修行によって得られる心の安定した状態を意味する。浄土教においては、阿弥陀仏の本願に誓われた念仏によって、凡夫の散乱する心のままで決定往生の確信を得ること、そのことを安心と呼ぶ。
また浄土宗では安心とは、所依の『観無量寿経』に説かれる「三心(さんじん)」であるとしている。三心とは、阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種の心構えのことで、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)を指す。
「『観無量寿経』に説いていわく〈もし衆生ありてかの国に生れんと願ずる者は三種の心を発してすなわち往生すべし。何等をか三つとす。一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生れる〉と(法然『浄土宗略抄』)」
第一に至誠心とは、身口意の三業(全ての行為や発言や思い)が必ず真実の心にて行われるべき事。
第二に深心とは深く信ずる心であるが、具体的には自分自身が煩悩を具えた凡夫であり、実践できる善き行いは少なく、このままでは輪廻から抜け出る事が難しい、それが故に阿弥陀仏の本願に誓われた念仏により必ず往生を遂げる事ができると信じ疑い無き事を言う。
第三に廻向発願心とは、所修の功徳(自ら為した様々な行いの功徳)を浄土往生という一事にふり向けて往生を願う心の事。
善導大師によれば、この三心を具足する事が往生浄土の条件とされたが、法然上人によれば、称名念仏を実践する中で三心は自ずと具わってくるとされる。「三心四修と申すことの候うは、皆 決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに こもり候うなり(一枚起請文)」。
さらに、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい)禅師の『伝通記糅鈔(でんずうきにゅうしょう)』によれば「念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」と言い、所求所帰去行(しょぐ しょき こぎょう)の三つに心を定めることを安心と定義している。
「所求所帰去行」とは、浄土宗の信仰や教行における三要素であり、目的(所求)と対象(所帰)と実践(去行)を指す。それぞれ所求(信仰の目的)は往生浄土(浄土に往生すること)、所帰(信仰の対象)は阿弥陀仏、去行(信仰の実践)は本願念仏であるとされている。

後世(ごせ)
三世(前世、現世、来世)の一つ来世の事。今世での生を終えたのち、生まれかわりを果たした次の生存。
これを「恐れる」とは、次の世において再び迷いの境遇に生まれついてしまう事を危惧して、という意味。

来迎(らいこう)
臨終を迎えた念仏行者のもとに、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来ること。すなわち浄土宗では来迎とは臨終来迎を指す。
これは『無量寿経』に説かれる四十八願中の第十九「来迎引接願」に基づき、また『阿弥陀経』には「その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在まします」とある。
なお「らいごう」と読む宗派もあるが、浄土宗では「らいこう」と読み慣わす。

ふさねて
「かさねて」の意味。

至誠心(しじょうしん)
深心(じんしん)
上記安心を参照。

行業(ぎょうごう)
身・口・意の三業の所作。つまりあらゆる行い。

廻向心(えこうしん)
廻向発願心のこと。上記安心を参照。


【現代語訳】
念仏を行ずる者が心得ておくべき事は、(自らの)来世(の生まれ変わりにおける苦しみ)を案じ、(浄土への)往生を願って念仏すれば、(命が)尽きようとするその瞬間に必ず(阿弥陀仏並びに聖衆)が迎えて下さると信じて、念仏を称える事に他ならない。
三心(という往生に必要な心構え)というものも、要するに、ただ一つの(往生を)願う心以外のものではない。その願う心に偽りがなく、表面のみを取り繕うこともない点を「至誠心」と呼ぶのである。この心が真(まこと)から出た心であり、念仏を行えば命終わる時に(阿弥陀仏が)迎えに来て下さるという事を、微塵も疑わない点を「深心」と呼ぶのである。さらに、(まさに)私自身が彼の浄土(西方極楽浄土)へ生まれようと望み、(自ら為した)あらゆる善き行いを往生の為にこそ振り向ける事を「廻向心」と呼ぶのである。
以上のように、(往生を)願う心に嘘偽りがなく、心の底から往生したいと思えば、おのずと(往生の条件とされる)三心が備わってくるのである。


