和尚のひとりごとNo132「お念仏のありがたさ」
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」
(決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい)。
浄土宗の開祖、法然上人が残された御遺訓『一枚起請文』の一文です。
私たち浄土宗の教えは、お念仏を称えることで阿弥陀さまのいる極楽浄土に往生することを目指す教えです。
そしてこの「お念仏」も、極楽というすばらしい仏国土への往生を心から願い、ただ「南無阿弥陀仏」とお称えするだけでよい、そうすれば必ず、臨終(りんじゅう)ののち、迷わずかの地へ生まれ変わることができると言われています。
法然上人の当時、覚りを開くためには、難しい学問や厳しい修行が求められ、あるいは心の安心を得るためには、経済的にも大きな負担となる功徳を積む必要がありました。
それに対し、法然上人が求道の艱難辛苦(かんなんしんく)の末に確信されたのが、「凡夫が、こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、かならず浄土に往生ができる」ことであり、お念仏のみによる往生が既に阿弥陀仏により約束されているという事実でした。
現実には、私たちは、生きている限り、本当にさまざまな煩悩に悩まされ、翻弄(ほんろう)されています。
決して満足を得られないお金やモノへの欲望、解消されない苛立ちや怒り、あるいは悲しみやむなしさといった感情。
お念仏は、これら私たち自身のこころの動揺(どうよう)や煩悩も抑えてくれるのです。
浄土宗が勧めるお念仏は、だれでも、いつでも、どこでも、思い立ったらすぐにでも実践できる行であります。
お念仏を実践し心が阿弥陀さまに向かえば、必ず、今度は阿弥陀さまの慈悲の光が私たちを照らし、こころの平静と安らぎを得、臨終ののちの往生も約束されるのです。
皆さまも、是非とも、日々の生活の中でお念仏を称えてみてください。
お念仏により、皆さまがこころの安らぎを感じるとともに、往生への確信を得、
人生を豊かで意義深いものにして頂けるならば、それこそが、お念仏のご利益であり、ありがたさであると思います。
合掌
和尚のひとりごとNo131「人柄はその一言にあらわれる」
我が子が、自分と同じ言葉を使っていてドキッとした経験はないでしょうか。或いは自分の話す口調、口癖、仕草がどことなく親と似ていると感じたり、指摘された事はないでしょうか。子供は育った環境で親の姿を見、育てられた身近な大人の真似をして成長していきます。長年共に過ごしていると必然的に似てくるものであります。
お釈迦様とその弟子が修行中に町を歩いていた時、道端に一本の縄が落ちていました。弟子がその縄に近づいて行くと、その縄から魚の腐った様な嫌な臭いがしたので、「この縄は臭くてとても使い物になりませんね。綺麗に洗って干しておきましょう」とお釈迦様に伝えました。またしばらく歩いていると、今度は綺麗な紙が道端に落ちていました。弟子がその紙を拾うと、その紙からは良い香りがしたのでお釈迦様にお渡しし、「先程の縄もこの紙も、元々は匂いが無かったと思いますが、どうしてこの様な違いが有るのでしょうか?」と尋ねました。するとお釈迦様は、「お前の言う通り、先程の縄もこの紙も元々は匂いが無かった。しかし、先程の縄は恐らく、釣った魚を縛っていたので嫌な臭いが付いたのであろう。そしてこの紙は、良い香りのするお香を包んでいたのであろう。だから良い薫りがするのである。我々人間も同様、日々の行いが知らず知らずのうちに体に染み込んでいくのです。その事を肝に銘じて修行していく事が大切ですよ」とおっしゃられました。
