和尚のひとりごとNo152「新たな出会い よき縁に」

人生は縁であり、縁に始まり縁によって終わると言います。「袖触り合うも多生(たしょう)の縁」という諺(ことわざ)があります。「多生」とは仏教語で、生まれ変わり死に変わり、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしてという意味で、前世からの縁という事です。前の世からの縁として「宿縁(しゅくえん)」という言葉もあります。宿とは以前からのという意味です。ですから「宿縁」とは前の世からの御縁です。サッと袖が触れ合っただけというのも前の世からの縁による。また一樹の陰に宿るも、一河の水、河の水を汲ませて戴くのも御縁です。夏の暑い日に一本の樹の下の陰で休ませていただくのも、或いは又、河の水を掬い取って飲ませていただくのも御縁です。

 四月は入学式や入社式などがあり、新たな出会いや御縁に巡り合う人も多い季節です。自分で選択した19sigatu道であっても自分の都合の良い事ばかりではありません。気に入らない事や辛い事もあり、辛抱して色々な試練に打ち勝って世間の荒波を乗り越えていかねばならないのがこの世です。お釈迦様はこの人間世界を忍土(にんど)と示されました。辛い事や苦しい事に巡り合っても耐え忍んでいかなければならない世界であると説かれたのです。しかし忍土である人間世界であっても人間として生まれた事は宿縁による有り難いものであるとお釈迦様は説かれます。お釈迦様はある時に、大地の砂を掴んで「この手の中の砂の数と大地の砂の数とではどちらが多いか」と弟子に尋ねられました。「はるかに手の中の砂の方が少ないです」と弟子が答えると「その通りである。この数え尽くす事の出来ない大地の砂というのは、この世に命恵まれたものの数。その中で尊くも今、人間として生まれる事の出来た者は僅かこの一握りの砂の数である」そして今度は、この手の中の砂をもう片方の親指の爪の上にパラパラとかけていかれました。その殆どは大地へ落ちてしまいましたが極僅かだけ爪の上に残りました。「せっかく人間としての命をいただいても、無駄に過ごしてしまう者もいる。しかし正しい信仰に出遇い、その道を歩む事の出来た者はこの僅かに残った爪の上の砂の数である」とおっしゃられました。正しい信仰の道とは浄土宗では南無阿弥陀佛のお念仏です。辛く苦しみがある忍土であっても阿弥陀様やご先祖様が見守ってくださっている。その様にお受け取りいただき、お念仏の御縁に今、出遇わせていただいた事を共々に喜ばせていただき、日々お念仏を申して過ごして参りましょう。

法然上人御法語第三

第3 聖浄二門(しょうじょうにもん)

 

~わたくしが偉いのではない。

わたくしのちからで念仏が尊いわけでは決してない…

 

【原文】

或る人、「上人の申(もう)させ給(たま)う御念佛(おねんぶつ)は、念々ごとに佛の御心(みこころ)に適(かな)い候(そうろ)うらん」など申しけるを、「いかなれば」と上人返し問われければ、

智者(ちしゃ)にておわしませば、名号(みょうごう)の功徳をも詳しく知ろしめし、本願(ほんがん)の様(さま)をも明らかに御心得(おんこころえ)ある故に」と申しけるとき、

「汝本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類(たぐい)ごときの者の、内下(ないげ)ともにかけて一文不通(いちもんふつう)なるが、称(とな)うれば必ず生まると信じて、真実に願いて、常に念佛申すを最上の機(き)とす。

もし智恵をもちて生死(しょうじ)を離るべくば、源空(げんくう)いかでか彼(か)の聖道門(しょうどうもん)を捨てて、此(こ)の浄土門(じょうどもん)に趣(おもむく)べきや。聖道門の修行は、智恵を極めて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴(ぐち)に還りて極楽に生まると知るべし」とぞ仰(おお)せられける。

☆出典 『勅伝』巻二十一、「信空上人伝説の詞」(昭法全六七一頁)

 

【ことばの説明】

聖浄二門(しょうじょうにもん)

浄土宗では、全ての仏教を聖道門と浄土門の2つに大別する。この2つの道を聖浄二門と呼ぶ。

本文にもあるように、「聖道門」とは智慧を極めることで迷いを離れる道であり、「浄土門」とは自分自身の愚かさを自覚し、仏の本願の力を頼って極楽浄土への往生を目指す道である。

前者は、この現世において自力の修行で菩提(覚り)を得ようとするが、後者では、まずは仏の設えた仏国土である西方浄土への往生を果たし、修行に適した安楽なその国土で修行を完成させて菩提を得る事を最終目的としている。

 

智者

文字通り「知恵のある者」。

ここでは法然上人が、当時の最高学府であり権威の象徴でもあった比叡山や、南都の諸寺にて学問研究を重ね、学僧として誉高かった点を言っているのであろう。

 

名号(みょうごう)

阿弥陀仏の名前のこと。

 

本願(ほんがん)

ことばの意味は、サンスクリットでpūrva-praṇidhāna、つまり「(時間的に)以前の誓願」、転じて「仏が仏になる以前(つまり修行時代)にたてた誓願」を意味する。阿弥陀仏がまだ仏となる前の修行時代、法蔵と呼ばれる出家者だった時に「これらの誓いが完成しない限り仏とはなるまい」として誓った四十八願が「本願」の代表的なものである。