善導大師は三心こそが往生を遂げるための正因であるとし、この三心を具足した称名念仏を勧めた。三心とは一言で言えば「まことの心」であるが、心から阿弥陀仏を信じ、その浄土への往生を願い、常に心がそこから離れないことが求められる。
しかしながら私たちは紛うかたなき凡夫である。常に心が動じ、留まる事を知らず、「凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし。たとえば猿猴(サル)の、枝につたうがごとし。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」と表現される。
そんな私たちにとり、心を常に弥陀如来に寄せ、極楽往生を願う心を持続する事がいかに困難であるか。
法然上人は善導大師の心を汲み、そして仏の慈悲心を受け止めて、こう結論するのである。
難しく考える必要はない、念仏を称え続ければ、必ずまことの心である三心が自ずと具わってくるのだと。
合掌

和尚のひとりごとNo169「地蔵菩薩」

インドの言葉でKṣitigarbha(クシティガルバ)と言います。この言葉を訳せば「大地の子宮」、つまり母親の胎内が新たな生命を生み出すように、新しいものを生み出す豊かな可能性を秘めている存在という意味です。また、大地のように広大な慈悲心を持つ菩薩であるとも言われます。

jizou11地蔵菩薩は仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなったあと、遠い未来に世に現われる弥勒菩薩が出世するまでの期間、つまり仏さまが不在であり世が徐々に乱れていく世界に現われて、六道に苦しむ衆生に教えを説き、進むべき道を指し示す菩薩さまです。末法とも呼ばれるこの乱れゆく世界とは、実は私たちが住む娑婆世界のことを差します。仏さまに教えを頂きたくとも、すでに釈迦仏はこの世にはおらず、苦しみから抜け出し心の平安を得るにはどうすればよいか、常に迷っている私たちの味方となってくれるのが地蔵菩薩です。

jizou21浄土の御教えでは阿弥陀如来が誓われたお念仏の力で、苦しみのない西方極楽浄土に往生できることを説きます。極楽には阿弥陀さまがいらっしゃって、今この瞬間も法を説いて下さっている。しかしながら私たちには簡単にはまみえることは出来ません。そこで、この娑婆世界のみならず六道と言われる苦しみ多い境涯に自ら赴いて導いて下さるのが地蔵菩薩だいう訳です。
ところで私たちにとって地蔵菩薩といえば、やはり路傍の六地蔵さまが思い出されます。皆さまご存知のように子供の守り仏として広く信仰を集め、関西地方では毎年秋口に地蔵盆が行われます。そういう意味でも一番身近な菩薩さまが地蔵菩薩だと言えるかもしれませんね。
合掌

 

 

和尚のひとりごとNo168「まごころのおすそわけ」

 

 ある海にとても綺麗な一匹の魚が住んでいました。その魚の鱗(うろこ)は青に緑に紫にキラキラと光っていて、海の中で一番美しく輝いていました。この綺麗に光り輝く鱗を持つ魚は他の魚たちから“にじうお”と呼ばれていました。“にじうお”は自慢の鱗を光り輝かせながらいつも得意げにスイスイと泳いでいました。