体に染み込んでいく働き、匂いをつけていく働きを「薫習(くんじゅう)」と言います。物に香りが染み付く様に、考えや行為が人の心の奥深くに影響を与え蓄積されていく事を言います。また仏道修行を身につけていく事も「薫習」と言います。香りというものは目に見えません。しかし、お釈迦様のお話の様に在る事は確かです。お香を焚くと衣服にその香りが浸み込んでいきます。お香が無くなっても、浸み込んだ香りはいつまでも衣服に薫っています。薫習とはその様なものです。良い経験だけが都合よく浸透してくれるわけではありません。見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触った、考えた、良いも悪いも全て否応無く貯蔵されていくのです。善い行いを身につけていけば我が心も善きものとなり、悪い行いが身につくと我が心も悪いものとなります。
人は生まれてから死ぬまで沢山の言葉の中で過ごします。家庭でも仕事場でも情報伝達の手段に言葉は不可欠です。そしてその言葉はその人の性格、心、人格そのものを映し出します。長年蓄積された言葉遣いがその人そのものとも言えるでしょう。出来る事ならば正しい言葉遣いで、日々善い行いを習慣づけて参りましょう。
和尚のひとりごと「浄土宗総大本山巡る旅第一回」
浄土宗大本山 金戒光明寺、百万遍知恩寺 団参日帰り心の旅
平成30年5月8日 曇り空のなか京都へ出発しました。
午前中に金戒光明寺さんに参拝、堂内を案内していただいた上人(お坊さん)のお話がおもしろく、「虎の間」では三匹の虎が描かれているふすま絵を開けると虎が二匹になるというお話も笑い声につつまれながら聞きました。
写真撮影が禁止だったのでお見せできないことが残念ですが、今回は貴重なお像も拝見させて頂きました。法然上人の涅槃像です。厨子(ずし)に入ったお像で普段は公開されていないそうです。私も初めて拝見しました。
金戒光明寺さんには、法然上人の手形(一枚起請文の原本には法然上人の手形が押されています)を写したものがあり、手をあわさせてもらい、法然上人の手が小さかったことに驚きました。案内の上人(お坊さん)のお話では、手形を押したときは、亡くなる少し前で、力強く押せなかったからからとのことでした。
昼食のあとに、百万遍知恩寺さんに参拝、知恩寺さんといえば、百万遍大念珠繰りです。
大殿(だいでん)にて百万遍大念珠の数珠繰りをしました。
大殿とは、法然上人をお祀りしているお堂で、御影堂(みえいどう)とも呼びます。
お話して頂いた知恩寺さんの上人(お坊さん)によると、百万遍の法然上人のお像が若く一番ハンサムな姿をされていますとのことでした。確かに、凛々しいお姿をされていました。
参加された檀信徒の皆さまもよい一日だったと喜んでいただけました。
10月に予定している「鎌倉の大本山光明寺と大本山増上寺 団参一泊二日の旅」に皆さまの参加を玉圓寺一同お待ちしています。
和尚のひとりごとNo129「心の弦 張り過ぎず ゆる過ぎず」
梅と塩で「あんばい」と読みます。程度、具合、加減の事で、本来は「えんばい」と読み、塩と梅酢を合わせた調味料の事でした。その味加減の丁度良い物を「えんばい」と呼んだそうです。また「按排(あんばい)」という言葉もあり、上手く処置する事や、具合の良い事を意味し、「塩梅(えんばい)」と「按排(あんばい)」の意味が良い具合にするという点で似ていた為、「塩」と「梅」の「えんばい」も「あんばい」と読まれるようになったそうです。お風呂に入って丁度良い湯加減の時に、「良い塩梅」と言いますが、熱くなし、ぬるくなしが「良い塩梅」であります。
お釈迦様の弟子にソーナという大層真面目で熱心な修行僧が居られました。毎日毎日、朝から晩まで一生懸命に修行を積む弟子でありましたが、いくら修行を積んでもなかなか悩み、苦しみを断ち切れない。それどころか次から次へと欲望が込み上げてくる。少しも心安らぐ事がないと嘆かれていたそうです。もう諦めて、修行を辞めてしまおうかと思い詰めていた時、お釈迦様はソーナに声をかけられました。
「ソーナよ、琴はどの様に弾けば良い音が出るであろうか。良い音で響くであろうか。琴の弦を強く張り過ぎれば、音は詰まって響かない。それどころか強く弾きすぎると弦が切れてしまう。だからと言って弦が緩すぎては振動する事もなく音も出ない。張り過ぎず、ゆる過ぎず、丁度良い加減の時に良い音が生まれるものです。真面目に熱心に修行する事は大切ですが、適度の余裕、心のゆとりも忘れてはなりませんよ」と申されました。