浄土宗で最も重視するのは四十八願中の第十八願で「念仏往生願」と呼ばれる。

それは「わたくし(法蔵)が仏となる際に、あらゆる世界の衆生が心から信じてわたくしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏を試みて、それでももし生まれることが出来ないようであれば、決して仏とはならない」という内容で、法蔵が既に仏となり西方浄土におられるならば、既にこれらの誓いが成就していることを意味する。すなわち、念仏による極楽浄土への往生が約束されたものとして、既に私たちに示されているのである。

 

一文不通(いちもんふつう)

ただ一つの文字の読み書きさえも出来ないこと。

 

愚痴(ぐち)

サンスクリット語のモーハ(moha)の訳語であり、一説には「バカ」の語源となったと言われる。

一言で言えば「愚かなこと」「心の迷いのせいで真実の姿が見えず、適確な判断が下せない状態」を意味する。

仏教では、この愚痴に貪欲(むさぼり)と瞋恚(怒り)を加えた三毒を最も根本的な三つの煩悩として数える。覚りを得て迷いを離れるには、この克服し難き三毒を克服しなければならないとされていた。

 

【現代語訳】

あるとき、ある人が法然上人に申し上げた。

「法然上人が称(とな)えられている念仏は、その一念一念、一回一回ごとが、阿弥陀仏のご意向にぴったりと合った、まさに仏の本意に即したものなのでしょう」と。

上人は「どういう理由で(そのように申すのか)?」と、反問された。

問うた人が答えるには、

「(法然上人は)智慧深い方でいらっしゃるので、お称えする仏の名号(”南無阿弥陀佛”の6文字)に具わっているとされる優れた徳性や、仏が誓われた本願(誓い)についても、一般の人よりは遥かに深い理解に達しておられると考えるからです」と答えた。

それに対して法然上人は次のように仰った。

「あなたの本願への信頼はその程度だったのか?

(たとえば)木を切ることを生業(なりわい)とする人や、草を刈ることを生業とする人や、野菜を摘み取り、水を汲むことだけを生業とするような人々、このような学問を必要とせず、智慧とは縁遠いと思われている人々であったり、仏典やそれ以外の書物についても何一つ知らない人がいるとしよう。

阿弥陀如来の本願である名号というものは、

もしそのような人が<称えさえすれば、必ず浄土に生まれることが出来るんだ>と信じて、心の底から願い常に念仏を口に称えるとすれば、そうした人々こそを救済の対象として選ぶものなのだ。

さらにもし、(あなたの言う)智慧によって、生まれ変わりを繰り返すこの迷いの境遇から離れることが出来るとすれば、わたくし源空が、どうしてあの聖道門を捨てて、この浄土門に絶対の信頼を置き、その道に従ったというのか?(もし、智慧によって迷いの境遇から離れられるならば、わざわざ聖道門を捨てる必要はあるまい)

(わたくしが捨てた)聖道門の修行は、智慧を極めることで迷いを離れる道である。

一方の浄土門の修行は、常に迷っている愚かな自分に立ち返り、まさにその地点から、対極にあるところの極楽浄土に生まれ変わる(往生する)道である。

このことを理解しなさい」

 

 

当時の一般仏教である「聖道門」を知り尽くした法然上人が、それとの対比として、新たな「浄土門」を鮮やかに切り出してくる一文である。

聖道門はその名の通り「聖者の道」、つまり自らの力を信じ頼って、この世で修行を完成して仏と成ることを目指すあり方である。それに対して他者である仏の本願の力を信じ頼って、この世での覚りではなく西方浄土への往生を目指す浄土門とは、覚り(仏となること)という最終目的は一緒でも、その方法論がまるで異なっている。

しかしながらさらに重要な点は、ここでの法然上人が、自分自身が「愚者」であり「智者」ではないことに拘っている点かも知れない。

法然上人に投げかけられる問いには、既に「智者の念仏」と「一般人の念仏」に区別を設けようとする意図が見受けられる。それは法然浄土教の教えに確かに内在している平等主義に反するものであろう。そう、法然上人の説く浄土教は、過激なまでの平等主義に発展する素地がある。何故なら、地上の世俗的な身分、貧富の差、境遇の違い、あらゆる差別が、「愚者の自覚」という一点において無効化されてしまうからである。

あたかも釈尊の教えにあった「諸行無常(全ての事象は変化し、過ぎ去るものである)」や「一切皆苦(畢竟するところ、この世で生を受け、それを全うするまでの経験は、苦悩である)」という思想が、原則的には全ての人が逃れることのできない様相であったが故に、カーストを無効化する思想的原理となりえたように。

だれでも(たとえ国王でも、大富豪でも、出家者でも、貧者でも、病者でも…)過ぎ去る事象に翻弄され、四苦八苦に代表される苦悩から逃れることは出来ない。

ともあれ、時にはこうした質問を受けることもあったのであろう。法然上人は、相手のことばと意図を即座に読み取り、それぞれに最も適切な回答ができる巧みな話者だったであろう事が伺える一文である。

合掌

 

和尚のひとりごとNo150「快慶」

今回は快慶についてです。

快慶と言えば、和尚のひとりごとNo123「運慶」ともに東大寺南大門の仁王像の製作者として一度は、耳にしたことがあると思いますが、その生涯はしられておらず、生没年すら不明です。

運慶の父親である仏師康慶(こうけい)の弟子(運慶とは兄弟弟子)ですが、いくつの時から弟子入りしたのかは、わかっておりませんが、1189年ごろには仏師として活動されていたようです。近年、見つかった資料により、1227年8月以前に亡くなっていることが分かっているぐらいです。