 他の魚が「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてきても見向きもしません。小さな魚が「綺麗な鱗をたくさん持っているんだから一枚分けてくれないか」とお願いをしても、「一体何様のつもりだ!」と一喝するのでした。そんな態度の“にじうお”を見て、他の魚たちは“にじうお”に近づかなくなっていきました。やがて“にじうお”は自慢の綺麗な鱗を誰にも見てもらえなくなり、寂しい思いをする日々が続きました。そこで“にじうお”は、「どうしたら寂しい思いをせずに幸せに過ごせるのか?」と思い悩み、賢いタコのおばさんに相談しました。タコのおばさんは、「その綺麗な鱗を皆に分けてあげたらいいのよ」と言いました。“にじうお”は、「自慢の鱗が無くなるのにどうして幸せになれるのか?」と思いました。けれどもタコのおばさんの言う様に、他の魚のお願いを聞き入れて鱗を分けてあげる事にしました。すると綺麗な鱗をもらった魚はとても嬉しそうに喜びました。その様子を見た“にじうお”は何だか嬉しい気持ちになりました。さらに鱗をもらいに来た別の魚たちにも少しずつ分けてあげました。“にじうお”の自慢の鱗は少しだけになってしまいましたが、心は嬉しくなり皆と楽しく暮らしました。(『にじいろのさかな』マーカス・フィスター著)

 19ugatu人は自分のものとして手に入れると手放したくなくなる気持ちが生じます。仏教では慳貪(けんどん)といって、自分だけの利益を追求し、他人に施す事のない惜しむ心を言います。所有する事で他人より優位に立っている気持ちになれるので所有欲が起こるのです。しかし、その様な心の人は、ただ蓄財するだけの心に囚われてしまい、他人の事を考える事もしなくなると戒められております。多くのものを持っていても独り占めをするのでは疎まれてしまい、やがて孤立してしまいます。金銭的なものにかかわらず技術や能力といったものも他の人にそれを分け与え、教えていく事で多くの仲間を得、更により良いものが生まれてくるものです。生まれ持った能力は人それぞれ違います。得手、不得手はあるものです。自身の恵まれたものを他者に分け与える喜びを知り、外面的な美しさよりも内面的な心の美しさを育てさせていただきましょう。

法然上人御法語第八

第8 万機普益gohougo

~数ある御教えの中でも~

 

【原文】

浄土一宗の諸宗に超(こ)え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機(ばんき)を摂(せっ)する方(かた)をいうなり。

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等、いずれも仏法のおろかにましますにはあらず。みな生死滅度(しょうじめつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。

時をいえば、末法万年(まっぽうまんねん)の後、人寿十歳(にんじゅじっさい)につづまり、罪をいえば、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念の類(たぐい)に至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いに籠(こも)れるなり。

この故に諸宗に超え、諸行に勝れたりとは申すなり。

(『勅伝 第四十五巻』)

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【ことばの説明】

万機(ばんき)を摂(せっ)する

「万機」はあらゆる機根を持つ衆生、機根は衆生の素質や能力を意味するから、素質や能力を問わずあらゆる衆生を対象として、

「摂す」は救い取ることを意味するので、「万機を摂する」とは「あらゆる衆生を救い取る」ということ。

 

理観(りかん)・菩提心(ぼだいしん)・読誦大乗(どくじゅだいじょう)・真言(しんごん)・止観(しかん)等

ここで様々な仏教の修行方法が列挙されている。

理観(りかん)とは「理の念仏」とも呼び、「三身即一(さんじんそくいつ)の仏」と呼ばれる普遍的な真理としてのブッダを洞察しようとする観想の方法。極めて高度な能力や資質が求められる難行であるとされていた。

菩提心(ぼだいしん)は、詳しくは「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」のこと。また「発菩提心(ほつぼだいしん)」とも言い、悟りを求め、仏とならんとする決意を意味する。大乗仏教の修行道の出発点。

読誦大乗(どくじゅだいじょう)は、大乗の経典を手に取って読み、さらにそれを暗唱すること。

真言(しんごん)の本来の意味は「真実の言葉」、原語でmantra(マントラ)と言う。ここではこの真言を教義実践の中心に置く密教の修行を意味する。

止観(しかん)は、止(śamatha シャマタ)と観(vipaśyanā ヴィパッシャナー)とに分かれる。止は「心を静め、一つの対象に集中させること」、観は止によって安らかとなった心を土台として「正しい智恵を働かせて、世界をあるがままに観察すること」。仏教における瞑想法を説明したもの。中国の天台大師智顗が著わした『摩訶止観(まかしかん)』において組織的に説かれた。ここではその天台における止観の行法を指している。

