和尚のひとりごとNo122「やさしい言葉を贈ろう」

 

 「鬼は外、福は内」と節分の日には掛け声をかけ、豆を撒いて、年齢の数だけ豆を食べ厄除けを行います。季節の変わり目には邪気(鬼)が生じ、それを追い払う為のお祓い行事が節分会の始まりと言われています。古来から目に見えない災禍をもたらすものに対して「鬼」と称し、お祓いの対象としてきたようです。また自分にとって都合の悪い相手に対しても「鬼」と呼び、目に見える人間を対象として悪口としても使われます。気にくわないと、ついつい他人の悪口を言ってしまう愚かな私達であります。

 戒律といって仏教徒の守るべき戒めと規則を記した書物には口に関する事柄が沢山あります。「不妄語」(嘘、偽りを言わない)・「不両舌」(二枚舌を使ったり、陰口を言わない)・「不悪口」(他者を誹謗、中傷しない)・「不綺語」(噂話や世間話、心にもない綺麗事など無駄口をたたかない)等、発言についての行為を戒めています。「口は災いの元」と言われるように、口から出た言葉一つで相手を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまうのが言葉の恐ろしさです。それだけに発言には気をつけるようにとの戒めであります。

 

          ひとつのことばで けんかしてSKM_C284e18011616020

          ひとつのことばで なかなおり

          ひとつのことばで 頭が下がり

          ひとつのことばで 心が痛む

          ひとつのことばで 楽しく笑い

          ひとつのことばで 泣かされる

          ひとつのことばは それぞれに

          ひとつの心を持っている

          きれいなことばは きれいな心

          やさしいことばは やさしい心

          ひとつのことばを 大切に

          ひとつのことばを 美しく

 

 たった一言で喧嘩する事もあれば、相手と仲良くなるのも言葉の力です。出来るだけ良い言葉を使うように心がけ、毎日笑顔で過ごすようにしたいものであります。

和尚のひとりごとNo121「どんな時代」

 

和尚のひとりごとで幾人かのご上人をご紹介させていただき、~年にお生まれになって、~年にお寺に出家してなどと書いてきましたが、~年にしましたと書かれていても、歴史に詳しくないと、どんな時代だったのかわからないかと気づきましたので、まずは、法然上人がおられた時代を案内したいと思います。

 

法然上人は1133年にお生まれです、この時代は、平安時代の終わりごろになり、朝廷内では、権力闘争が激しく大きな戦乱も起こっていました。その影響は地方にも及んでいました。1141年におこった法然上人の父である漆間時国(うるまときくに)が明石源内武者貞明に襲われて亡くなる事件もその一例になります。漆間時国 明石貞明らは、地方に派遣された役人で、役人同士での争いも多くありました。

 

法然上人はその後、比叡山へ入り修行されます。比叡山から京都や奈良のお寺に遊学はじめた1156年は、「保元の乱」という大きな戦があり、京の都は亡くなった方や、家族をなくした子供、住む場所をなくした人々がたくさんいたそうです。

その光景をご覧になり、このような人々が救われるにはどうすればいいかと考えられるようになりました。

 

比叡山に戻られ、浄土宗を開かれる1175年まで比叡山黒谷に籠られました。

時代は、「平治の乱」によって、平氏が権力をにぎり、平清盛の時代になります。

 

開宗され、京の都にて活動はじめる1175年以降は平家の権勢に陰りがみえ、源頼朝が台頭してきます。

法然上人が京の都にて布教されていた時代は、源平合戦がおこなわれていた時代です。

鎌倉幕府が出来る1190年代には、法然上人を慕って多くのお弟子さん達が集まっていました。頼朝の奥さんの北条政子とも親交があり、手紙などが残っています。

 

こうしてみると法然上人はほぼ戦乱の時代に活動されたといえます。

混乱した時代だからこそ多くの人々がお念仏によって救われた事だと思います。

 

現代も混乱ではありませんが、混迷の時代ではないでしょうか。

こんな時代こそ法然上人の教えを守り、お念仏を称えましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・・・・・

 

和尚のひとりごとNo120「願うこころは道をつくる」

 

 初夢は「一富士・二鷹・三茄子」と新年を迎え、見ると縁起が良い夢として伝えられています。起源や言い伝えには諸説有るようですが、平穏無事(富士)に、高い志をもって運気上昇(鷹)、怪我無く物事が成せるように(茄子)と、一年を迎えるにあたっての願いが込められております。今も昔も変わらぬ、我々人間の願いであります。出来るだけ万事無事に、運気も高まり、物事が達成出来れば言う事ないのであります。しかし、なかなか上手くいかないのがこの世の中。我々人間の願いとは裏腹に、思い通りいかない無常の世の中であります。