快慶は浄土教の熱心に信仰し、東大寺復興の責任者であった重源(ちょうげん)の教えをうけ、重源より「アン阿弥陀佛(アンは梵字です)」の名前を授かり、以後自分の携わった仏像には、「アン阿弥陀佛」の銘を彫っています。

重源は、阿弥陀様さまを深く信仰し、自らを「南無阿弥陀佛」と称し、自分の教えを受けたものに「〇阿弥陀佛」という名(阿弥陀佛号)を送っていました。PDF-06

快慶は多くの阿弥陀如来像を製作し、90cm前後の大きさで、端正な表情 穏やかな着衣形式 精緻な文様 来迎印(阿弥陀さまが往生人を迎えるときに両手で結んでいる印)を結んでいる立ち姿で、「アン阿弥陀佛」号にちなんで「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれました。

「安阿弥様」の様式は後世(私たち見かける多くの阿弥陀如来像のお姿)に大きな影響を与えたといわれています。

和尚のひとりごとNo149「寒さ越え 山笑うころ 春彼岸」

春山の草木が一斉に芽吹き出し、山全体が明るく感じられる様になり始めました。春になるとどことなく山が笑っている。そんな様子を感じると気分も明るくなり、心が浮き立つ心持ちになります。木々が芽吹いてくると、虫や動物たちもゾロゾロと動き出し始めます。野山が益々賑やかになり、あちらこちらから鳥たちの鳴き声も聞こえて参ります。

 

 山鳥のホロホロと鳴く声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う(行基菩薩)

 

 山鳥がホロホロと鳴く声を聞いた時、もしかするとその山鳥の声は遠く離れている父が呼ぶ声か、或いは母が呼ぶ声か。その様に遠く離れた人に想いを寄せていただくと、何とも言えない懐かしい気持ちになるものです。この歌を詠まれたとされている行基菩薩は奈良時代に活躍された僧侶で、近畿地方を中心に貧民救済や治水、架橋など社会事業、社会福祉事業を熱心に行いました。今でも行基菩薩が造ったとされる溜め池や橋、お堀などが各地に遺っており、今日でもその場所に住む人々の生活には必要不可欠なものとなっております。19sangatu

 大阪市東住吉区に「行基大橋」という行基菩薩が造ったとされる橋があります。大和川を渡る国道26号線上の四車線ある立派な橋です。しかし行基菩薩が架けたという史実はなく、そもそも現在の道が出来たのは江戸時代中期以降で行基菩薩の居られた時代には道すら無かったとされております。昭和になってから最寄りのバス停は「矢田行基大橋」と名付けられ、近くの郵便局は「東住吉行基橋局」と、近年になってから行基菩薩を偲ぶ地名が付けられているそうです。地元には「行基菩薩安住之地」という石碑があり、また古くは「行基池」という溜め池があった為、近辺に行基菩薩の地名をこぞって付けたと言われています。何はともあれ、行基菩薩の弟子や孫弟子の働きが行基菩薩の功績に転じたのでしょう。橋が無ければ向こう岸へは渡れない。何とかして向こう岸に渡りたい。その地域に住む人々の願いを適えるべく立派な橋を架けられた。そこには菩薩と尊称されるお方の慈悲の心があり、何の見返りも利権も求めない、ひたむきに尽力された姿が伺われます。

 今住む世界を「此岸(しがん)」と言い、仏様の在します世界を「彼岸(ひがん)」と頂戴します。亡き人の居られる彼岸に往くには、その国土を創られた阿弥陀様の名前を呼ぶだけです。南無阿弥陀佛とお念仏を申し、阿弥陀様の御力、他力によって向こう岸へ渡らせていただけるのであります。この世で縁あった方とまた会える、今は向こう岸から見てくださっている。その想いを春に鳴く山鳥に馳せ、日々共々にお念仏申して過ごして参りましょう。

法然上人御法語第二

第2 立教開宗(りっきょうかいしゅう)

~このわたくしにも身を寄せることができる教えがあった..実践可能な道があったのだ!~

 

【原文】

おおよそ仏教おおしといえども、所詮(しょせん)戒定恵(かいじょうえ)の三学(さんがく)をば過ぎず。いわゆる小乗(しょうじょう)の戒定恵、大乗(だいじょう)の戒定恵、顕教(けんぎょう)の戒定恵、密教(みっきょう)の戒定恵なり。

然(しか)るに我がこの身は、戒行(かいぎょう)において一戒をも持(たも)たず、禅定(ぜんじょう)において一つもこれを得ず。人師(にんじ)釈して、「尸羅(しら)清浄ならざれば三昧(さんまい)現前(げんぜん)せず」と云えり。

又、凡夫(ぼんぶ)の心は物に従いて移り易し。譬(たと)えば猿猴(えんこう)の、枝に伝うがごとし。実(まこと)に散乱して動じやすく、一心静まり難し。無漏(むろ)の正智(しょうち)何によりてか発(おこ)らんや。もし無漏の智剣(ちけん)なくば、いかでか悪業煩悩(あくごうぼんのう)のきずなを断たんや。悪業煩悩のきずなを断たずば、何ぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を解脱(げだつ)する事を得んや。悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん。

ここに我等ごときは、すでに戒定恵の三学の器(うつわもの)にあらず。この三学の外(ほか)に、我が心に相応する法門(ほうもん)ありや、我が身に堪えたる修行やあると、よろずの智者に求め、諸(もろもろ)の学者に訪(とぶら)いしに、教うるに人もなく、示すに倫(ともがら)もなし。