 

生死滅度(しょうじめつど)の法

生死の苦しみを伴う迷いの境涯を滅ぼし、悟りの境涯に渡るための教え。上に挙げられた種々の仏道修行のこと。

 

十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)

「十悪」とは、仏教で数える十種の悪い行いのこと。身口意(しんくい)の三業、つまり身体による動作と、口で発する言葉と、心の中で思うこと、これらで行う悪しき行為であるとされ、苦しみ多き境涯に赴く原因となる。

殺生(せっしょう 生き物の命を断つこと)、偸盗(ちゅうとう 盗むこと)、邪婬(じゃいん 道に外れた性交渉)、以上が身体で犯す身業(しんごう)。

妄語(もうご 嘘やたぶらかしの言葉)、両舌(りょうぜつ 争いや仲違いを誘因する言葉)、悪口(あっく 暴言や罵りの言葉)、綺語(きご 誠実さのない言葉)、以上が口でなす口業(くごう)。

貪欲(とんよく 貪り)、瞋恚(しんに 怒り・憎悪)、邪見(じゃけん 誤った見解つまり因果の道理の否定)、以上が心に思うことでなす意業(いごう)。

以上の合計で十種を数える。

 

「五逆」とは、十悪よりもさらに罪が重いとされる五つの大罪。

『阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)』によれば、

殺母(せつも 母を殺すこと)、殺父(せっぷ 父を殺すこと)、殺阿羅漢(せつあらかん 迷いを脱した聖者、仏弟子を殺すこと)、出仏身血(しゅつぶっしんけつ 悪意をもって仏の身体を傷つけること)、破和合僧(はわごうそう 修行僧の和を乱し分裂させようとすること)、以上が五逆となる。

これらを一つでも犯すと死後ただちに無間地獄(むけんじごく)に堕ちるとされる。無間地獄とは別名「阿鼻地獄(あびじごく)」とも呼び、最も苦しみの大きい地獄であるとされる。

 

【現代語訳】

浄土の一宗(浄土の教え)が他の諸宗(浄土以外の教え)より勝れ、念仏という一行が他の様々な修行法よりも勝れているという事は、全ての衆生を漏れなく救い取るという点を言っているのです。

(もちろん)真理を見ようとする観法、覚りを求めんとする決意、大乗経典の読誦、真言の教え、止観の行など、(従来から大切とされてきている)どんな修行も仏の教えとして不十分であるという訳ではありません。(これらは)皆、生死の苦しみを滅して覚りを得ようとする教えではありますが、末法の時代になり、(仏道を行ずる者の)力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことによって、素質や能力が追い付いていかないのです。

時代について言うならば、末法の時代に入って一万年が経った後、人の寿命もついに十歳にまで縮まってしまい、罪ということについて言うならば、十悪五逆と呼ばれる大罪を犯してしまう罪人でもあります。(そのような)老若男女の人々であり、(念仏を)一回ないし十回しか称えないような人々に至るまで、皆(仏の)「救い取って捨てることのない誓い」の対象に含まれているのです。

だからこそ(浄土の教えは)他の教えより勝れ、(念仏が)他の修行法よりも勝れていると申し上げるのであります。

 

数ある仏教の教え(法門)の中でも、浄土に関する教えは最も勝れ、その中でも仏によって選ばれ誓われた念仏(選択本願念仏)がより勝れている。これが法然上人の見出された確信であります。

ここでは、浄土一宗(浄土に往生する教え)が、他の教えよりも勝れている所以をひとことで言い表しています。

つまり「全ての衆生を漏れなく救い取る」という一点において勝れていると。

”仏の光明は遍(あまね)く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず”

自分自身の力では仏の境地に至ることが叶わず、また時として悪をなしてしまうのが末法に生きる私たちの姿でもあります。

そんな私たちに差し伸べられた一筋の光明、法然上人にとり弥陀の本願に裏打ちされた浄土往生の教えは、まさにそのようなものだったのではないでしょうか?