浄土宗をお開き下さった法然上人は一日に六万遍、七万遍ものお念仏を申され続けたそうです。我々にはなかなか修める事の出来ない数であります。しかし或る人が法然上人に、「お念仏を申している時に眠たくなって、ついついお念仏のお勤めを怠ってしまいます。こんな時はどうやって、この妨げを除けばよいのでしょうか」とお尋ね申したところ、「目が覚めた時にお念仏を申されたら良いでしょう」とお答えになられたと言います。大層尊い事であります。我々には無理せず、唱え続け易い仕方を御教導くださいました法然上人であります。
ソーナの様な加減の過ぎた修行ではなかなか続かないものであります。一日に六万遍ものお念仏はなかなか修められない我々であります。何事も張り過ぎず、ゆる過ぎず、良い塩梅が勤め易いものです。お念仏も日々の生活におきましても、無理せず良い塩梅を心がけ、日々穏やかに過ごして参りましょう。
和尚のひとりごとNo128「50回忌」
先日、「50回忌は、お祝いだから赤いロウソクを立てたほういいと聞いたのですが、どうしたらいいですか」と聞かれました。
宗派や地域の習慣によって違いがありますが、50回忌は、お仏壇の開眼法要と同じく慶事(お祝い事 おめでたい事)の法要でそので、赤いロウソクやお赤飯などをお供えし、お布施の袋は紅白の水引のものを使うところが多いようです。
なぜ慶事かというと、50回忌で、故人さま一霊のご供養から、先祖代々各々之精霊の一霊としてご供養にさせていただくことがおおいですが、そのことがおめでたいわけではなく、50年というのは、家が子の世代から孫の世代へと変わるぐらいの年月であり、それだけ家が続いたことがおめでたいわけです。そして、長い間ご供養させていただくことができたことのお祝いという意味があるようです。
また、別の方の年忌法要と重なる場合は、年忌法要に合わせたお供えが良いかと存じます。
赤いロウソクを使うのは習慣的なもので、絶対にしなければならないということではないからです。
初めの質問に対しては、「赤いロウソクがあれば使ってください。なければ、普段使っているものでいいですよ」というのが答えになります。
大切なのは供養する心です。心がこもっていれば、赤でも白でもどのような色のロウソクでもよいかと思います。
和尚のひとりごとNo127「天上天下唯我独尊」
この地球上には沢山の生物が住んでいます。人間を含め、あらゆる動物、昆虫、微生物が共存しています。名前が付いているだけでも120万種類、未発見のものを含めると800万種類とも1000万種類以上とも言われています。その一つ一つを数え上げると恐ろしい数字になります。その中で人間として生まれ出る確率を計算された方がおられます。人体構造からその確率を計算すると、およそ1400兆分の1だそうです。又ある学者さんは1億円の宝くじに100万回連続して当たる確率と計算されました。いずれにしてもこの世の中に今、人間として生まれ出、私という自分自身が生きている事は奇跡と言えるでしょう。仏様の教えを説かれたお釈迦様はこの奇跡を「盲亀浮木の譬え」としてお説きくださいました。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀が住んでいる。その目の見えない亀、盲亀が百年に一度、海面に顔を出す。また広い海には一本の丸太の木が浮いていて、その木の真ん中には小さな穴が空いている。亀の顔が出る位の小さな穴。その浮木は風の吹くまま波に揺られ、東へ西へ、北へ南へと漂っている。そして百年に一度浮かび上がる盲亀が、浮かび上がった拍子に、たまたまこの浮木の穴にヒョイと頭を入れ、穴から顔を出す事があるであろうか?人間に生まれるという事はこの盲亀が浮木の穴から顔を出すよりも難しい事である」と説かれました。