然る間、嘆き嘆き経蔵(きょうぞう)に入り、悲しみ悲しみ聖教(しょうぎょう)に向いて、手ずから自ら披(ひら)き見しに、善導和尚(ぜんどうかしょう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)の、「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者(もの)、これを正定業(しょうじょうのごう)と名づく、彼の佛の願に順ずるが故に」という文を見得て後(のち)、我等がごとくの無智の身は、偏(ひとえ)にこの文を仰ぎ、専らこの理(ことわり)を憑(たの)みて、念々不捨(ねんねんふしゃ)の称名(しょうみょう)を修して、決定往生(けつじょうおうじょう)の業因(ごういん)に備(そな)うべし。

☆出典「聖光上人伝説の詞」昭法全四五九

 

【ことばの説明】

立教開宗(りっきょうかいしゅう)

立教開宗とは「教えを立て、宗を開く」こと。

数ある「法然上人伝」が語るところによれば、上人が諸行(念仏以外の実践)を捨て、専修念仏(せんじゅねんぶつ) に帰したのは、承安5年(1175)の春3月であるとされ、浄土宗はこの年をもって「立教開宗」(浄土宗が開かれた年)としている。

そして今回ご紹介する御法語の後半に出る善導大師『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文

「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定業(しょうじょうのごう)と名づく、彼の佛の願に順ずるが故に」を「立教開宗の文」と呼び、非常に大切なものとしている。

法然上人はこの一文に出会うことで、大きな宗教的な転換(改心)をされたのである。

なぜならここには「聖者ではない凡夫であっても救われる」浄土門の道が、「弥陀の名号を念じ」という実践の容易な方法論とともに明示されており、法然上人自身がこの教えによって救われ、この教えこそが修行を完成できる環境ではない末法濁世(まっぽうじょくせ)の世界に最も適合した教えであり、教えを求める全ての人に開かれた教えであることを確信されたからである。

浄土宗は、法然上人のこの確信から始まった。

 

戒定恵(かいじょうえ)の三学(さんがく

仏教の実践を3つの側面から整理したもの。

 

第一に「戒」とは修行者に求められる行動の規範。仏教者が心がけるべきいましめ。

第二に「定」(禅定 ぜんじょう)とは心の散乱を防ぎ、平静に保つ実践法。

第三に「慧」(智恵)とは煩悩に曇らされない眼で、すべての物事の真実の姿を見極める智慧の事。

 

小乗(しょうじょう)

原語で「ヒーナヤーナ」といい、小さな(つまらない)乗り物の意味。

自己の宗教的な目的の達成を優先し、他者の救済や導きを軽視する立場とされる。

 

大乗(だいじょう)

原語で「マハーヤーナ」といい、大きな(優れた)乗り物の意味。

自己の悟りよりも他者救済を重視し、多くの人々を仏陀と同じ悟りに導く事を目指す立場とされる。

 

顕教(けんぎょう)

経典に記された言葉や文字で明らかに説き示された教え。密教以外の仏教のこと。

 

密教(みっきょう)

経典の言葉には明示されない真理を、秘密の教義と儀礼によって伝承しようとする立場。

 

人師(にんじ)釈して

権威ある仏教者を指す。ここでは天台教学の大成者である中国の天台大師智顗(538~597年)を指す。釈迦の一代仏教を段階的に組織立てて整理した当代一流の大学者であり、南岳慧思(なんがくえし)に親しく禅を学んだ実践者でもあった。

 

尸羅(しら)

サンスクリット語の「シーラ」の音を写した語で、三学の「戒」と同じ。

 

三昧(さんまい)

サンスクリット語の「サマーディ」の音を写した語で、三学の「定」と同じ。

心を一つのものに集中させて、安定した精神状態に入る事を目指すインドに伝統的な実践方法。

 

無漏(むろ)の正智(しょうち)

「漏(ろ)」とは煩悩の汚れの事、「無漏」は煩悩に汚されないものという意味で、「無漏の正智」とは、煩悩に汚されない眼で正しくあるがままに物事を見る事ができる聖者の智恵の事。

 

悪業煩悩(あくごうぼんのう)

「悪業」は仏教的な観点からみた〈悪い行い〉、「煩悩(クレーシャ)」は〈汚れた心〉という意味だが、仏教ではそれが転じて、私たちを悩まし、損ない、誤りに導く〈善くない心〉全般を「煩悩」と呼ぶようになった。

 

解脱(げだつ)

迷妄の束縛から開放されて完全に自由になること。仏教では〈悟り〉〈涅槃〉に同じ。

 

経蔵(きょうぞう)

三蔵の一つ。「三蔵」とは全ての仏教典籍を集成したもので、「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」からなる。「経蔵」とは仏陀の言葉の集成である経典、「律蔵」とは修行者の行動規範や教団の運用規則の集成、「論蔵」とは経典の解釈から始まり、仏教の教えを思想的に純化させ哲学として独立させた典籍の集成。

ここでは「経蔵」は、巻物としての仏教典籍を集め収めた蔵のことを指している。

 

善導和尚(ぜんどうかしょう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)

善導和尚は唐代中国の学僧で、浄土思想家であり実践者。称名念仏(口で称える念仏)による凡夫の往生が可能である事を主著『観経疏(観無量寿経に対する註釈書)』で開示し、法然上人の浄土思想に多大な影響を与えた。法然上人は、「偏依善導(ひとえに善導による)」と言われたように、善導をみずからの思想と行動の軌範とし、最大の信頼を寄せていた。

 