合掌

和尚のひとりごとNo166「同称十念・同称御回願(どうしょうごえがん)」

 

”南無阿弥陀佛” お念仏は私たち日本人には大変馴染み深いものですね。

その意味するところは、阿弥陀さまという仏の名を呼び、その仏を信頼し全面的に帰依することです。

そこには、どうか私を救ってください、浄土に迎え入れて下さいという心からの願いが込められています。

ところで私たち浄土宗では、僧俗〈そうぞく〉(僧侶と出家していない人、一般の人)が一体となってこのお念仏を10回唱えることがあります。

これをともに称える念仏、つまり同称十念(どうしょうじゅうねん)と呼びます。

では何故、10回なのでしょうか?

そこには根拠があります

浄土の教えが説き示された経典は数多くありますが、浄土宗を開かれた法然上人がとりわけ大切にされたのは浄土三部経です。その中の無量寿経の中に次のような一節があります。

”設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚”(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう ししんしんぎょう よくしょうがこく ないしじゅうねん にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)

後に覚りを開き阿弥陀佛となる法蔵菩薩が修行時代に建てた誓いの一つです。

「あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」

そして法蔵菩薩はその誓いを成就して、阿弥陀佛となりました。

仏法には様々な道があります。

その中でも、心から極楽浄土への往生を願いわずか10回でもお念仏を称えるならば、必ず往生を果たすことができる、それが浄土の教えであります

同称十念とは、その10回のお念仏を皆さんとともに称え、仏さまへの感謝の気持ちを表すことです。

お勤めの際に僧侶が”同称十念”と呼びかけましたら、皆さんも是非お手を合わせ、大きな声でご一緒にお念仏を称えましょう。

和尚のひとりごとNo165「ここにいるよ あなたを想っている」

 

 人生の壁にぶつかった時、ふと立ち止まり自分自身を見つめ直したくなる時があります。「何故この世に生まれてきたのか?」「この人生に意味はあるのか?」「どうして私ばかりがこんな苦しみを受けなければならないのか?」

 自らの意思で、明確な目的意識を持ってこの世に生まれてきた事を知っているのであるならば、壁にぶつかったとしても生きる事に意味を見出すのは簡単でしょう。しかし私たち人間は、気がついた時には既にこの世に人として生まれており、それぞれの与えられた環境の下で生活が始まっています。ですから時としてこの人生に意味を求め、「私は何の為に生きているのか?」と自問自答したくなるのでしょう。人間は、意味や理屈を求める生き物でありながら、生きる事にどんな意味があるのか分からないまま人生が始まっているところに根源的な悩みが生まれるのです。19hatigatu

 

 またこの世の中は非常に不条理なものです。善人が必ず報われ、悪人が必ず罰せられて衰えていくのならば納得もいくのでしょうが、善人が必ず栄え報われるとは限りません。東日本大震災の様な天災や、多発する交通事故、ニュースで見聞きする事件等で犠牲になった方々は悪人だったのでしょうか?地震などの天災は、遺族にとって怒りの矛先が無い非情な出来事であり、不条理極まりないものです。科学的に地震の発生原因を解明し、どうして死に至ったのかを説明したところで遺された人々の苦しみを癒す事は出来ません。

 

 東日本大震災では発生当初多くの僧侶も駆けつけ、様々な宗派の葬送儀礼が各地で勤められました。浄土宗は、「死後、御浄土で再会出来る」という御教えです。南無阿弥陀佛とお念仏を御称えしたならば、命尽きた後、西方極楽浄土に往き、そこで亡き人と再び会う事が出来るという、科学的根拠の全く無い御教えです。しかし、死別という悲しみにおいては「何故死に至ったのか?」「どうしてこの様な事が起きたのか?」という科学的な原因究明よりも、死後の世界は有り、今生で死に別れても再会出来る場所が有るという非科学的な教えが遺族の方々に大きな安らぎを与えました。