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 そんな思い通りにいかない苦しみの世の中を見られ、悲しみに暮れる我々人間の為に生きる希望の道筋をお立てになってくださったのが阿弥陀如来様であります。悩み苦しむ人々をなんとか救ってやりたい、救わせてくれと願われご修行されて、仏となられたのが阿弥陀如来様。仏となられた阿弥陀様の名を呼べば必ず救ってくださる。

その救いの先、救いの場所が西方極楽浄土であります。この世の中の一番の悩み苦しみである「死」を先に解決してくださっているのが南無阿弥陀仏のお念仏であります。お念仏の御教えは、「死」の苦しみを解決してくださっていると共に、先に亡くなられた方とまた会えるという再会の場所を作ってくださったのであります。

 

 

 

平穏無事に、高い志をもって、怪我なく物事を成していける様にと願いつつ、この世を生き切った先には阿弥陀如来様の居られる西方極楽浄土がある。何かと上手くいかない世の中にあっても、死んで終わりではない事、亡き人ともまた会えるという再会の場所がある事が生きがいになって参ります。その生きがいをもって、今年一年も共々に南無阿弥陀仏とお念仏を申して過ごしてくださいます様にお願い申し上げます。 合掌

和尚のひとりごとNo119「三祖記主禅師然阿良忠上人」

 

一向上人の師であり、浄土宗の三代目である良忠上人について紹介します。

 

良忠上人は、正治元年(1199年)島根県三隅町に生まれ、13歳の時に天台宗寺院の鰐淵寺(がくえんじ)に入り、16歳の時に出家されました。

良忠上人は、その後、禅 真言 法相 華厳 律 倶舎等を修められ、34歳の時故郷の岩見にもどり、多陀寺(ただじ)において5年にもわたる不断念仏を修めます。

修行のさなか生仏法師から、九州におられる浄土宗二祖聖光上人に会う事を勧められ、九州に向かわれます。嘉禎2年(1236年)9月、福岡県の天福寺(てんぷくじ)にてお逢いになり弟子入りされました。

二祖聖光上人の許にて修学し浄土宗の教えの全てを受け継ぎ、翌年の嘉禎3年8月、二祖聖光上人の後継者として認められ、浄土宗の三祖に認められました。良忠上人39歳の時です。

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歴仁元年(1238年)島根県にもどり、広島県など中国地方の教化活動を約10年の間行い、宝治2年(1248年)には、京の宮中にて                「浄土三部経」を講じています。信濃の善光寺(ぜんこうじ)に参拝後関東に向かわれ、建長元年(1249年)には下総国にて教化活動を始められました。現在の千葉県 茨城県を約10年にわたって教化され、文応元年(1260年)鎌倉へと向かわれました。

鎌倉で、北条一族の大仏朝直(おさらぎともなお)の帰依を得て、悟真寺を建立し、この地にて多くの弟子を育成されました。後の鎌倉光戒光明寺です。

健治2年(1276年)には、弟子の要請によっての都に向かわれ、当時、都にて混乱していた浄土宗の統一と復興に尽力します。

弘安9年(1286年)には鎌倉へと戻られますが、翌、弘安10年(1287年)89歳で入寂されました。

 

後に、朝廷より「記主禅師」の号を賜ります。

 

良忠上人は多くの書物を書かれ、弟子も数多く輩出し、弟子たちは全国各地へと浄土の教えを弘めていき、浄土宗の基盤を築かれていきました。

 

今私たちが法然上人の教えを受け取ることが出来るのも、良忠上人や歴代の御門主の尽力のおかげではないでしょうか。

感謝をこめて、南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛・・・・

和尚のひとりごとNお118「一向上人」

 

一向上人は、歴仁2年(りゃくにん)(1239年)筑後国西好田(現在の福岡県久留米市)の国司(現在の知事と裁判官と警察署長を合わせた役職)草野家の一族(草野家当主 草野太夫永平の弟冠四郎永泰の子)に生まれます。

草野家は、浄土宗第二祖聖光房弁長上人(しょうこうぼうべんちょうしょうにん)を支援し、大本山善導寺を建立した大変有力なお檀家さんでした。

 

上人7歳の時、播磨国(姫路市)の西の比叡山と称される「書写山圓教寺」に入り、天台教学を学ばれ、15歳の時に剃髪出家され「俊聖」と名乗りました。

圓教寺で9年間修行され、その後、南都に遊学(奈良のお寺を学び周る)されます。

 