【現代語訳】

同じ仏教でも、非常に数多くの教えが説かれているが、要するに仏教は〈戒定慧〉という「3つの実践」に収めることができる。

この考え方によれば、いわゆる小乗仏教には小乗仏教の〈戒定慧〉があり、それに対し大乗仏教には大乗仏教の〈戒定慧〉が存在する。同じく顕教には顕教の、密教には密教の、それぞれの〈戒定慧〉があるということになる。

しかしながら、じつのところ私は、このように仏道の基本柱である〈戒定慧〉という実践のうち、〈戒律〉ではただ一つの戒を守ることもできず、〈禅定〉を行っても何一つ上達することがない(ことを告白する)。

ある高僧が言うには、「戒を守りその身を清らかに保つことができないならば、禅定において心を集中させ、仏を眼前にありありとまみえる境地になど達することができない」ということだ。

また私たち凡夫(能力が特別に優れているわけではない普通の人)の精神状態というのは、常に目の前のものにとらわれて移ろいやすく、まるでサルが木の枝を次から次へと飛び移っていくかのようなもので、一瞬たりとも心を落ち着けて一つの対象に集中しているということができない。

そのような状態の私たちに〈正しくあるがままに物事を見る汚れのない智慧〉は、いったいどのように生じるというのか?

またもしこの〈優れた智慧〉がないとするならば、いかにして〈悪い行いや汚れた心〉を断ち切ることができるというのか?

そのようにして〈悪い行いや汚れた心〉を断ち切ることがなければ、いかにして生まれ変わり死に変わりを繰り返す私たちのこのからだを、迷いの束縛から解放させることができるというのか?

ああ、なんと悲しいことか。このままでは苦しみからの解放もかなわず、迷いの生死を繰り返すばかりではないか?

いったいどうすればよいというのか?

そうだ、私たちのような存在は、仏道修行の要である〈戒定慧〉という「3つの実践」に耐えることができる器量ではないのだ。

ではこの〈戒定慧〉以外に、愚かな私に見合う教えはあるだろうか?

この私に耐えられる修行はあるだろうか?

このように考え、たくさんの賢者や学者を訪ねたが、ついに答えは見出せず、道を示してくれる者はいなかった。

 

そうした中、悲嘆に暮れならがらも、経典を収蔵した蔵にこもり、今一度、仏や偉大な先達の尊い言葉の数々を、それこそ手あたり次第に一つ一つ隅から隅まで目を通してみた。

すると、中国の善導和尚が記した『観経疏』の中の一節に、

「ただひたすらに阿弥陀仏の名前を念じ、歩くときも、立ち止まるときも、あるいは座るときも、立ち上がるときも、およそ日常生活のあらゆる場面で、時間の長さにこだわらず、仏の名前を念ずることを止めないこと、これを〈正しく定まった行い〉であると名づける。なぜならば、これこそが阿弥陀仏の本願にかなった修行であるから」

という一文を見出したのだ。

この言葉に出会い、私たちのような智慧のない凡庸な存在は、ただひたすらにこの一文を仰ぎ、もっぱらここに言われた道理を信じて、常に口に出して称える念仏を実践し、それを保ち続けることで、必ず極楽往生が遂げられるように備えるべきであると思い至ったのである。

 

 

ここで法然上人は、自らの内面と、自らの置かれた状況とを、まことに正直に語っておられるように思う。ここでは、上人自身が仏道修行に耐えられる器ではないという。もっと言えば、修行を重ね学問を積んでも、一向に修行の完成が見えない焦燥と絶望さえ感じられる。

伝えるところによれば、上人はその持戒堅固な清僧ぶりが評価され、学徳兼備誉れ高いといわれていた。その上人ご自身が、自分は修行に耐えられず成仏もできない凡夫であると言い切っているのである。

また同時に、そうした存在であるにも関わらず、仏により救われる道があると明言されているのである。それが、阿弥陀仏の誓いを信じ、それに乗じようとする念仏の道である。

まずは思う。このインパクトはいかほどのものだったか?

当時、法然上人のもとにはせ参じた者たちは、確信したに違いない。

この方こそが本物の聖者であり学者ではないか?

もしくは、この方であれば全幅の信頼を寄せるに足る人物なのではないか?

 

当代一流の学者が、他人事ではない自身の問題として、仏法を考え抜かれた、そして末法の渦中にある当事者として、実存の問題を克服し見出された結論、それが念仏による往生の道だった訳である。

私は今一

度、当時の仏教界に法然上人の「立教開宗」が与えたであろう衝撃を思い、その意味をかみしめたいと思っている。

合掌

和尚のひとりごとNo147「六物」

 

お寺さん(お寺の住職)のお葬儀は、お寺の本堂でされますがその設え(しつらえ)(本堂の飾りつけのこと)は一般の方とほとんど変わりませんが、棺前には、六物(ろくもつ) 法衣(ほうえ) 数珠(じゅず) 錫杖(しゃくじょう) 三部経(さんぶきょう) 伝書(でんしょ) 血脈譜(けつみゃくふ)が備えられていました。

六物とは、僧侶が常に持つべき六種類の生活必需品のことです。

僧伽梨(そうぎゃり) 鬱多羅僧(うったらそう) 安陀会(あんだえ)というお袈裟と鉢(托鉢の時に持っている鉢です)、座具(座る時に下に敷く敷物)、漉水囊(ろくすいのう)(飲み水を漉すための袋で、飲むときに水中の虫を殺さないためのもの)です。