以上が「盲亀浮木の譬え」というお話で、人間に生まれ出た有り難さ、今、生きている事の尊さをお説きくださいましたお釈迦様であります。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とは、お釈迦様が誕生した時に七歩歩まれ発せられた言葉です。六道という六つの苦しみの世界を抜け出る教えを説かれたので七歩歩まれたとされ、右手で天を左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言葉を発せられたというお釈迦様を崇め奉っての御伝記です。「この世の中に唯一無二の存在として生まれた出た自分であり、誰とも代わる事の出来ない人間として、この命のままで尊い」という意味であります。人の価値は他人と比較して優劣を決めるものではありません。人はそれぞれ他の人にはない持ち味があり、その持ち味を生かし、それぞれが自分らしく生きていく事が大切であります。
無駄な命、無意義な人間は存在しません。人それぞれ果たすべき大事な使命、生きる意義があるものです。お互いの役割を尊重しながら、社会の一員として生活して参りましょう。
和尚のひとりごとNo126「五存七欠」
お経はインドの言葉であるサンスクリット語から中国語に翻訳されていることは、和尚のひとりごとNo123で紹介いたしましたが、今回は浄土宗の経典である「浄土三部経」の翻訳にまつわるお話です。
「無量寿経」と「阿弥陀経」のサンスクリット語の経典名は同じで「スカーヴァティー・ヴィユーハ」といい、「極楽の荘厳」「極楽の美しい様子」という意味があります。確かに「無量寿経」と「阿弥陀経」には極楽がどんなところかが書かれています。「極楽経」や「極楽の荘厳経」などとはせずに、それぞれの経典の題名に阿弥陀様のお名前と別名(無量寿佛)が付けられたのは、翻訳された方の智恵の結晶でしょう。
翻訳の歴史ミステリーとまでは、いきませんがちょっとした謎があります。それは、「無量寿経」の「五存七欠」(ごぞんしちけつ)と呼ばれるものです。
「無量寿経」は12回翻訳されたとありますが実存しているのは5部で残りの7部が現存していないことです。
現存しない7部は、経典名や誰が翻訳したという記録なども残っているようですが、不思議なことです。
このような経典の翻訳には、「○存×欠」という翻訳された記録はあるけれど現物がないということが多数あります。「阿弥陀経」も3回訳されているけれども2部はあり1部がない「二存一欠」があります。
現在では、この「無量寿経」の7部に関して、実は翻訳されていなかったのではないかという説が有力なようでが、真相は如何に?
和尚のひとりごとNo125「3・11」
平成23年3月11日、あれから7年。もう7年でしょうか、まだ7年でしょうか。皆様それぞれ、日々の生活に追われての7年だったと思われます。被災された方、そうでない方、大震災を期に様々な思いを抱きながら今日まで歩んでこられたと思います。しかしながら、被災地から遠く離れた地に住んで、日常を平穏に過ごしておりますと忘れがちな防災意識であります。3月11日を迎え、もう一度あの時を振り返り、今一度見つめ直す機会であります。今、私達に何が出来るのか。どの様な支援が出来、これからどの様に過ごしていけば良いのか。
人間一人一人では微力なものであります。しかし一人一人は微力であっても、同じ目的に向かい、気持ちを一つに、力を合わせて行動を共にすれば、大きな力となり、素晴らしいカタチを創り上げるものです。
今、玉圓寺に出来る事。震災でお亡くなりになった方々の御回向、復興祈願法要、檀信徒様方から頂いた義捐金を災害復興の為に役立てさせていただく事等。まだまだ必要な復興へ向けての窓口としてお役に立てればと思います。我々の住むこの美しい地球の為に、平和を願い、平穏無事な生活を願うばかりです。ご先祖様方が築き上げてきた国々。大震災を経験した日本から、世界の生きとし生けるもの全てが幸せでありますように!これからもお念仏を称えて共々に精進して参りましょう。Smile The Earth!!