正元元年(しょうげんがんねん)(1259年)上人21歳の時、鎌倉光明寺の浄土宗第三祖記主禅師良忠上人(きしゅぜんじりょうちゅうしょうにん)の弟子になり、浄土教学を学んで、「一向」と名乗り、35歳の時に諸国に遊行(お念仏の教えを広めに行く事)に行かれます。

 

前回の和尚のひとりごとNo117で一向上人を法然上人の曾孫弟子と紹介しましたのは、法然上人― 聖光房弁長上人― 記主禅師良忠上人― 一向上人と知恩院の浄土宗の教えを受け継いでいるからです。

文永11年(1274年)大隅八幡宮に詣でた時に、神託を受け踊り念仏を始めました。

それ以来、九州 四国 北陸方面まで回国行脚し、弘安6年(1283年)に近江国(滋賀県)に入り、地元の有力者であった土肥三郎元頼の支援を受けて、蓮華寺を開きます。

 

弘安10年(1287年)、49歳の時、蓮華寺にて、病を得て床に臥しますが、臨終の際、立ち上がり、数百遍念仏を称えて笑みをふくみながら立ち姿のまま往生されたと伝わっています。

 

そのお姿は、「立ち往生」といわれ、現在に至るまで、尊崇されています。

和尚のひとりごとNo117「本山 蓮華寺」

 

浄土宗には、格別なお寺として、総本山知恩院、大本山が七ヶ寺あります。その他に特別なお寺として、本山が一ヶ寺あります。

その本山とは、滋賀県米原市にあります「蓮華寺」です。

 

蓮華寺の歴史は古く、聖徳太子の発願により、615年に建てられ、当時は法隆寺と称していましたが、1276年に落雷により焼失してしまいました。

 

1284年に一向上人(法然上人の曾孫弟子)が、時の領主土居三郎元頼(どいさぶろうもとより)の支援によって再興し、「八葉山蓮華寺」と改称されました。

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   歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院(ちょくがんじいん)として許勅(きょちょく)を賜(たまわ)り、寺紋として菊の紋を使うことを許されています。

 

 

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創建当時は、南都六宗のお寺で、ご本尊さまはお釈迦さまをお祀りしていましたが、一向上人が再興された時に、阿弥陀さまをご本尊さまとしてお迎えされ現在は、お釈迦さま 阿弥陀さまの二尊がご本尊さまです。

 

時宗一向派大本山の念仏道場として隆盛を極めましたが、後に、浄土宗に帰属して浄土宗本山として今に至ります。

 

境内には、「忠太郎地蔵尊」がお祀りされていて、こちらのお地蔵さまは、長谷川伸 作「瞼の母」の主人公 番場の忠太郎にちなんで1958年に建立されたものです。

 

春には満開のミツバツツジ、夏は涼しさ感じる紫陽花 秋は赤く染まる紅葉 冬には降り積もった雪景色と四季折々の景色が楽しむことができます、一度とは言わず何度でも参詣していただきたいお寺でございます。

 

 

一向上人については次回ご紹介します。

和尚のひとりごとNo116「かんねんのねん」

 

先日、お檀家さんのところで法事のお勤めを終えた後に中学生のお子さまから『「かんねんのねん」て、なんですかと』と質問をうけました。

 「一枚起請文」の「観念の念にもあらず」の「かんねんのねん」です。

 

「念」はお念仏のことで、「観念」は「観想念仏」を意味することは、知っているとのことです。

この観想念仏がよくわからないとのこと。インターネットなどで調べてみたそうです。

「阿弥陀様 極楽の姿を心に想い描いて念ずること」と載っていたそうですが、中学生のお子さんが、「僕もお念仏を称えるときは、阿弥陀様や極楽 ご先祖様の事を想像しているけど、僕が称えるお念仏は観想念仏になるのかな」と聞いて来ました。

 

浄土宗のお念仏は口にだして称える口称念仏です。心で想像していても口に出して称えていますから浄土宗のお念仏ですよと答えてあげました。

観想念仏は、心で念ずるので口に出す必要はありません。

また、観想念仏の心に想い描く想像というのは、目を開けたままで、極楽浄土の世界や仏様 ご先祖様のお姿の細部いたるまで事細かに、例えば、地面の小石一つ、肌の質感や髭の一本々まで、目の前に現わすことですよと伝えると、中学生のお子さんは、「それは、無理」と笑っていました。