法衣は僧侶が着ている衣です。

三部経は、浄土宗の教えの根本となるお経 無量寿経 観無量寿経 阿弥陀経の三部です。

伝書とは、僧侶が宗派の教えを師匠から伝えられ、弟子に伝える時に使われる書物のことです。

血脈譜(写真では巻物にあたります)とは、お釈迦様の教えが師から弟子に途絶えることなく受け継がれていくことを身体の血管が途切れることなく連なっていくさまを血脈にたとえ、その系図のことです。

備えられている血脈譜の最後には往生された住職の名前が記され、教えを受け継いでいることを表しています。

僧侶の葬儀に参列する事はあまりないかもしれませんが、参列された時の参考にして頂きたいと思います。

 

 

和尚のひとりごとNo146「水に源あり 樹に根あり」

 

 アメリカの某州立大学で生物学者が面白い実験をしました。砂を入れた小さな四角い箱の中で、水を与えながら一粒のライ麦を育てます。四ヶ月後に砂をふるい落とし、ライ麦の根がどれ位張り巡らされているかを計測しました。その結果、根毛や顕微鏡でしか見えない根の最細部をも含めると、何と一万一千二百キロメートルの長さになっていたというのです。風にそよぐ一本のライ麦がその貧弱な体を支える為に、やがて実を結ぶ為に一万キロメートル以上もの根を隅々に張り巡らせて、必死で水分や養分を吸い上げていたのです。ではこのライ麦に比べて数十年も生きていく、我々人間の命を支えているものは一体何なのでしょうか。私達人間が生きていく為には、食べ物は勿論、空気や水、太陽の光など肉体を支える為のものが必要です。また人間は精神を持った存在ですから、希望、信念、勇気や愛情といった心を支えるものも必要です。そしてまた、長い人生の中で無常観や無力さを知った時には、しっかりとした宗教というものも必要になります。19nigatu

 肉体は父母から戴いた身体であります。中国浄土教の祖であります善導大師が書かれた『観無量寿経疏』序文義に「すでに身を受けんと欲するに、自らの業識(ごっしき)を持って内因(ないいん)となし、父母の精血(しょうけつ)をもって外縁(げえん)となして因縁和合(いんねんわごう)するが故にこの身あり」と説かれています。業識とは母体に宿る人間の主体となるもので、業(行為)によって生じる識(物事を識別する事の出来る心の働き)です。つまり父と母の肉体的な縁があって、その和合によって前の世からの自らの業(行為)による個別の意識が内に宿ると説かれるのです。この業識が次の世に生まれ変わっていくとされております。兎にも角にも父母の肉体がなければ今の自分は存在しない事になります。ですから先の善導大師の書物には「この義をもっての故に父母の恩重し」と説かれます。更に父母にも又その父母が居られます。遡れば多くのご先祖様がしっかりと生きてくださったからこそ今の自分が居る事になるのです。

 

   今日の幸せ先祖のおかげ 尊い命大切に

 

   咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ

 

 肉体はいずれ無くなります。今この世における人間の寿命というものは限られているからです。しかし命尽きたらそれで全て終わりではなく、南無阿弥陀佛とお念仏をお称えしたならば、命尽きた後、阿弥陀様にお迎えに来ていただいて必ず西方極楽浄土に往生させていただけるというのがお念仏の御教えです。お念仏を申すという行為が蓄積され、それが業識となり次の世、西方極楽浄土に参らせていただくのです。冬になると枯れてしまう植物ですが、実は大地に根を下ろし、コツコツと何万メートルという細い根を張り巡らせて実を付ける為の準備をしています。私達も命尽きた後には、お浄土に往生させていただくというその実を結ぶ為に、植物がしっかりとした根を張り巡らせているが如く、日々共々に南無阿弥陀佛のお念仏の功徳(くどく)を積ませていただきましょう。

法然上人御法語第一

第1 難値得遇(なんちとくぐう)

~教えに出会えたありがたさ~

 

【原文】

それ流浪三界(るろうさんがい)のうち、何(いず)れの界(さかい)に趣(おもむ)きてか 釈尊(しゃくそん)の出世(しゅっせ)に遇(あ)わざりし。輪廻四生(りんねししょう)の間(あいだ)、何れの生(しょう)を受けてか 如来(にょらい)の説法(せっぽう)を聞きかざりし。

華厳開講(けごんかいこう)の莚(むしろ)にも交わらず、般若演説(はんにゃえんぜつ)の座にも連ならず、鷲峰説法(じゅぶせっぽう)の庭にも臨まず、鶴林涅槃(かくりんねはん)の砌(みぎり)にも至らず。我れ舎衛(しゃえ)の三億の家にや宿りけん。知らず、地獄八熱(じごくはちねつ)の底にや住みけん。恥ずべし、恥ずべし。悲しむべし、悲しむべし。

まさに今、多少曠劫(たしょうこうごう)を経ても生まれ難き人界(にんがい)に生まれ、無量億劫(むりょうおっこう)を送りても遇い難き仏教に遇えり。釈尊の在世(ざいせ)に遇わざる事は悲しみなりといえども、教法流布(きょうぼうるふ)の世に遇う事を得たるは、これ悦(よろこ)びなり。譬えば目(め)しいたる亀の、浮き木(うきぎ)の穴に遇えるがごとし。

我が朝(ちょう)に仏法の流布せし事も、欽明(きんめい)天皇、天(あめ)の下を知ろしめして十三年、壬申(みずのえさる)の歳(とし)、冬十月一日、初めて仏法渡り給(たま)いし。それより前(さき)には、如来(にょらい)の教法(きょうぼう)も流布せざりしかば、菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)いまだ聞かず。