和尚のひとりごとNo124「歩みの はやさ それぞれ」
『ウサギとカメ』という寓話があります。足の速いウサギと足の遅いカメが競争したところ、足の速いウサギは勝つと過信して途中で居眠りを始めてしまい、その間カメは休む事なく歩き続け、ウサギが目を覚ました時にはカメが先にゴールに辿り着いていたというお話です。過信して思い上がり、自惚れ油断してしまうと物事を逸してしまうという戒めになっています。歩みは遅くとも着実に真っ直ぐ進む事で、最終的には大きな成果を得る事が出来るという教訓であります。
仏教は信仰と修行の二本柱です。浄土宗においては南無阿弥陀仏と御念仏を申せば、最期臨終の夕べには必ず阿弥陀様に迎えに来ていただき、西方極楽浄土へ往生させていただけるという御教えが信仰です。そしてその事を素直に信じ、只ひたすら南無阿弥陀仏と御念仏を申し続ける事が修行であります。信行双修(しんぎょうそうしゅ)と言われ、信仰の「信」と修行の「行」との両方を片寄りなく修めるように教化しています。
信心についてはたった一度の御念仏で阿弥陀様は必ずお迎えに来てくださると信じ、行については一生涯続けて励むべきであると言われます。一生涯続ける事を念仏相続と申しますが、何故一生涯御念仏を申し続ける必要があるのでしょうか。それはたった一度の御念仏でも救われるからといって、毎日続けて御念仏を申していなかったら遂には口から南無阿弥陀仏の御念仏が出てこなくなり、御念仏の事すら忘れてしまう様になってしまうからであります。ですから一生涯、南無阿弥陀仏と申し続けてくださいと御念仏の相続を勧めています。
雨そそぐ 軒の下石 くぼみけり 難きわざとて 思いすてめや
軒下の硬い石であっても何年も絶え間なく雨だれに打たれ続けると窪んでゆきます。何事も休まず怯まず、急がず慌てず、辛抱強く継続して努力する事が大切です。仏道修行も休まず怯まず、急がず慌てず継続していく事が大事です。浄土宗の御念仏は阿弥陀様のお救いを信じて、ただ南無阿弥陀仏とお称えするだけの易行であります。いつでもどこでも誰にでも出来る易しい修行であります。毎日数回、数分でも結構ですので南無阿弥陀仏と共々に申し続けて日々過ごして参りましょう。
和尚のひとりごとNo123「音写」(おんしゃ)
2月に入りました。2月15日は「涅槃会」(ねはんえ)があります。「涅槃会」については、和尚のひとりごとNo41をご参照ください。
「涅槃」とは、迷いのなくなった境地、悟りを得た状態のことです。
「涅」とは、黒い土とか黒いという意味があり、「槃」は、タライ 平たい鉢のことです。ここから悟りを得た状態を意味するのは、無理があります。
お釈迦さまの時代の言葉のサンスクリット語に「ニルヴァーナ」(nirvâna)という言葉があります。この言葉の音(発音)だけをとって、漢字を当て字したものが、「涅槃」だからです。
このように言葉の音だけをとって漢字にすることを「音写」(おんしゃ)と呼び、お経には数多く用いられています。
私たちが普段からお称えしているお念仏「南無阿弥陀佛」も音写されたものです。
「南無」は「ナーモ」(namas)というサンスクリット語で「帰依する」という意味を持つ言葉を音写したもので、「阿弥陀」は、「アミターユス」(Amitâyus)と「アミターバ」(Amitâbha)と二つの言葉を音写されたものです。
「アミターユス」は「はかりきれない寿命をもつ」、「アミターバ」は「はかりきれない光明をもつ」という意味があり、どちらも阿弥陀さまのお名前で、「無量寿仏」「無量光仏」とお呼びすることも御座います。
浄土宗のお経「無量寿経」の無量寿は阿弥陀さまのことです。
音写されたものの中には、言葉の他にも、人の名前が多くあります。
「阿弥陀経」では、舎利弗(しゃりほつ)という言葉が多く出てきますが、こちらは、お釈迦さまのお弟子さんのお名前です。
音写がお経をわかりにくい物にしている要因のひとつかもしれません。
分からない単語はそういう言葉だと思って、お経を読んでみれば、少し分かりやすくなるのではないでしょうか。