 

ありがたきは、口で「南無阿弥陀佛」と称えるだけで救われる私たちのお念仏です。

あらためて、感謝の気持ちを込めて 南無阿弥陀佛・・・・

和尚のひとりごとNo115「棚経」

 

お盆の季節がきました。お盆のお参りのことを「棚経」といいます。

7月中や8月初旬にお参りさせて頂いている時に「こんなに早くご先祖さまが帰ってくるの」とよく聞かれます。

 

ご先祖さまは僧侶のお経によって帰って来られるわけではありません。お盆の特別な時期だから帰って来られるのです。

棚経(お盆のお勤め)はご先祖さまを特別にご供養するためのお勤めです。

たとえるならば、一年ぶりに帰って来られたご先祖さまへの贈り物だと思って下さい。

みなさまと一緒にするお念仏が、最高の贈り物なのです。

早めにするお盆のお勤めは、贈り物を用意して準備万端で、ご先祖さまが帰って来られるのを、まだかな まだかな と待っているうれしさを表しています。

 

お経には、お盆を7月にすると書かれていて、昔は、7月にお盆をしていました。

明治になって、暦(こよみ)が、旧暦から新暦に変わり、お盆の時期(旧暦7月)が新暦では、8月になるので現在のように、8月にお盆をするようになりました。

しかし、お経にあわせて7月にお盆をするお寺も多いです。

 

お盆での大切な事は帰って来られたご先祖さまを、歓迎してご供養(御接待)させて頂くということです。

 

目には見えませんが、必ず帰ってきてくれています。これが信仰なのです。

どうぞこの日ばかりは、合掌、念仏を申して、ご先祖さまを感じて下さいませ。

南無阿弥陀佛

和尚のひとりごとNo114「善導大師」

 

先日、「お仏壇の阿弥陀様の右側の方は善導大師とお聞きしているけれど、どのような方ですか?」と聞かれました。少し紹介させていただきます。

 

善導大師(618―681)は中国の方で、法然上人の時代より500年ほど前の唐の初めごろ長安を中心に活動された方です。「観無量寿経」を学んで、本願念仏、凡夫往生の教えを広められました。

著書には、『観無量寿経疏』 『往生礼讃』 『法事讃』などがあります。

特に『観無量寿経疏』は観無量寿経の解釈本で「観経疏」(かんぎょうのしょ)ともいいます。

 法然上人は「観経疏」を、何度もお読みになり『誰でもが、阿弥陀様を信じて、南無阿弥陀佛とお念仏を称えれば救われる』と確信を持つことができました。

 また、法然上人の夢の中に、善導大師が現れ、「あなたは、お念仏を称えれば救われるという教えを広めようとしている。(それが正しいことである)だからあなたの前に現れたのです。」と語りかけられました。

 法然上人はこの夢によってこの教えは善導大師の真意にかなうことであるとして、人々に教えを広めることに踏み出しました。

 

法然上人が、「わが師は、善導なり」といわれたと伝わっています。

 この夢の中の出来事を「二祖対面」と呼びます。このとき、善導大師の下半分が金色に輝いていました。

 

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 お仏壇の善導大師の下半身が金色なのは、二祖対面の時のお姿を現しているからです。

 お念仏のありがたさを教えて頂いた法然上人、善導大師に感謝の気持ちをこめて、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・・・

和尚のひとりごとNo113「母の日参り」

 

母の日にお墓、お仏壇に、亡き母に感謝の気持ちを込めて花をお供えする「母の日参り」が広がっています。

 

世界各国に母の日はありますが、その始まりはそれぞれ違います。

日本の母の日は、アメリカで始まった母の日が入ってきたものです。

アメリカのアンナという女性が、母親の追悼式に、母親が好きだった花(カーネーション)をお供えし、参列者に配ったことが始まりだと言われています。

この日が5月第2日曜日でした。

母親に感謝の気持ちを表す日として広がり、その後、アメリカの法律で記念日となりました。

 

日本には、明治末から大正の初めごろに伝わりました。

 

亡き母へ感謝の気持ちを表したことが、母の日の始まりでした。

 

母の日は、お墓、お仏壇に、亡き母が好きだった花をお供えしてお参りしましょう。

 

極楽におられるお母様に「ありがとう」の思いを伝えることはできないのでしょうか。

いいえ、伝えることはできます。「ありがとう」と、思いを込めながらお念仏を称えると、お母様にお念仏と共にその思いが伝わります。

 

「母の日参り」 素晴らしいですね。