 

 非情な悲しみに遭い、「何故生きているのか?」と人生の意味を問うた時、科学的視点では安らぎを得られません。科学的に人生を解明しても人類は単なる進化の過程に過ぎないからです。私たちは望むと望まざるにかかわらず、気付いた時には既に人生がスタートしており、平等でない環境の下、不条理な世の中を生き抜いていかねばなりません。生きる事の意味を問うた時、目には見えない信仰の世界が一番の救いになり、現実を生きる我々に生きる力を与えてくれるものであります。先立たれた方は間違いなくお浄土に居て、「ここにいるよ。あなたを想っている。」と亡き人が私達を見守ってくださっていると思いを馳せ、共々にお念仏を申して過ごして参りましょう。

法然上人御法語第七

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第七 諸仏証誠

~諸仏による証明は決して虚しいものではない~

 

【原文】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏舌をのべて 三千世界に覆いて、「専らただ弥陀の名号を称えて、往生すというは、これ真実なり」と証誠(しょうじょう)し給うなり。これまた念仏は、弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏、これを証誠し給う。余(よ)の行は、本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。

これにつけても、よくよく御念仏(おねんぶつ)候(そうろ)うて、弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念を深く蒙(こうぶ)らせ給うべし。

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚しからず、この故に、念仏の行は、諸行に勝れたるなり。

(『勅伝 第三十二』)

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【ことばの説明】

六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏

「六方」とは、東・南・西・北・下・上の六つの方角で、六方であらゆる方向を表現する。

「恒沙」は「恒河沙(ごうがしゃ)」の略。恒河(ごうが=ガンガー)とはガンジス川、恒河沙はガンジス川の川辺にある無数の砂のこと、これは数量が無数(数えきれないほど多い)ことを指している。

従って「六方恒沙の諸仏」とは、四方と上下の六方向におわすガンジス川の砂の数にも喩えられるほど数多くの仏を意味する。

 

舌をのべて

「舌を伸ばして」の意。悟りを開いたブッダに備わる32種の優れた身体的特徴(三十二相)の一つに、舌が大きく長い(長広舌 ちょうこうぜつ)という特徴がある。仏たちはその長い舌を伸ばして、経典の言葉に偽りがないことを証明しているのである。

 

三千世界

三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の略称。仏教的世界観において世界の最小単位は「小世界(一世界)」といわれるが、それぞれの世界が、中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)とその周りを囲む九山八海(九つの山々と八つの海)、さらにその外側にある四洲 (四つの大陸)、また天空の太陽や月などの天体を一通り備えた環境であると言われる。その最小単位の小世界がおよそ1000個集ったものを小千世界、この小千世界がさらに1000個集ったものが中千世界,この中千世界がさらに1000個集ったものが大千世界、すなわち三千大千世界である。

そしてこの三千大千世界が一人のブッダの教化が及ぶ範囲とされ、我々が住むこの小世界を包含する三千大千世界を別名娑婆世界(sahā サハ―)とも呼ぶ。ここはかつて釈迦仏が教化した範囲であり、ここより西方に位置する極楽世界が阿弥陀仏の教化する世界となる。

 

証誠(しょうじょう)

誤りなく真実であることを証明すること。

 

弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念

阿弥陀仏の本願は『無量寿経』において明かされ、釈迦仏の付属は『観無量寿経』に説かれる。これは釈迦が最終的に仏の本意は念仏にあるとして阿難に付属したことをいう(選択付属 せんちゃくふぞく)。この場合の「付属」とは、教えを授け、後世に伝えるように託すことを意味している。