ここに我等、いかなる宿縁(しゅくえん)に応え、いかなる善業(ぜんごう)によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱(しょうじげだつ)の道を聞く事を得たる。

然るを、今、遇い難くして遇う事を得たり。徒(いたず)らに明(あ)かし暮らして止(や)みなんこそ悲しけれ。

☆出典 「登山状」昭法全四一六

 

【ことばの説明】

流浪三界(るろうさんがい)

大海で波に押し流されるように、迷える衆生(生き物)が苦しみや悩みにほんろうされて生きているさま。三界とは三つの世界。欲望が強い者が住む「欲界」と、欲は離れたが、美しさや姿かたちにとらわれた者が住む「色界」と、欲も色も離れた神々が住む「無色界」の事。

 

華厳開講(けごんかいこう)鶴林涅槃(かくりんねはん)

かつてお釈迦が悟りを開かれて最初に説いたのが『華厳経』の教えだった。しかしあまりに難解だった為、わかりやすい『阿含経』を説いた。そののち人々の理解の度合いに応じて、『般若経』や『法華経』、『涅槃経』などを段階的に説いたと言われている。

ここで法然上人は、

法然上人ご自身がいままでに無数の生まれ変わりを繰り返してきたにも関わらず、仏教を開いた釈迦が説法する場にも居合わすことができず、会うことすら叶わなかったことを心から嘆かれているようだ。

 

舎衛(しゃえ)

古代インドのコーサラ国の首都シュラーヴァスティーのことで、釈迦がその生涯で最も長く滞在し、多くの教えを説いたとされる仏縁の厚い土地。数多くの仏典で釈迦の説法の舞台となった。

 

地獄八熱(じごくはちねつ)

熱と焔で苦しめられる八種の地獄。八大地獄のこと。

 

欽明(きんめい)天皇(五一〇~五七一)

第二九代天皇。その治世中、朝鮮半島の百済王が仏像や経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来したと伝えられている。

 

菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)

覚りへと至る道、つまり仏教の教えや修行のこと。

 

 

【現代語訳】

私自身も、いままで〈三界〉といわれる苦しみや悩みの尽きることのない世界をさまよい、何度も何度も生まれ変わりを繰り返してきた。

それなのに、私はついに仏教を開かれたあの釈迦が説法する場に参加する機会に恵まれず、お会いすることもかなわなかった。

例えば、釈迦が、インドのガヤ村の菩提樹の下で悟りを開いたのち、最初に説かれた〈華厳の教え〉にも、さらにのちになって説かれた〈空の智恵の教え〉にも、あるいは<グリドラクータ山(鷲の峰)で8年かけて説法された法華経の教え>にも、<サーラ双樹のもとで説かれた最後の説法である涅槃の教え>にも、ついに間に合わなかった。

どうしてなのか?

あれほど生前の釈迦とご縁の深かったシュラーヴァスティー国の住民九億人のうちにさえ存在した、ついに釈迦の名前さえ聞かなかったという縁薄き三億人に、私自身がが含まれていたとでもいうのか?

あるいは、まさにその時この世ならぬ〈地獄〉の底で苦しみの境涯にあったとでもいうのか?

ああ、あまりにも恥ずかしいことだ! あまりにも悲しいことではないか!

しかしながら、果てしなく多くの生まれ変わりを経て、今まさに、他ならぬ人間として生を受けたのだ。そして計り知れないほどの長い時間をかけてもめぐり合うことの難しいとさえ言われる、仏の教えにめぐり合えたのだ。

かの釈迦が生きて、実際に説法されている時にはお会いできなかったことは残念だが、仏の教えが広まっている世界にこのように生を受けられたことは、まさにこの上ない喜びである。

もしこれを喩えるならば、大洋の深海の底に住む目が不自由な一匹の亀が、ただ闇雲に空気を求めて遥か水面を目指したところに、たまたま流れてきた流木に空いた小さな穴から、頭を水面に出して呼吸することができたとするならば、まさにこれと匹敵するくらいの確率でしかない偶然なのだ。

そもそも、思い返してみれば、私たちの国の長い歴史の中で、日本に仏教が伝わったのは〈欽明天皇の治世十三年目の冬、十月一日〉であり、それ以前に仏の教えが存在したわけではない。それより以前は、〈悟りへ至る道〉である仏教について、この国で知る者はいなかったのだ。

どのような前世からの縁によるものか? どのような善い行いを積み重ねてきた結果だというのか? 私たち自身には知る由もないが、なんと私たちは、苦しみや迷いの境遇から脱け出し離れる道である仏教をたずね実践することができるのである。

それなのに、ただなんとなくぼんやりと日々を過ごそうとしている。

これをやめられないことこそ、悲しむべきことではないか?

 

 

さて、ここに法然上人は残されている内容について、私が大切だと感じるのは、法然上人の仏法に対する熱い思いと情熱です。

確かに、いくら憧れてもいくら焦がれても、もう釈迦族に生を受けた覚者ゴータマブッダの生身の説法を聞くことはかなわないかもしれません。しかしながら私たちには、釈迦が残された言葉があり、教えを実践する環境があります。果てしない生まれ変わりの中で、このようなご縁に恵まれたことは、まさにぎょうこうであり、文字通り有難いことである。

法然上人はそう仰りたいのではないでしょうか?