また六方の諸仏の護念は、『阿弥陀経』において説かれている、東・南・西・北・上・下の六方の諸仏が念仏する行者を護り、決して離れることがないことを言う。これは念仏者が極楽に往生を遂げる前に、この現世において得ることができる利益である。

 

【現代語訳】

六方に広がる全世界の仏たちが、その舌を伸ばして三千大千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の御名を称えることで往生を果たせる〉という教えは誤りなく真実である」と証言されています。また同時に念仏が阿弥陀仏の本願であるという理由から、その真実性が(同じく)六方世界の仏たちにより証明されているのです。(それに対して)念仏以外の諸行は本願ではないため、六方世界の仏たちは、(その教えが)真実であるとは証言されていません。

このことからも、念を入れて十二分にお念仏をなさり、阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護を深く受け入れて下さい。

阿弥陀仏の本願、釈尊仏の付属、六方世界の仏たちの御加護は、それぞれが意味のあるものなのです。それ故に、念仏の行は他の行に比べて各段に勝れているのです。

 

 

この一段が説かれたのは、念仏の教えに対する疑いを正して、正しい信へと導くためである。仏教では悟りへの妨げとなる心の働きを「煩悩」と呼び、その煩悩に98ないし108を数えるが、その中に「疑」がある。「疑」とは、凡夫が自分自身の見解に捉われて、仏の説示に対して十分な信を持ち得ないことを指している。

そしてここでは、阿弥陀仏の本願によって誓われた念仏(本願念仏)が、他のあらゆる行より勝れている所以が、”釈迦の阿難への付属”と”諸仏による証誠”によって示されているのである。ともに他ならぬ仏による証明であり、念仏が”虚しからざるもの”すなわち、必ず極楽への往生を遂げさせる”実あるもの”としてここに示されている。まさに凡夫の疑念をさしはさむ余地なきものとして。

華厳経にいわく「信は道元にして功徳の母となし」。

合掌

 

和尚のひとりごとNo163「利剣名号」

 

”南無阿弥陀佛”の六字名号は私たち浄土宗にとり大切なものです。その名号にも様々なスタイルがあれますが、世に言う「利剣名号」(りけんのみょうごう)ほど力強く私たちを惹きつけるものはないでしょう。

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特徴的なその書体は、字画の末端を剣のように鋭く描き、それにより悪しき因縁を断ち切ることが願われていると言われています。

法然上人が師と仰ぐ善導大師の残した『般舟讃』にはこうあります。

「門門不同八万四(もんもんふどうまちまんし)、為滅無明果業因(いめつむみょうかごういん)、利剣即是弥陀号(りけんそくぜみだごう)、一声称念罪皆除(いっしょうしょうねんざいかいじょ)」

すなわち、数ある仏の法門〈お経のことです〉は須く(すべからく)覚りを曇らす無明を滅し、煩悩を断つものとして同じである。

その中でも阿弥陀佛の名号はひとこえ称えれば、私たちの全ての罪を除いてくれる勝れたものであると。これが「利剣名号」の典拠であると言われています。

さて現代から遡ること680年前の昔、後醍醐天皇の元弘元年(一三三一)のこと、天災飢饉や疫病といった天変地異で世は大いに乱れ、人々は困窮していました。多くの罪なき民が亡くなる中、後醍醐天皇の御下命(ごかめい)で当時の百万遍知恩寺第八世の空円に白羽の矢が立てられました。普寂国師空円は後に浄土宗第三祖良忠上人にも師事された方で、宮中における七日間にもわたる百万遍念佛の修法で猛威を振う疫病を鎮めたと言われています。 百万遍知恩寺は、この効験により弘法大師空海作と伝えられる「利剣名号」と「知恩寺」の勅額を賜ったと言われています。

皆さまも機会があれば是非、「利剣名号」の書をご覧頂き、阿弥陀佛の名号の功徳を実感してください。