合掌

和尚のひとりごとNo144「お念佛からはじまる幸せ」

 

 昔の方が「幸せ」の三要素として、「幸せ」に成る為の三つの事柄を挙げておられます。それは「身」「命」「財」の三つです。「身」とは「健康」で、「命」は「長生き」、そして「財」は「お金」です。

 

 幸せはいつも三月花の頃 お前十九でわしゃ二十歳

死なぬ子三人親孝行 使うて減らぬ金百両 死んでも命が有るように

 

 「身」「命」「財」は誰もが願う事ではありますが、全てとなるとなかなか叶わぬ事であります。それでも今の日本はどうでしょうか。有難い事に世界一の長寿国です。住む家も一日中春の陽気な室温に保つ事も出来ます。皮肉な事に寝たきりになったとしても命を延ばす高度な医療技術も御座います。贅沢さえ言わなければ何不自由なく暮らせる国にまで栄えました。しかし人間の欲望は尽きぬものであります。お釈迦様は「人間の欲望というものは、たとえヒマラヤの山を黄金に変えたとしても満たされる事はない」と仰られました。ヒマラヤはインドの北部、チベットに有る世界一高い山です。その世界一高い山を全て黄金に変えたとしても一人の人間の欲望をも満足させる事は出来ないものであると示されました。お金、財産があるが故に身を持ち崩し夫婦別れをする人も居れば、お金が無くても夫婦仲良く幸せに暮らしている人も居ます。人の生き方はお金の多少、有る無しで決まるものではありません。その事は「身」と「命」にも言える事でもあります。結局は持つ人の心次第、受け取って行く側の器一つで毒にも薬にもなるのです。

 

 持つ人の心によりて宝とも 仇(あだ)ともなるは黄金(こがね)なりけり

 

 この御歌は昭憲皇太后、明治天皇の皇后がお詠みになられた御歌です。人生は、目に見える「物」の世界と、目に見えない「心」の世界が一つになって成り立っています。目に見える物資的なものが「物」の世界で、信仰や精神的な支えとなるものが目に見えない「心」の世界です。しかし今の世の中はお金が物言う世界と言われる程、金と物の世の中で人間の「心」が全く失われた社会と言われます。「物」で栄えて「心」で滅びる時代であります。「物」と「心」が程よく調和されてこそ始めて世の中は暮らしよくなるものです。19itigatu

 お念佛を毎日称えたとしてもお金持ちになったり、健康や長生きが保証されるものではありません。しかしお念佛を申して仏様に思いを寄せ、ご先祖様のお陰で今の生活があるのだと思い定めていただければと思います。共々にお念佛の日暮らしをさせていただいて豊かな心を育ませていただき、今年一年幸せ、今日一日幸せと思える日々を過ごして参りましょう。

和尚のひとりごとNo143「運慶」

 

私たちが、お寺で合掌させて頂いている仏さまのお像(仏像)を作製されている方を仏師と呼びます。仏師とは、あまり聞きなれないかと思いますが、歴史的に有名なのが、運慶 快慶です。このお二人の名前は、一度は聞いたことがあるかと思います。

今回は、運慶についてご紹介させて頂きます。

 

運慶は平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍されたかたです。

この頃の仏師は大きく三つのグループに分かれており、名前に「院」がつく「院派」、「円」がつく「円派」そして「慶」がつく「慶派」です。

院派 円派は京の都を中心に活動し、慶派は南都(奈良)を中心に活動していました。

運慶は「慶派」に属しています。

 

平安時代の仏像は衣文(えもん)(仏さまがまとっている衣)が浅く体が薄い仏像が主流でしたが、運慶は、肉厚で力強い姿で写実的なたくましい姿の仏像を造っていきました。有名なのが、東大寺南大門の金剛力士像です。konngourikisi

このお姿の仏像は、当時台頭してきた武士階級に支持され京の都だけでなく東国(鎌倉)にまでその活動範囲ひろげていきました。

 

法然上人と同じ時に活躍されていましたが、お二人がお会いしたことがあるかは、史料がないので不明ですが、法然上人は、運慶を高く評価されていたようです。

法然上人のご法語(法然上人の手紙や言葉を集めたもの)の第二十にその名前をみることができます。

第二十           難修観法

 近来の行人、観法を、なす事なかれ。

仏像を観ずとも、運慶快慶が、作りたる、佛程だにも、観じ顕すべからず。

極楽の荘厳を、観ずとも桜梅桃李の、花菓程も、感じあらわさん事、かたかるべし。

彼の佛今現に世に在して成仏し給へり。

まさに知るべし、本誓の重願虚しからざる事を。

衆生称念すれば、必ず往生を得の、釈を信じて 深く、本願を頼みて、一向名号を唱ふべし。名号を唱ふれば、三心自ずから具足する也。   『 勅伝 第二十一 』

「口語訳」

近頃の修行者は瞑想にふける観方を修行しなくてもよい。

たとえ仏の相好を観方したとしても、運慶や康慶という大仏師がつくり上げた仏像ほどに立派な姿を観じ現すことができない

極楽浄土の荘厳を観想したにしても、この世の桜、梅、桃、李の花や果実ほどに美しく観じ現すことは難しいであろう。

善導大師が「阿彌陀佛は現にとなって極楽浄土にまします。

このことによって四十八願のすべてが成就されていることを知るのである。

もし、人が念仏を唱えれば必ず極楽往生ができる」と説いている言葉を信じ、

心から本願を頼んで一向に念仏を唱えなければならない。

一向に念仏を唱えさえすれば、自然に三心が具わるのである。